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私がお仕えする男爵夫妻は、いたく尊い

作者: 石山 京

 わたくしの主人は他人の心の解らぬ人でした。子爵家当主としてそれが褒められるべきことか貶されるべきことか、それは一概には言えないでしょう。しかしながら結果として子爵のその特徴は、特長ではなく欠点として彼の未来に闇を落としたのです。


 子爵は才に溢れる方でした。それが故に、他の貴族から疎まれることも多い方でした。その状況を鑑みればやはり、他人の心が解らぬということは紛れもなく短所であったのでしょう。その才能と輝かしい未来を疎んだ派閥内貴族の罠に嵌まり、子爵は立場を追われました。


 国王も子爵の才は高く買っておりました。その大きすぎる立場故か表立った贔屓は多くありませんでしたが、通常であれば処刑であってもおかしくない衆論の中でも子爵、もとい元子爵は田舎で穏やかな生活を許されました。さらには子爵の治めていた領地も、名目上は新興貴族となる子爵の甥が後釜となることを許されました。


 子爵にお仕えしていたメイド長は、子爵を支えきれなかったこと、またその七十に差し掛かった年齢を理由に子爵の失脚と同時に隠居されました。新しく着任される男爵は二十八歳とまだ若い新興貴族。経験の足りないものを出すわけにはいかないと、繰り上げのような形で私がメイド長を務めることとなりました。こうして私は、新興男爵家のメイド長となったのです。


 私の新しい主人もまた、ある意味では他人の心が解らぬ方でした。ですが以前お仕えしていた子爵と異なる点は、敵意には敏感であったということでした。


 追い落としたはずの子爵の甥が跡を継いだということは、実際にはそのような事実は無かったにもかかわらず、一部の貴族を刺激してしまいました。

 子爵であれば些事として気にかけず、手遅れになるまで放置していたことでしょう。新男爵は違いました。相手の貴族を苛烈に攻め立て、その不法の証拠を王に突き出したのです。己の傷とならぬよう犯罪とはなる一歩手前の行為のみでそれを成し遂げたその手腕と冷血さは、子爵との血の繋がりを感じさせるものでした。


 かかるように優秀な主人に仕えることとなった私ではございますが、男爵にお仕えし始めて間もない頃にある事件がございました。その事件をきっかけに、私の心にある強い確信が生まれたのです。


 この男爵は、否、この男爵夫妻は必ずや、王国の柱となるであろうと。


 いずれ国を支える家の興りを後世に伝えるため、拙いながらも私が筆を取らせていただいた次第でございます。


 順を追って、お伝えしていきましょう。男爵家の、ともすれば王国の未来を大きく変えたあの出来事の始まりは、無視されても何ら違和感のない、ある陳情でございました。




「こちらが本日ご確認いただきたい書類でございます」


 ある何の変哲もない一日の朝、男爵に執事長が書類を手渡しました。百を超える報告書、あるいは陳情書に目を通し判を押す。貴族としては日常の光景でございます。

 男爵も初めてこの領地に来られた際はその量に驚嘆し、辟易しておりましたが今では慣れたもの、と言いたいところなのですが辟易していらっしゃるのはお変わりありません。諦められただけでしょう。渋々と書類を受け取っていらっしゃいます。私はそれを部屋の隅で見守っておりました。


「……これは?」


 半分ほど書類の確認が進んだ頃でしょうか、黙々と、その地位について数ヶ月とは思えぬ手際でいらっしゃった男爵が手を止めました。ひら、と一枚の紙を執事長にお渡しになります。


「こちらは代官に届きました陳情を男爵に裁定してほしいと上申されましたものにございます」

「それは見れば分かるが、なぜ、これが?」


 あまりに不審であったのか、男爵がその内容を読み上げられました。


「街に新しく開業した学舎なるものの監査をお願いしたく存じます。その学舎は大人子供関係なく学問を教えると謳い人を手広く集めているのですが、一度通うと以前流行した麻薬でも与えられているかの如く抜け出せなくなってしまうともっぱらの噂でございます。良からぬ魔女の棲家であるとの話も聞いており子供に一人で街も歩かせられないと妻も嘆いております。お忙しいこと重々承知しておりますが、何卒ご一考いただけますと幸いでございます」


 読み終えた男爵がその陳情書を机に叩きつけました。


「麻薬という言葉は気にかかるが、火のないところに煙を幻視するのが世の常。こんなものは私が出るほどこのとでもないだろう。まさか、本当に麻薬が使われたのか? こんな、一般の平民に広まるほど馬鹿な手口で?」

