新米秘書官は完璧殿下のアラを見つけたい。
「不機嫌殿下の溺愛は期間限定!?」と同一世界観ですが、単体でもお楽しみいただけます。
完璧な人ってなんか怖い。
ダリヤは学生時代、王太子であるイムランのことをずっと遠巻きにしていた。
顔がいい。頭がいい。体格がいい。立ち居振る舞いが美しく、誰にでも分け隔てなく優しく、面倒見がいい。感情的になったところを見たことがない。
あまりに完璧だった。
完璧な人、怖い。
殿下は完璧。
殿下、怖い。
美しき三段論法で怖い人認定をしたまま、八年の魔術学院生活を終えた。
***
「ダリヤ・ビント・アルザード、そなたを王太子殿下付き秘書官に任ずる」
「え」
思わず声が出た。
隣の同期アイーシャも「えー」と言った。明らかに羨望の混じった「えー」だった。
ダリヤはもう一度「え」と言った。
「私、第一局志望なんですが」
「知っている」
「私のあだ名『戦闘狂』なんですが」
「知っている」
「かしこまった話し方も得意じゃないんですが」
「知っている」
人事局長はにこやかに頷いた。
「なのになぜですか?」
「殿下付きを希望に書かなかったのが君だけだった」
「……ちょっと意味がわかりません」
「下心を持って殿下に近づこうとするような人間では困る」
それはまぁ、わからないでもない。秘書官の任務そっちのけで誘惑なんかされたら迷惑だろう。
「いや、だからって何も、真心を持って殿下から遠ざかろうとしてきた人間を選ばなくても」
「理由はもう一つある。この人選に関する殿下からの唯一の注文が『臆せず意見を言える人物』でね」
つまり。
「この減らず口のせいですか」
「そういうことだ」
――なんという自業自得。
アイーシャが小声で「羨ましーい」と言った。
――勘弁してよ。
あの完璧殿下のそばで働くなんて、想像しただけで胃がキリキリする。
ダリヤは深い深いため息をついた。
***
王の秘書官による研修を終えて初出仕の朝、憂鬱な気持ちで執務室の扉を叩いた。
「どうぞ」
そんな声に出迎えられて入室すると、王太子イムランは窓際の執務机に向かって書類を読んでいた。朝の光が横から差し込んで綺麗な顔を縁取っている。
――今朝もまた隙のないお姿で。
「本日より秘書官を務めさせていただきますダリヤ・ビント・アルザードでございます。よろしくお願いいたします」
部屋に入るなりそう言って礼を取ると、イムランが驚いた顔で口を開いた。
「随分と他人行儀だな」
「……紛うことなき他人かと存じますが」
「学院で八年も一緒に過ごしたのに? 友人だと思っていた」
ダリヤが黙っていると、イムランは眩い笑みを浮かべた。
――やめてその笑顔やめて。
ダリヤはなるべく視野を狭くすべく目を細めた。
と、その狭い視野の真ん中でイムランが真剣な顔をする。
「ずっと聞きたかったんだが。私は君に何をした?」
「……何の話でしょうか?」
「在学中ずっと避けられていたから」
――こういうところも苦手なんだ。
「全部わかってます」って感じで、それでいて不愉快でもなさそうで、いつも余裕綽々なところ。
「……避けてません」
そう答えたけど、納得してもらえるはずもなく。
彼は困ったような顔をする。
「何かよほど気に障ることをしたのだろうと思うが、心当たりがなくて。謝る機会をもらえないか」
――んもう、やりにくい。
理由を言わずに解放してもらうのは無理そうだ。だから、それっぽいのを挙げておくことにした。
「……殿下が謝るようなことは何一つありません。成績表で殿下の名前がいつも私のすぐ上にあったからです」
ダリヤの答えを聞くなり、イムランは声をあげて笑った。
が、すぐに射抜くような視線を向けてくる。
「君はそんな理由で避けたりしないよ」
ダリヤの喉が「ンゴキュ」と変な音をたてる。
「……でもまぁ、これ以上追い詰めるのはやめておこう。今以上に嫌われたくないからね」
そう言ったきり、イムランがその話題を持ち出すことはなかった。
