よみがえる月、恥をさらす予定
店名まで詳しく覚えていないが、とある飲食店に立ち寄ったその夜、僕は捉えどころのない不安に気を病んでいた。自分が孤独の檻の中で絶望に似た月明かりに照らされているという不安。その檻は国道に面していて、時々パジャマ姿の女子高生が覗きにくる。しばらく目をつむって、十分後くらいに痺れたまぶたをなだめるように目を開くと、檻の中にライオンがいて、僕の内臓の匂いを丁寧に嗅ぎ分けている。
いつのまにか僕はカウンター席に座り、味噌ラーメンを注文している。あたりには老人の意味のない悪臭がたちこめていて、不快だ。カウンター席はパーテーションで仕切られていて、各種調味料が机の上に整然と並べられている。意味のない味付けにむせかえる老人たちの哀れな声が店内に響きわたり、その度に壁に取り付けられたテレビの音量が上下する。空気の振動が不安定に続き、僕は耳を塞いでそれが止むのを待つ。
味噌ラーメンがドカンという音を立ててテーブルに置かれる。店員の舌打ち。情けない日常。僕は割り箸を丁寧に割ると、それを使ってラーメンをすする。無難にまずい。何度かすすると、これは食べ切れるわけがないと諦め、カウンターに小銭を放り投げると、お釣りはいらない、と言葉を打ち捨てて店を出た。
外は涼しく、おそらくみじめである僕を満月が呆れたように照らしてくれていた。店内から爆音の舌打ちが鳴り響いて、外にも聞こえた。
夜の路地には犯罪者の香りが漂っていて、呼吸をするだけで嫌な気分になる。爽やかな夜風が枯れ葉を舞い上げて、そのまま架空の空中庭園を作り上げる。無益なことはすまい、と意気込んで外へ出たきたはいいものの、結局、何にも出くわさずに家までたどり着いてしまう。静謐な舌打ち。不可視の出来事に無意味な苛立ち。しかし、情けない心情は深い闇の中へ溶け込んでゆき、それはやがて月を取り込んで一つの衛星を形づくる。衛星は地球よりやや小さく、紫色をしている。日中の方がよく目立つ色だ。夜には似合わない。その衛星を開拓しようと試みる教団の集会が、今日も路地の奥の冴えないビルの三階で行われていた。
僕の不安は形をなくし、さまざまなものを取り込み、宇宙をなだらかに澄ます無機物と成り果てていた。街はだんだんと傾斜をつけ、犬は巨大化、猫は凶暴化した。抵抗した新人類は、地球型惑星への逃亡を試みて、宇宙船の建設を開始する。
僕の不安は色を失う。僕の不安は重力を無視する。僕の不安を操れるのは僕だけのはずなのに、どうしてかうまくいかない。リモコンを可視化しても無意味だった。曖昧な言葉の響きにとらわれた今朝は、雨が降っていてとても憂鬱だった。不安は僕の周りを周遊している。下品なことを考えて現実から逃避しても、その不安は永遠に僕に取り憑く。知らない街で新たな刺激を求めても、それは同じことだった。
僕はだんだんと自我を失っていく。その中で、キーとなったのが恥という感情だった。
ダムに飛び降りる青年を説得しても、それがうまくいかず、青年が生命を閉じる瞬間をしっかりとその目で見てしまった女性に出会ったことが始まりだったのかもしれない。きっかけはいつも単純なのだ。
彼女は成人したばかりで、発する言葉のすべては愛情に満ちていた。僕はこんな冴えない人生で彼女に出会えるなんて思ってもいなかった。
世界が崩壊し、感情の揺さぶられるニュースがテレビに取り憑いた時も、彼女はそばで焦る僕のことを優しく支えてくれた。永遠は風に乗って素早く運ばれてきた。しかし、それは嘘だった。
彼女と二人で夜の山奥に星を見ようと出かけた。蚊の大群が竜巻のように車のフロントガラスに当たって打ち砕けた。それを見て二人で変な顔をしていた。僕のハンドルを握る手はいつも少し頼りない、と彼女は口を開けて言った。それで僕がハンドルを握る手を強めると、彼女は優しく笑った。
暗がりにイノシシがいたので、停車して、イノシシが道路を横切るすがたを眺めた。その時間は永遠のように感じられた。そしてそのすぐ後に、目的地についた。
暗闇の駐車場に車を停めて、ドアを開ける。夏の夜の湿っぽい空気を体にまとって、君は何度かうなずいた。口を固く結んでいる。僕は彼女と手をつないで、森の中にあるウッドチップの遊歩道を歩いていった。もう星空を見ることはできるが、目的のスポットに辿り着くまではあえて空を見ないように気をつけた。
何度かつまずきそうになると、彼女が手を差し伸べて微笑む。これは、夜中の誠実な共同作業の様相を呈していた。しかし、彼女が余裕をなくすことは一度もなく、スポットについた。
そこだけ木が一本も生えておらず、空き地のようになっている。地面はコンクリートのため、歩きやすい。少し前に進み、ふたりで同じタイミングで夜空を見上げた。綺麗な星空が広がっていた。空気が新鮮に入れ替わっていくのを、不確かに感じた。映画のような正確さで星が綺麗に光っている。彼女は指をさして、あの星はなんていう名前なんだろうね、と僕にささやく。僕は首をかしげて何も言わない。足音が聞こえてきて、僕は音がする方に目をやった。すると、中年の男性が恐ろしい形相でこちらに近づいてくる。僕は彼女を急いで後ろに回し、中年男性と向かいあった。距離はもう二歩先くらいだった。中年男性は訳のわからない言葉を鬼の形相で叫ぶと、僕の頭を思いきり殴った。僕は力なく倒れた。地面は冷たく、硬かった。彼女は叫び声をあげ、倒れる僕の後ろで腰を抜かしていた。僕は震えながらも立ち上がるが、中年男性は僕の腰を蹴り上げる。僕はまた倒れる。話は急に途切れるが、これが僕の恥だ。
恥はやがて形を成して、世間を渡り歩くようになる。不安と恥の幻想的なダンスは続く。原始的なリズムはどこから鳴り響いているのだろうか。それは、暗闇から。未来永劫、光を放つことのない絶対的な暗闇。マンホールの下、路地の果て、お化け屋敷のスタッフルームに続く通路、使われていない霊安室。闇は闇なりの考えをそれぞれに持ちながら、個性を発揮する場所を求めて右往左往するのだが、その動きに法則性といったものは全くなく、あるのはただの闇としての存在、闇自体であった。呼吸をしても、空気は微動だにしない。固定された暗闇は、地獄をも反映している。闇を抜けることはできないのだ。待つのは永遠の闇。出ることはできない。君はこのまま闇の世界に閉ざされて生きていく。絶対に脱出不可能だ。光など浴びることはできない。物体を捉えることもできない。会話もままならない。どうしようもないのだ。とりあえずは、この闇の中で、思考でもしているがいい。それくらいしかすることがないだろう。残念と、そう思うかもしれないが、それは全て自分のせいなのだ。あとは、闇の中で、ただただ生命を終えるまで待つしかないだろう。この文章を終わらせてしまえば。