「代官が調査をいたしましたところ、麻薬が使われている痕跡は一切確認されなかったとのことでございます」

「ならばこんなもの捨て置けば良いだろう」


 男爵は回りくどいことがお嫌いでございます。些か不機嫌な様子で執事長にそうおっしゃいました。

 しかしながら、執事長はそれに怯える様子もなく一つ言い添えました。元より代官も男爵が直接任命した有能な人物、無駄な報告を上げるわけもございません。


「麻薬の件とは別に一度男爵にもこの学舎なるものを見てほしいと、代官より言伝をお預かりしております。何でも、その学舎で行われていることはあまりにも異常であり、このまま許可して良いか自分では判断できないと」


 そこまでお聞きになって、男爵はため息を吐かれます。額に手を当て、椅子に座ったままギロリと斜め上の執事長を睨め付けました。


「……そういうことは先に言え」


 執事長が愉快げに笑い出しても男爵は何も仰らず、ただそれを不愉快そうに見るだけ。男爵が男爵となられたときに貴族としての仕事を教えたのが執事長である以上、男爵は彼に強くは出られないのです。


 些か厳格で、他者の心への配慮に欠ける言動も目立つ男爵が屋敷内で嫌われていないのには、このような人間らしい一面が一役かっておりました。

 メイドの間で稀に見せるそのような面がブリザードキャットのようで可愛らしいと噂されていることは、ご本人には内緒でございます。




 男爵がご自身で学舎の視察を行われる際、執事長、メイド長である私、及び数人の騎士が同行いたしました。


 事前に男爵が視察に訪れることはお伝えしておりましたので、馬車が学舎の前に到着した時には代表者であるという女性が我々を待っておりました。


「面を挙げよ。貴殿がこの学舎とやらの代表者か」


 跪いた女性が顔を上げて男爵に目を向けました。


 驚きましたのが、この女性がおそらくは男爵よりも若く、まだ二十を少しこえたくらいであろうということでございます。さらには、その年齢を感じさせないほど理知的な瞳も印象的でございました。

 それが故に、理解できたのでございます。あの陳情書にあった魔女とは彼女のことを指しているのであろうと。この年齢と不釣り合いな落ち着き様が、事情を知らぬ人々を恐怖させているのだろうと。


 男爵もおそらくは同じ結論に至ったことでございましょう。しかしながら、男爵はそのような些事を気に掛けられる方ではございません。じっと、女性の反応を観察しておりました。


「はい。お初にお目にかかります。不遜ながら学舎で教鞭をとっております、ティアナと申します。姓はございません」

「……学舎、とは?」

「平民が学問を学ぶ場所にございます。今は主に読み書き、簡単な計算を教えております」


 平民とは思えない丁寧な口調に衝撃を受けたことを覚えております。街で暮らす平民は粗雑な口調で読み書きなどできるものは居ないと、それが常識となっていた私たちにとって、それはそれは予想外の事態でございました。


「……貴殿は、どこでそれを学んだ? まさか独学というわけでもあるまい」


 そこでティアナ様は黙り込みました。今までは真っ直ぐ男爵を見て返答していたにもかかわらず、俯き、地面を見つめておりました。


 訝しげに、男爵が問いかけます。


「何だ? 言えぬのか?」

「……大変、申し上げにくいことにございます」

「構わん。話せ」


 前にも申し上げたことではございますが、私の主人は他人の心の解らぬ人でございます。端的に言えば、少々配慮が足りない方なのです。


 しかし平民が貴族にそのように言われてしまえば、断るという選択肢はございません。ティアナ様が恐る恐る、その顔を上げました。


「私が以前住んでいた場所の近くに、以前貴族であられた方が住んでいたのでございます。私はその方から、学問を教えていただきました」


 空気がひりついたように、ティアナ様は感じられたことでしょう。


 以前この街を治めていた子爵が失脚し新たに今の男爵がその地位についた、それは街の間で広く知られる事実であり、未だ風化するほどの時間は経っておりません。不敬であると、相手が相手であれば捕らえられても不思議ではない発言にございました。


 ええ。あくまでも、相手が相手であればの話でございます。


「構わんと言っただろう。その程度のことで手間を取らせるな」


 男爵が無愛想に仰ると、ティアナ様がクレイジーフォックスにつままれたような顔をされました。

 男爵は、貴族としては少々変わった方なのでございます。きっとそれが、彼女にも伝わったことでございましょう。


「こんな学舎なんてものを作っておいて、今更何を怯えているのか」


 呆れたような男爵のお言葉が私の耳に、そしておそらくはティアナ様の耳にも届きました。男爵との対面ということで取り繕っていたのであろう表情が崩れ、綺麗なお顔に微かながら怒りが見受けられます。すぐにそれは消えて行きましたが、男爵の目を誤魔化すことは不可能でございました。