――本当に苦手。
***
秘書官の仕事を教えてくれたのはハムダンという先輩文官だった。
五十代の丸顔の男性で、目尻の皺が多く、いつもニコニコしている。長年王の秘書官を務めてきたとは思えないほど、いい意味でお堅くない人物だ。
「ダリヤがイムラン殿下につくようになって十日ほどか。どうだい仕事は?」
問われ、ダリヤは正直に「怖いです」と答えた。
「怖い? なぜ? イムラン殿下は理不尽なことはおっしゃらないし、公務にも真面目に取り組まれると思うが」
「そこなんですよ、問題は」
ダリヤは眉を寄せた。
「朝が弱いとか、お腹が減ると不機嫌になるとか、評議会の無茶振りにイライラして貧乏ゆすりをするとか、なにか一つくらいあるでしょう、普通は。なのに毎朝私が執務室に伺うときにはすでにビシッとした服装で待ち構えていらして、執務でお食事の時刻が遅れてしまった日も平常心で、イライラしているところなんて見たこともないんです。その上、私が疲れていないかと常に気を使ってくれて、お茶を淹れてくださったりも」
「それの何が悪いのかわからないんだが」
「あまりにも完璧な人のそばにいると、落ち着かない気持ちになりませんか?」
「あぁ……隙がないから緊張する?」
「そうですね、たぶん」
おかげで肩が凝って仕方ない、と言うとハムダンは愉快そうに笑った。
ともあれダリヤは完璧殿下のもとで一人前の秘書官になるべく努力した。
――ここで認められれば他局への転属も叶うかもしれないし。
イムランは相変わらず完璧だ。
疲れていても弱音を吐かない。書類の山がどれほど積まれていても、姿勢が崩れることがない。部下のみならず護衛や王宮の使用人に至るまで、自身を取り巻く全員の名前を把握している。さらに、それぞれの体調の変化にまでよく気づいて早退を勧めたりもする。「奥方の誕生日だろう。今日は早く帰りたまえ」と言っているのを聞いたときはさすがに引いた。完璧すぎる。
――なにかひとつくらい欠点があれば、親近感も抱けそうなのに。
そんな完璧殿下は定時になると必ずダリヤに言う。
「今日はここまでにしよう」
「でも、この書類が——」
「残りは私がやっておく。時間だから君は上がるんだ」
執務室を追い出され、去り際に廊下から執務室を覗いたらイムランが山積みの書類を黙々と片付けていた。
――あの人に秘書官は必要なのかな。
ダリヤはお腹の底の方がずしんと重くなるのを感じた。
その感覚の正体はよくわからなかった。
***
「本っ当に完璧ですね」
五十日目の朝、ダリヤはついに漏らしてしまった。
ティータイム、隙のない所作で茶をしばいていたイムランがこちらを見る。
「完璧?」
出てしまったものは仕方ない。
誤魔化すのは諦めて頷いた。
「そうです。いくら探しても殿下のアラが見当たらなくて」
「アラを探されていたとは。気づかなかったな」
イムランはそう言って口角を上げた。
「完璧な人間などいないよ」
「私だってそう思ってたんですよ。殿下にお会いするまでは。秘書官として四六時中一緒に働いてたら一つくらいは見つかるだろうとも思っていました。でも困ったことに、まだひとつも見つからないんです」
ダリヤは手に持ったお茶を机に置いた。その隣には「この菓子、好きだったろう」とイムランが用意してくれた茶菓子が置かれている。好きなお菓子の話をした覚えはない。怖い。
「『困ったことに』? なぜ困るんだ?」
何と答えれば良いのか。
完璧すぎて怖いんですもん、とは言いづらい。
「君が私を嫌っていることと関係がある?」
「嫌ってませんて」
「そうかな」
「そりゃあ殿下のことが好きで好きで夜も眠れない人たちと比べたらどうだかわかりませんが」
学生時代にイムランの周りにいた子たちを思い出す。みんなキレイで明るくて自信に満ちていて、ダリヤとは違う生き物だった。
ダリヤは昔から勝気で、サバクギツネみたいな顔をしているし、背も高いし、戦闘魔術が得意だし。そして、恋というものがまるでわからない。