 ティアナ様の内心を見抜いた上で、さらには見抜いたことがティアナ様に伝わってしまうような表情で、男爵が仰います。


「ティアナと言ったか。話が聞きたい。ついて来い」


 ピクリと、ティアナ様は跪いたその肩を震わされました。


 しばらくの間、沈黙が私たちの間に降り立ってございました。男爵がそのようなことをおっしゃったのは何故なのか、自分は罰せられるのか。様々な疑問がティアナ様の頭の中を巡ったことでしょう。しかしながら、聡明であらせられる彼女だからこそ、考えても栓なきことだと理解できたようでございます。


「…………承知いたしました」


 首を垂れたティアナ様を見届け、男爵は彼女に背を向けました。その背に向かって、ティアナ様が声をおかけになられます。


「恐れながら、今日の授業を中止する旨を学徒まで伝えに行ってもよろしいでしょうか」

「……今日も、授業があるのか?」

「その予定ではございました」


 ふむ、と男爵が足を止めておとがいに指を当て、少し俯きました。振り返り、再びティアナ様を見据えられます。


「変更だ。私もその様子を見させてもらおう。話を聞くのはその後だ」




 学舎の中に入り、男爵を含め私たちは後ろで授業の様子を視察しておりました。


「今日は特別に、部屋の後ろに男爵様がいらっしゃいます。ですが、特に気にせず授業を行なって良いとのことでしたので普段通り進めていきましょう」


 ティアナ様は先ほどの一件でどうやら吹っ切れたようでございました。無駄に気を回されることをこの男爵は嫌っているということをあの短い間で理解したのか、はたまたもはや手遅れだと諦めたのか、あるいは面倒だと考えることをやめたのか。いずれの理由かは存じ上げませんが、その対応は正解であったと言えるでしょう。


「それでは前回の復習から。簡単な計算の問題です」


 そう言ってティアナ様は大きな石に今度は白い石で数式を書き始めました。あの石は何でしょうか。大きな石はおそらく大きいことと面が平たくなっているということを除けばそこらの石と変わらないでしょう。白い石も、探せば見つかりそうですが文字を書くために使っているのでしょうか。

 紙は貴族であれば使えるくらいには普及しておりますが、平民が大量に入手することは難しいもの。それを石で補うとは、これぞまさしく知恵というものなのでしょう。


 この光景に男爵はどのような反応をしていらっしゃるのでしょうか。ふと疑問を感じた私は授業から目線を外し、男爵を視界に収めました。

 男爵は、じっと授業の光景を、そしてティアナ様をご覧になっていました。私の目には、その瞳が普段よりも少しだけ爛々と輝いているように思われました。


 授業に目を戻すと、ティアナ様が些か弱っているようでございました。どうやら今書いた計算を答えようとする学生の方がいらっしゃらないようです。この様子ですと、普段はそのようなことはなく男爵がいらしているからこその遠慮なのでございましょう。


 ティアナ様は困惑と、諦めと、迷惑が入り混じったような苦笑を浮かべると一人の学生を指名しました。それはこの場で最も幼い学生で、おそらくは七歳程度かと思われました。


「……シル、分かる?」

「はい、せんせい」


 シル、と呼ばれた少年はこくりと頷きティアナ様が問題を書かれた石の側まで進みました。そしてなんと、スラスラとその問題の答えを白い石で書き足したのです。


 正解、とティアナ様に頭を撫でられた少年が笑顔で自身の席まで戻っていくのを、私は目を見開いて見届けておりました。


 確かに、問題自体は貴族であれば当然解ける程度のものではございました。しかしながらそれを平民が、さらには年端もいかない少年が、それを成し遂げたということは私にも、男爵にも衝撃を与えました。


 男爵が驚きに身動ぎをされた音が、私のところまで届きました。男爵は瞠目し、その口元には笑みが浮かんでおりました。


 そこからは、圧巻の一言でございました。

 おそらくは少年が一度普段通りの姿を見せたことで他の方々も安心されたのでしょう。不勉強な貴族であれば答えられないような問題であっても楽々と解いてみせた平民は、今この世界においては歪でございました。


 そして何よりも圧巻だったのがティアナ様でございます。

 最初に貴族というものへの恐れが少ない少年を使って他の学生の緊張をほぐし、二十は超える学生全員の習熟度を把握し、それぞれに適切な手がかりを授ける。今この瞬間から貴族の教育係として雇うことも、身分と実績を除けば可能であると、そう断言できるほどの実力を、私たちはまざまざと見せつけられたのでございます。


「……一つ、良いか?」


 男爵がそう声を上げられたのはいつ頃だったでしょうか。確か、授業も終盤に差し掛かってきた頃だったと記憶しております。


「……はい。何でしょう」


 学生たちはちょうど問題を解いている時間であり、ティアナ様の手は空いておりました。気まずげな表情を浮かべてはおりますが、当然無視はできません。渋々と言ったご様子で返事をなされました。


「今は除算をしているな。平民がこれほど学問を修めるとは、確かに大したものだ。——だが、それで何になる? 十二の林檎を四人で分けた。なるほど除算ができるなら秒と経たず三と分かるだろう。だが、そんなもの実際に配って見せれば良い。最初から三ずつ配るのも、一つずつ配って最後に三となるのも、結果としては何も変わらない」


 男爵がティアナ様を、その鋭い瞳で見据えられました。


「これを教えて、一体平民が何を為せる? 教わった学生に、何を為して欲しいと望む? 教えてはいただけるかな、先生?」


 言葉を変えただけで、それはまさしく挑発でございました。貴様はこの問いにどう答えるのかと、貴様を私に見極めさせろと、男爵が言外にそう仰っておりました。

 そしてその内なる意味は、ティアナ様にも伝わっていたようでございます。その切れ長の目を男爵の視線へと真っ向からぶつけ、挑戦状をお受け取りになられました。


「……知識とは、武器にございます。剣にも槍にも勝る、至高の武器にございます」


 ティアナ様が、静かに話し始めました。


「この学舎で得た知識の使い道。それは様々でしょう。商家にその身を高値で売り込むも良し、貴族との縁を求めるも良し。作物の生産性を向上させることも可能でございましょう。……しかし、私がここから続く道を事細かに指し示すことはございません」


 男爵だけではございません。執事長も私も、護衛の騎士も。問題を解いていた学生たちも、皆が彼女に注目しておりました。


「無知なる者は、どこで知識を使えることにすら気づけない。だからこそそのような人々は尋ねるのです。こんなものどこで使うのか、と。六つの仕事を三日で終わらせる。このために使える時間は各仕事でいくらか。除算を用いれば簡単に解ける問題で、実際に試してみるわけにもいかない例でございます。しかし私は何も、実際に六つの仕事を三日で終わらせて欲しいわけではございません」


 男爵を見据えられたその黒瑪瑙のような鋭利に輝く瞳の奥でどれほどの思考が巡らされていることか、私には想像もできませんでした。


「私は私が授けた知識を以て、己の世界を広げることを望みます。どこで使うのかなど尋ねずとも己の知識で導き出す、そのような知恵者になることを、私は指導者として、彼らに望みます」


 まさかこれほどの傑物が、市井に埋もれていようとは。それが私たちの率直な感想でございました。今の彼女はその信念で、この場を呑み込んでおりました。


 ゆったりとした拍手が、静寂を破りました。男爵は口元に笑みを湛えて、ティアナ様を正視していらっしゃいました。


「……なるほどな。素晴らしい考えだ。差し詰め私は、他者に知識の使い道を尋ねる無知なる者、というわけか」

「————なっ!?」


 男爵からの予想もできない言葉にティアナ様は口を開けては閉じ開けては閉じと、言葉が出ないご様子でございました。それをみて男爵はククと声を漏らしてお笑いになっておられました。


 それからの授業において、男爵は終始、愉快なものを見つめるようにティアナ様を目で追っていらっしゃいました。




「それで、先生。なんだ、あれは?」


 男爵邸の応接室で、子供がおもちゃを見るような表情で男爵がティアナ様に問いかけられました。授業後ということもあって夜も更けかけいる時間帯でございました。


 男爵が腰掛けたソファの反対に同じく座っているティアナ様はもはや男爵が()()()()()お方だということを理解していらっしゃるのでしょう。初めにあった萎縮した様子はもう感じられませんでした。何とも将来の楽しみな方でいらっしゃいます。


「私は男爵様の先生ではございません。…………あれは、見ての通り授業です」


 嫌そうに男爵からの呼び方を否定した後、ティアナ様は端的に答えて私がお出ししたお茶をお飲みになられました。


「そんなことを聞きたいのではないことくらい、聡い先生なら分かるだろう?」

「……男爵様ともあろうお方が、皮肉でしょうか」


 どうやらティアナ様は鬱憤が溜まっているご様子でした。授業の間延々と男爵にねめつけるように見つめられていたのですから、当然かもしれません。男爵は、他人の心の解らぬ方なのです。

 ええ、本当に。クククと声を出して笑うそのお姿はティアナ様の心情など毛ほども気にしていないことを示しておりました。男爵のこのようなお姿を拝見するのは、この数ヶ月で初めてのことでございます。余程ティアナ様を気に入られたのでしょう。