学院の低学年の頃、仲の良かった先輩に恋心らしきものを抱いたことはあったけど「強い女の子っていいよね」とか「君といる時が一番楽しい」とか「君の媚びないところが好きだ」とか言ったその人は、結局ダリヤとは正反対のふわふわした子と付き合った。その人の好みに合わせて似合いもしない巨大リボンを頭につけて、ラブラブな二人を前に立ち尽くす自分があまりに滑稽だった。
――『ダリヤ。よかったら――このハンカチ使って』
廊下ですれ違った完璧殿下は今よりずっとあどけない顔をしていたけど、あのときも腹が立つくらい完璧だった。
頭のリボンをむしり取りながら歩いていたダリヤは、まだ泣いてなかったのに。五秒後に涙が出てくることに、なぜ彼は気づいたのか。
借りたハンカチは返しそびれたまま、今も持っている。
そうしてダリヤは学んだ。
恋はわからん、向いてない。
得意なことにリソースを割いたほうがいい。
かくして残りの学院生活を学業に全振りしたが、それでも敵わなかったのが首位独走の完璧殿下というわけだ。
ダリヤは目の前のイムランを見つめる。
「――そもそも、秘書官に口答えされるのがお嫌なら『臆せず意見を言える人物』なんていう条件をつけなければよかったのでは?」
「嫌だと言った覚えはないな。この人事には満足している。ただ、君に不愉快な思いをさせるのは本意ではないから、君の言う『完璧』でなくなるための方法が何かあるといいんだが」
そう言ってイムランは「どうすればよいと思う?」と訊ねてきた。
ダリヤは「うーん」と唸った。
「そうですねぇ……中身はそう簡単に変わりませんから、変えるとしたら見た目でしょうか。髪の毛を崩してみるとか……」
「崩す? こうか?」
イムランがピシリと撫でつけられた黒い髪の毛に指を入れ、左右に振るように動かして乱した。顔の前に垂れた毛が額に影を落とす。先ほどまでそこにいた隙のない王太子は消え、どこか気怠げで、余裕を滲ませた男の顔になった。
伏せた瞳が持ち上がり、ダリヤを捉えた。
「どうだ?」
たしかに髪は乱れている。
が。
「ダメです全然崩れてません完璧です完璧の種類が変わっただけです」
「そうか?」
「ちょっとこっち見ないでもらっていいですか」
ダリヤはそう言ってイムランの方に手を差し出し、自分の視界から彼の姿を消した。
「……その反応は傷つくな」
「傷つかないでください。褒めてますので、たぶん」
「褒められてる気がしないんだが」
なんか言っているが、それどころじゃない。
ダリヤはゆっくりと深呼吸を繰り返す。
忌々しいほどの美男子が乱れた前髪の隙間から自分を見つめてくるなんて、ダリヤには刺激が強すぎた。
「大丈夫か」
「いえ。寿命が少し縮んだかもしれません」
「由々しき事態だな」
イムランは楽しそうに笑った。
それからイムランはときどき「これはどうだ?」と崩れた姿を見せてくるようになった。
長衣のボタンをひとつ外してみるとか、脚を組んで椅子に座るとか。
不意打ちを食らうたびにダリヤは書類を取り落としたり、変な声を上げたりした。
「ダリヤ、大丈夫か」
今日も「少しヒゲを残してみた」という攻撃を食らって息を整えていたら名を呼ばれ、息が余計に乱れて整わなくなる。
「そう呼ぶの、やめていただけますか」
「じゃあ何と呼べと?」
「秘書官、でよろしいのでは」
「それは職位で名前じゃないだろう」
「この部屋に秘書官は一人しかいないので問題ないかと」
「なぜ名で呼んではいけない?」
「仕事の効率が下がるからです」
学院に入学したばかりの頃、教室でイムランが落としたペンを拾ったことがあった。
『ありがとう、ダリヤ』
輝く笑顔でそう言われ、腑抜けたせいで次の授業が何一つ頭に入らなかった。
そう説明すると、イムランはやはり笑う。
ダリヤとしては笑い事じゃないのに。
――だいたい、笑ってるときまで顔が左右対称なんて、そんなことある?