「今日の昼から数時間で、随分と様子が変わったな」


 ぷい、と。ティアナ様が男爵から顔を背けられました。


 あれほど素晴らしい授業をされる方ではありますが、その素はどうやら可愛らしいお方のようでございます。男爵が揶揄いすぎたのか、拗ねてしまわれております。


「……男爵様なら、理不尽に罪を押し付けられることは恐れなくて良いと理解できましたので」

「その通りだな。態度など、他の貴族の前でさえ取り繕えるのならば他は何でも構わん」

「……大層変わっていらっしゃるのですね」

「クク。先生ともあろうお方が、皮肉か?」

「————なっ!?」


 どうやらティアナ様は驚かれると口をぱくぱくとさせる可愛らしい癖をお持ちのようでございます。そして男爵は完全にティアナ様で遊んでおります。


 ですが、男爵がわざわざティアナ様を呼び寄せたのは彼女と戯れるためではございません。しばらくの間その愛らしいティアナ様を観察した後、男爵は本題に入られました。


「ティアナ、お前は男爵家で働け。お前の知識は確かに平民を教えることにも使えはするかもしれんが、残念ながら完全に役不足だ。お前の輝きは地面に留まるには強すぎる。お前ならもっと高い場所で、多くの民を照らせる」


 ティアナ様が目を見開かられました。


「ティアナの後釜には、男爵家の名に懸けて適切な人物を送ることを約束しよう」


 ティアナ様の目が揺らぎ始めました。


「……それは、命令でしょうか」

「違うな。だが仮に今ティアナがこれを断ったとしても、私は何度も同じことをお前に提案するだろう。それだけの熱量で、私は言っている」


 矢のように鋭い男爵の視線がティアナ様を射抜いておりました。

 ぎゅっと、その視線から逃げるようにティアナ様がその目を閉じられます。意志の強さを感じさせられた彼女がこのようなお姿を見せるとは、相当な苦悩が感じられました。


 男爵は答えを急かすこともなく、ただティアナ様を見つめておられます。ティアナ様が授業をされていたご様子を見て、男爵がそれを軽んじることなどあろうはずがございません。

 しかし、失礼を承知で申し上げますが、ティアナ様の能力は、才能は、たかだか街の学舎程度におさまる物ではない。それもまた事実でございました。


 その高い能力故の葛藤は、私如きに想像できるものではございませんでした。


「……申し訳ございません」


 長い沈黙の後、ティアナ様が絞り出すように仰いました。


「……私はまだ、皆に学問を教えていたく存じます」

「……そうか」


 そこでようやく、ティアナ様が顔を上げました。その瞳はもう、揺らいではおりませんでした。


「ですが——」

「——ですが?」

「私が学舎で授業を行うのは日中だけでございます。もし身勝手な我儘が許されるのであればその後に、男爵家のために微力を尽くさせていただけませんでしょうか」


 不躾な願いだということがティアナ様に理解できていないわけもございません。それでも彼女は怯むことなくそう言い切り、男爵に頭を下げました。


 はぁ、というため息が男爵の口から漏れ出ます。


「…………まあ、今はそれで我慢してやる」


 息を呑むような音の後、ありがとうございますと、小さく私の耳に届きました。




 それからでございます。男爵とティアナ様は夕から夜にかけて、毎日のように議論を積み重ねられました。今は二人がソファに横に並び、資料と睨み合っております。


 未婚の男女を二人にすることは貴族としての対面が良いとは当然言えません。それが、有能であると噂の男爵であれば尚のことでございます。数えきれないほどの見合いをお断りしている中でそのようなことをしてしまえば、相手に突かれる傷となり得るでしょう。

 そのため、その議論には毎度私をはじめとするメイドが同席いたしました。メイドの間では密かに逢瀬と呼ばれておりますことは、お二方には秘密でございます。


 話を戻しますと、男爵とティアナ様のお二人は主に、男爵領における平民の教育を計画しているようでございました。


「……平民に教育を行き届かせるにはそれだけの施設と人材が必要ということは理解できるが、一体その金はどこから出てくる? 子爵家の資産をあらかた受け継いでいるとはいえ、この領地の金貨も無限ではないぞ」

「それはそうですが、どうにかしなければ進められません。この数日で削りに削った上でこれなのですから」


 男爵が微かに唸りました。男爵が仰っていることもティアナ様が仰っていることもどちらも尤もなことでございます。


「やはり、教師の問題が重すぎるな。当家の人材だけでは足りるわけもないが、雇うには高すぎる」

「男爵様に教師ができるような方の当てはあるのですか?」

「当家の執事とメイドであれば可能だろうが、あまり減らすわけにもいかない。我が家は新興故貴族の知り合いは多くなくてな。外から連れてくることも難しい」

「……人を育てるために育った人が必要になるとは。魔力が先か精霊が先かというような話ですね……」

「通常であれば時間に解決させるのだがな。あまり時間もかけたくないというのが本音だ」


 議論は堂々巡りに陥っておりました。人材と金貨、その二つが平民の教育への障害となってしまっており、解決策はお二方をもってしても未だ浮かんでいらっしゃらないようでございました。


 何も議論が進まないまま、時間だけが過ぎていきます。月が高くまでのぼり、窓から二人を照らしておりました。


 言葉数も減っていき、二人がそれぞれただただ頭をめぐらせておりました。そのような状況に、日中からの授業の疲れも合わさってしまったのでしょうか。


 ふらりと、ティアナ様の体から力が抜けたのが分かりました。

 コテンと、男爵の肩にティアナ様の体が寄りかかられました。


 ああ、なぜ私は記録宝珠を持っていないのでしょう。無防備に寝息を立てていらっしゃるティアナ様がこれ以上ないほど心を許していることは、誰の目にも明らかでございました。……もちろん、男爵の目からも、でございます。


 ちらりと、ティアナ様を起こさないよう目だけで男爵が彼女の様子を確認されました。よく手入れされていることがわかる艶やかな黒髪が、男爵の腕をくすぐっております。心なしか男爵のお顔が緊張されているように感じるのは、私の勘違いでしょうか。


 ふと、男爵が顔をあげ私と目を合わせました。


「お部屋の準備は整ってございます」


 ええ、当然整えておりますとも。


 そのような私の心の声はさておきまして、普段は議論が終われば自宅にお帰りになるティリア様ではございますが、最近の白熱ぶりを見るといつこのような事態となってもおかしくはないと考えておりました。

 私はティリア様を起こさぬよう小さな声でお伝えいたしました。


 尤も、数分で準備は可能ですが今すぐにというわけにはまいりません。伝えて来いという男爵の目線を受け、私は一度部屋を退出いたしました。未婚の男女どうこうという話は、もはや無用でしょう。


 私が他のメイドにこのことを伝え再度お部屋に戻ったとき、男爵はティリア様の頭を膝の上にのせておりました。どのような経緯でそうなったかは存じ上げませんが、優しい手つきで髪を撫でておられるその様子からも、嫌がっているなどということはあり得ないでしょう。

 薄々感じてはおりましたが、男爵はあまりそのようなことに関して周りの目を気にされない方であるようでございました。


 決してティアナ様を目覚めさせることがないよう、男爵は私に準備が整ったことをまたしても目で確認されました。

 それに私が頷くと、男爵は最後に前髪をひと撫でし、静かにティリア様を膝から下ろされました。立ち上がり、その膝と背中に自身の腕を差し込まれます。


 軽々と、男爵はティアナ様を持ち上げました。普通であれば男爵本人が眠った方を運ぶなど身内であってもあり得ないことなのですが、無粋なことを言う人間など当家にはおりません。

 古の姫君が英雄にされたと伝わるお姫様抱っこの要領で、男爵は用意されたお部屋までティアナ様をお運びになられました。その伝説にも勝るほど、ティアナ様を大切にされた手つきでございました。




 結局、ティアナ様はその住居を引き払い男爵家で寝泊まりすることとなりました。移動の分の時間や体力の負担が減り、ティアナ様の生活はかなり楽になったようでございます。

 ご本人は随分と遠慮されておりましたが、男爵に一度眠ってしまったことを突かれれば頷く他なかったのでしょう。着々と、外堀は埋まってまいりました。


 そんなときでございます。あの事件が起こったのは。


 ある日、普段であればティアナ様が学舎からお帰りになる時間になってもお戻りにならないということがございました。ティアナ様が無断でそのようなことをされるお方でないことは男爵家一同重々理解しておりました故、男爵自らの指揮のもと総出での捜索が行われることとなったのです。


 しかしそうするまでもなく、その原因はすぐに掴めました。学舎の学生が男爵邸に駆け込んできたのでございます。


 先生が、先生が、と動転しそれだけを繰り返しているその学生を落ち着かせて話を聞き出すと、ティアナ様が何者かに連れ去られてしまったとのことでございました。

 ティアナ様と男爵家のつながりが深いことを調べるのは難しいことではございません。さらに言えばご本人の意向により、彼女は男爵家からの護衛もつけずに学舎へ通っていたのでございます。当家を狙うのであればティアナ様は格好の的だったことでございましょう。