イムランのせいでときどき腑抜けつつも、ダリヤはなんとか順調に秘書官としての経験を積み上げていた。
――早く別の局への異動願いを出せますように。
***
夕方になっても朝と同じ姿勢で仕事をするイムランの隣で凝り固まってしまった肩をモミモミしていたら、執務室の扉がトントン、と叩かれた。
「ダリヤ、今日も、いい?」
そんな声とともにひょっこりと顔だけを覗かせたのは、イムランの弟で第二王子のタリクだ。
イムランとよく似た黒髪に琥珀色の瞳の少年で、いつも人懐っこい笑みを浮かべている。
先日「授業で攻撃魔術を教わったんですが、うまくできなくて」とイムランの助言を請いにやって来たところ、「それなら適任がいる」とダリヤが差し出されることになった。
以来、仕事後にちょくちょく練習に付き合っている。
「タリク殿下、もちろんいいですよ。少しお待ちを」
肩を回しながら仕事の片付けをする。
どうせ定時には執務室を追い出されるので、そのあと練習の時間はたっぷりある。
王宮の練習室で思う存分魔術を放てる機会なんてそうそうないから、実はダリヤも楽しんでいた。
「ダリヤはどうしてそんなに上手いの?」
「幼い頃に父や兄とよく術をかけあって遊んでいたんです」
「そうか、ダリヤの父君は第一局の筆頭魔術師だったね」
タリクは納得したように頷いた。
第一局は軍事警察組織だ。その中でも一対一での接近戦を得意とする支局で筆頭魔術師を務めている。
そんな父に散々仕込まれたせいで「戦闘狂」なんて呼ばれる武闘派の娘に育ってしまったというわけだ。
「タリクがダリヤと呼ぶのはいいのに、私はダメなのか?」
練習を覗きに来たイムランが何やらぼやいていたが、聞こえなかったことにした。
***
タリクが学校で襲撃されたのは、そんなある日のことだった。
一報を受けたイムランはすぐに王の元へ。ダリヤも彼の後に続いた。
「幸いタリクに怪我はない」
王は落ち着き払っていた。
「襲撃者は?」
「すでに拘束されている。学生だ。タリクの友人だ」
王が出した名はダリヤも知っていた。
昨年まで同じ学院の生徒だったからだ。
襲撃者はタリクと一番親しい学友だった。
「理由は……?」
「タリクに何を聞いても答えない。相手方から話を聞くしかなかろうな。どうやら学費が払えず退学することが決まっていたようだが」
ダリヤはそのとき、イムランの横顔を見ていた。イムランはいつもどおり冷静だった。
王や王妃が出ると話が大きくなるからと、イムランが父兄として学院・相手方との話し合いに参加することになった。
ダリヤはイムランの供として学院へ出向き、現場となった魔術練習室を見た。壁や天井のあちこちに抉れたような痕があった。
「ダリヤ。君は攻撃魔術が得意だろう。この痕跡からどんな術かわかるか?」
「……はい、いくつかは」
どれも戦闘に特化した、殺傷力の高い術だ。学院の授業では習わない。ダリヤも人に対して使ったことはない。
「タリクは一切反撃しなかったらしい。つまりこれは全部相手がつけたものだ」
――これを学生が、友人に……?