 ですが犯人にも誤算であった点がございました。

 それはティアナ様が男爵に、延いては男爵家に属する者全員に慕われているということでございます。


 ティアナ様が拐われた、それを聞かされた際の男爵の表情。それは憤りでも悲しみでも動揺でもございません。


 無、でございました。彫刻かと錯覚するほど微動だにせず、報告した騎士がその顔を青褪めさせる程の圧倒的な負の圧力を、男爵は発しておられました。


「……探せ。夜が明ける前に見つけ出せ」

「——はっ」


 今既に、街の門は閉じております。ティアナ様が外に連れ出されたということは無いでしょう。ですが朝となれば門を開けないわけにもいきません。男爵であれば開けさせないということも可能ではございますが、それを必要としない状況とするに越したことは無いでしょう。


「ティアナが通る道は決まっていたな? 目撃者を探し出せ。脅してでも情報を吐かせろ。邪魔する者は始末しても構わん」


 男爵は、無益な殺生を好む方ではございません。しかしながら、必要な時にそれを躊躇う方でもまた、ございませんでした。


 男爵自ら、領都の捜索を行われました。男爵家所属の兵士、執事、メイド、さらにはティアナ様に教えを乞うている学舎の学生がその指揮下に入りました。


「この区画にも先生はいらっしゃいませんでした」

「この区画にもいらっしゃいません」


 学生たちと共に男爵が領内の絞り込みを始めておりました。貴族と肩を並べて平民が議論を交わすなど、数ヶ月前であれば想像もできなかったことでしょう。

 しかし、ティアナ様を知った今となってはその程度のことには驚きもいたしません。彼女が築いた人脈と、信頼と、彼女が育てた人材が、彼女を救うために全力を尽くしておりました。


「ここは、まだ見てないんですか?」


 いつぞやの、シルと呼ばれた少年が地図のある一点を指差しました。大通りに近い普通の民家ではありますが、どうやら最近居住者が亡くなり空き家となっているようでございます。


「……この場所は隠れ家にしては目立ち過ぎるが、何故?」


 男爵が説明を求めるように少年を見遣ると、その視線に怯えることなく少年は口を開きました。


「先生が拐われてからあまり時間もなく兵士が動き出しました。攫った奴らが近くに拠点を置こうとしていたとは考えられません。先生の拐われた場所は男爵邸からも遠くないので、普通は避けます。奴らは遠くへ先生を連れ去るつもりだったけど、想像よりも兵士が早く動いたからそれができなかった。予定にない場所で足止めをくらっている可能性があります」


 男爵も他の者も、じっと少年の話を聞いておりました。


「予定外の事態でもここまで逃げることができているくらいこの街に詳しいのなら、あの家が空き家になっていることも知っているかも知れません。この家に住んでいた方が少し前にかなり大規模なお葬式をされたことは僕でも知っているくらいなので……」


 それを発掘することが難しいというだけで、才能とはともすればこの世界に最もありふれているものなのやも知れません。このような緊急時ではございますが、私はいたく感動してしまいまったことを覚えております。


「……なるほどな」


 ごくごく僅かな間男爵が考え込み、すぐにそのお顔を上げられました。


「————向かうぞ。ティアナはそこだ」


 ぽん、と。いつかのティアナ様と同じように少年の頭に手を置き、男爵はそう仰いました。




 男爵家の医務室で、ティアナ様は穏やかに眠っておられました。安らかに寝息を立てられているそのご様子は、まるでこの数時間の男爵邸の騒乱など無かったことにされてしまったかのようでございました。

 このティアナ様のご様子にはいくら彼女に甘い男爵といえど思うところはあったのか、彼女のそばに腰掛けてため息をつきながら軽く、その頭に拳骨を落とされました。


「——んむ」


 ティアナ様が無意識のうちにその手を捕まえ、そのまま寝返りを打たれました。薬で眠らされているのでしょうが、この様子ではお目覚めも近いやもしれません。


 少年が指摘した空き家に突入すると、案の定ティアナ様を連れた誘拐犯が隠れておりました。ご慧眼でございます。ティアナ様に手を出しておいて意外なことではありますが、誘拐犯はこれほど大ごとになってしまったことに驚いている様子でございました。さほど抵抗もなく全員を捕らえ、ティアナ様は男爵邸に運ばれました。


 後になって判明したことではございますが、今回の件は男爵がこの領の領主として任命された際に邪魔をして男爵に返り討ちにされた貴族が軽い気持ちでことに及んだということのようでございました。

 男爵が後にどのような対処をされたのか、それをここで詳しく申し上げることはいたしませんが、一年後の貴族名鑑にその貴族の名は存在しなかったとだけ、お伝えしておきましょう。


 はぁ、と再びため息をつかれた男爵ではありますが、そのお顔には安堵が強く表れておりました。ティアナ様に奪取されていない方の手で、彼女の頬をむにむにと弄っていらっしゃるのは心配させられた仕返しなのでしょう。


「——んゆ?」


 どうやら、お目覚めのようでございます。


「ようやく起きたか、お姫様?」

「————だんしゃく、さま?」


 ティアナ様は夜空のように美しい瞳で男爵を見返すと、その視線を下ろして男爵の手を大事に包み込んでいる自身の手を見つめられました。

 もう一度男爵を見上げると、そこでティアナ様は硬直されます。


 ティアナ様が瞬きをされるたびに、男爵が彼女の頬を優しく撫ぜられておりました。


「————すみませんっ!」


 ファストラビットの如き素早さでティアナ様が男爵の手を離し、ぐるりと寝返りを打って反対を向かれました。まだお身体は本調子ではないのでしょうが、もし十全に動くことができたのであれば走って男爵邸から逃げ出されていたかもしれません。それほどまでの慌てぶりでございました。


「ティアナ」


 毛布を頭から被り羞恥に震えているティアナ様に、男爵がお声をかけられました。


「やはりティアナは、学舎を辞めろ」


 ピクリとティアナ様が肩を震わせられたのが、毛布越しにも感じ取れました。


「護衛をつけるにも限度がある。学舎の話を領内で進めていくほど私は他の貴族に狙われ、ティアナが襲われる危険が増す。私は私の大切な人をむざむざ危険に晒しておくほど、寛容ではない」


 ティアナ様はお答えになられませんでした。ティアナ様にとってあの学舎がどれだけ大切なものか、学生たちをどれだけ大切にしているか。それを理解してもなお、今日のような事態には耐えられないと、男爵はそうおっしゃっているのです。


「…………それは」

「命令だ」


 有無を言わさぬ圧力で、男爵が断言されました。

 しばらく動けなかったティアナ様が毛布から出て、潤む瞳で男爵に懇願の視線を送られます。


「——男爵様、私は……」

「ティアナ」


 ティアナ様の言葉を遮り、男爵が彼女の手を再び握りました。


「ティアナ、上に立つ者が施策を行うときに評価される地点は三つある。一つは施策を始められるか。一つは施策を軌道に乗せられるか。一つは、滞りなく自分の手からその施策を飛び立たせられるか」


 吸い込まれるように、ティアナ様は男爵の言葉に聞き入っておりました。


「前者二つはもう、ティアナは達成しているだろう。あとは最後の一つ。滞りなく自分の手から、学舎というものを飛び立たせられるか」


 男爵の瞳はただひたすらに、優しくございました。


「ティアナ、一年だ。それまでは待ってやる。一年で学舎を完成させろ。一年でティアナが関わらずとも学生が学び、巣立てるような自立した施設に昇華させろ。ティアナなら、可能なはずだ」

「それは……」


 あまりにも短いと、そうおっしゃりたいのでございましょう。一年とは、長いようで短い。特に人を育てるには、あまりにも時間が足りない。


「今回の件でティアナが育てた学生と多少関わったが、可能だ。私が保証しよう。今の学生の能力とティアナの指導が合わされば、一年後までに今の学生を指導者とすることは、十分に可能だ」


 ティアナ様が俯かれます。本当に可能なのかと、自分自身に問いかけていらっしゃるのかもしれません。


 ひとときの間ティアナ様は黙考されていましたが、その考えはまとまらないようでございました。顔を上げても、その瞳はやはり揺れております。


「……なぜ、一年なのですか? 二年、あるいは一年半でもあれば私も可能ではないかと思いますが、一年ではどうしても不安が勝ってしまいます」


 その問いに、男爵はニヤリと微笑まれます。


 もちろん民の教育を早急に普及させたいということもあるが、と前置きをなされた後に男爵はティアナ様の耳元にお顔を寄せられました。突然の出来事にティアナ様はまたしても硬直されてしまいます。


「見合いを断るのも限界が近くてな。一年後の挙式までに、学舎を完成させろ。その時には男爵夫人だ」

「——————ふぇっ!?」


 呆けたような声に満足げな笑みを浮かべた男爵は、その頬に接吻を落とされました。

 一瞬の間ののち、ティアナ様のお顔が炎龍の吐息よりも真紅に染め上がります。男爵が追い討ちのように幾度も幾度も頬にお髪に額にと接吻を落とされるうち、ティアナ様は口をぱくぱくと動かすことしかできなくなってしまわれました。


「唇は、一年後までとっておくか?」

「————んうぅっ!」


 声にならない声をあげながらティアナ様は毛布に巣籠ってしまわれるのを、男爵は愉快そうに眺めておりました。

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