本気でタリクを傷つけようとしたようにしか見えない。なぜ。
ナディアの無言の問いに、イムランが答える。
「タリクよりも成績が劣っていたせいで奨学金をもらえず学院を去らねばならないことを恨みに思ったようだ」
ぎりり、とダリヤの奥歯が音を立てた。
――自分が辛い境遇にあるからって、理不尽な怒りを他人にぶつけていいわけじゃないのに。
タリクは無傷とのことだから、防御魔術を使ったのだろう。
でも、防御魔術で心は守れない。魔術練習に特化した頑丈な部屋が傷だらけになるほどの攻撃を受けて、平気なはずはなかった。
学院は相手学生を即日退学処分とした。が、学費が払えず期末での退学が決まっていた学生にとって、処分は痛くも痒くもないだろう。
学生の親は「破産状態にあるので金は払えない。こちらの苦しい事情も汲んでほしい。息子の処罰は任せる。親族を頼って遠い地に行くのでサラバ」という内容を、ものすごく回りくどく話した。
ダリヤは認識に齟齬がないよう話し合いの内容を書き留めておく係だったが、途中で二十回くらい口を挟みたくなった。だが口を開こうとするたびイムランに視線で制され、黙っていた。
話し合いの間、イムランの表情は穏やかだった。いつもの完璧な顔のまま、必要なことを話した。
経緯の調査、王への報告。指示は的確で無駄がなかった。完璧だった。
ただ一つだけ、気づいたことがあった。
机の下で握られたイムランの手が震えていた。
***
その夜、ダリヤは定時になるなり執務室を飛び出した。王宮を出て早足で向かうは魔術学院だ。タリクを襲った学生の親が夜のうちに寮から荷物を運び出すと聞いている。
「ダリヤ。どこへ?」
背後から呼び止められ、ダリヤはフゥと息を吐いた。
振り向かずとも声の主はわかっている。
完璧殿下だ。
「……少し買い物へ」
「なら道を間違っているようだ。そっちに店はない」
彼には全部お見通しらしい。
――本当に、こういうところが嫌だ。
「……学院へ行こうとしていました」
「報復を?」
「いえ。ただ、ちょっと荷物のひとつやふたつ、吹き飛ばしてやろうかなと」
「それを報復と言うんだよ」
ダリヤは眉を寄せた。
「……許せなくて」
タリクはまだ十四歳。
あれだけの悪意を向けられれば大人でも傷つく。相手が親しい友人ならば尚更だ。その上、当然あるべき謝罪も受けられないまま「お前のせいで学院を辞めなければならなくなった」と謂れのない罪悪感を植え付けられて苦しんでいる。
そんな状況なのに彼は王と王妃に「友人が学院に残る方法はないか」と問うたという。
「……本当に許せません」
「そうだな」
イムランが静かに言った。
彼が肯定するのは意外だった。
ダリヤは机の下で震えていた彼の手のことを考えた。
「――だが、これはタリク自身が乗り越えるべきことだ。手出しは無用。王宮に戻るぞ」
そう言われ、大人しくイムランの後をついて歩き出した。
「……どうしてわかったんですか? 私が学院に向かうって」
背中にそう問うと「はは」と軽やかな笑い声が返ってきた。予想外の返答に眉を寄せて彼の背中を見る。
「君はもう覚えていないだろうが、昔同じようなことがあった。忘れもしない、まだ学院に入ったばかりの頃だ。当時の七年生に絡まれた。何が癪に触ったのか、くだらない術をあれこれかけられて『やり返せるもんならやり返してみろよ王子様』と煽られた。どうしたものかと思っていたら、怒髪天状態の君が現れた」
そう言って笑う。
「それで『殿下は何もしなくていいです、代わりに私がやりましょう』って。必死に止めた」
ククク、と肩を揺らす。
ダリヤはそのときのことを覚えていた。
――あぁ、そうだ。あのときも。
彼の体の横で握られた手が小さく震えてるのを見て思わず駆け出したんだった。
――もしかして、いつもそうなのかな。
「変わらないな、君は。あれから何度も同じような姿を見かけた。しょっちゅう誰かの前に立ちはだかっていた」
「おかげでついたあだ名が『戦闘狂』です」
「そうだな。そういうところがずっと好きだ」
こちらに背を向け、星空を見上げながら彼はさらりと言った。
――え?
聞き間違いだろうかと思った。
イムランが振り向いた。完璧な造形の顔に見つめられ、ダリアの心臓がドク、ドク、と音を立てる。助走みたいに少しずつ速くなるその鼓動を必死に落ち着けながら彼を見つめる。
――聞き間違いじゃ……ない?
琥珀色の瞳はまっすぐにダリヤを見つめる。
――ううん、ダメ、違う。
頭に大きなリボンをつけた昔の自分が「忘れたの? 勘違いしちゃダメ」と警告してくる。
こんなことを言っておいて、きっと明日くらいに可愛い女性との婚約が発表されるんだから、と。この「好き」には「人として」がつくんだから、とも。
――でも、殿下はそんなことするかな?
学生時代から絶対に誤解を生まないよう完璧に立ち回っていた人が……?
自分がどんな顔をしているかわからない。たぶんこわばっていると思う。
「ダリヤ」
「……はい」
琥珀色の瞳が夜の星空の下で美しく輝いている。
「私の情けない話を教えようか」
唐突な問いに驚いたが、黙って続きを待った。
「いつも図書館の三階西側の窓際で勉強している同級生がいたんだ。ときどき窓の外を眺めて楽しそうに微笑んでいた。なにがそんなに楽しいのか、その視線の先に何があるのか、ずっと聞いてみたかった。でも聞けなかった。その人があまりにもあからさまに私を避けるから」
ダリヤはその答えを知っていた。
「……中庭の噴水を眺めていました。入学初日にキョロキョロしながら歩いてたら噴水に突っ込んだんです。それを助け起こしてくれた親切な子がいて。ビショビショだった服を魔術で乾かしてくれました。噴水を見るたびにそのことを思い出していました」
イムランはじっとダリヤを見つめてくる。
「助け起こしてくれた人が王太子だと気づかなかったから『ありがとう、あなたも新入生? 今日からよろしくね!』なんて言っちゃって。後から気づいて恥ずかしくて消えたくなりました」
誰もが彼と話したがり、友人に――あわよくば恋人に――なりたがった。
噴水の少年は遠い存在になった。
「君もあの出来事を覚えていたのか」
「記憶力はいいほうです」
だから困る。
ずぶ濡れで恥ずかしくてたまらないダリヤを周囲から見えないように隠してくれたこととか、差し出された手とか、すべて覚えているから。
「殿下こそ、お忘れかと」
「私も記憶力はいいほうだ。王太子だと気付かず気軽に話しかけてくれたのが嬉しかったんだ」
イムランはまっすぐにダリヤを見つめてくる。
「ダリヤ。もう一度聞くけど、学院時代に私を避け続けた理由は?」
「成績が――」
「それが嘘なのはわかっている。いつも二位の座を争っていたアイーシャとは仲が良かったくせに、信じるわけない」
ダリヤは観念した。
大きく息を吸った。
夜の空気が胸を満たす。
それを吐き出しながら口を開いた。
「……怖くて」
「何が?」
「殿下が」
イムランは眉を寄せる。
「なぜ怖い?」
「……完璧すぎて」
そう答えると、イムランの眉根のシワが深くなった。無理もない。言った本人であるナディアもしっくりきていないのだから。
――怖いのは本当に、完璧だから?
違う、彼はきっと「完璧な王太子」じゃなく「完璧であろうと常に自分を律している人」だ。
完璧なんかじゃない。
それを知ってなお怖い。
つまり、完璧だから怖いわけじゃない。
そうじゃなくて――
「気持ちを……見透かされそうで」
かすれた声が出た。
だってときどき、ダリヤよりもダリヤの気持ちに詳しいくらいだ。
「どうせ殿下はそれもわかってたんでしょう」
「全部わかれば苦労はない」
「とか言って、いつも先回りするじゃないですか。そういうところが怖くて逃げ出したくなるんです」
「それは誰よりも君を見てるからだよ。完璧だからじゃない。大体――」
イムランが一度言葉を切って唇の端に笑みを浮かべた。
「完璧な王子が秘書官に手を出すか?」
「……手は出されてませんが」
「これから出すんだよ」
ひゅっと喉が音をたてた。
減らず口の戦闘狂は、言葉を返すことも、近づいてくる顔を張り倒すこともできなかった。
FIN
弟王子タリクが八年生になってからのお話が「不機嫌殿下の溺愛は期間限定!?」です。




