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初めてのASMR体験記

作者: ムクダム

 眠れぬ夜が続いている。茹だるような熱帯夜もさることながら、深夜に聞こえてくる子供も笑い声も眠りを妨げる一因だ。泣き声なら問題ない。子供がぐずるのは自然の摂理であるから。しかし、日付けが変わったばかりの時間に子供が元気に遊んでいる状況というのは、楽しいかもしれないが、子供の健康によろしくない。親御さんは一体何をしているのか不安になり、引いては日本社会の将来、老後の年金問題、社員食堂の定食メニューにまで心配が及ぶ。些細なことから雪だるま式に不安が増大するのである。私にとって、子供の夜更かしは世界の危機と同義なのだ。

 思えば、高校を卒業するまで、私は夜更かしをしたことがなかった。受験勉強の追い込み時期でも、23時には布団に入るようにしていたし、7時には冷たい水で顔を洗っていたのだ。家族がみんな早寝早起きの習慣だったので、私も毎日8時間の睡眠を確保する健康的な生活を送っていた。

 規則正しい生活リズムが崩れたのは大学生になってからだ。徹夜、飲酒、ギャンブルにコンパ、そしてカードゲーム。心身に悪影響を及ばす習慣はみんな大学生活で身につけたのだ。大学進学を断念していれば、今も健康な生活を続けられていたのかと思うと、人生の選択の困難に目眩を覚えるが、まずは現在の不眠をどうにかする必要がある。 世の中には安眠に良いという手段が様々転がっている。だが、就寝前に暖かい牛乳を飲むだの、軽くストレッチをするだの、如何にも体に良さそうな方法は選択肢の外だ。眠るために自分の体をそんなに甘やかすほど、私は落ちぶれてはいない。もっと受動的で、健康的でない方法で安眠を貪ってこそ、モノグサな現代人として矜持を保ているというものだ。

 眠りを妨げる音があるのだから、相殺する心地よい音を聞けば良いのだ。ただ音を聞くだけ、なんら苦労もなく安眠ができるらしい。色々と調べてみるとAMSRという方法で安眠に誘導されるという報告を発見した。音声データを購入し、イヤホンで聞くと、まるで耳元でささやかれているような感覚になり、いつの間にか眠りに落ちているという。まさしく理想の安眠方法だ。科学的な根拠は不明だが、あえて不確かなエリアに身を投じる勇気を忘れてはいけない。

 早速、専用のサイトでランキング上位に上がっている音声データを購入した。初めてのジャンルは大人しくランキングに従う潔さを大事にしたい。

 旅館で仲居さんと話をしているというシチュエーションのようだ。個室で二人っきりということで、寝入った後に身ぐるみを剥がされるのではないかという不安がよぎるが一旦脇に置くことにする。襖を開け閉めしたり、お茶をいれたりする音が心地よい。日常的な生活音は安心感をもたらすのだ。

 これは確かに効果があるかもしれない、と期待をいただいた矢先である。仲居さんが身の上話を始めたのだ。父親が海外勤務でほとんど家に帰らず、母親が女手一つで自分と妹を育ててくれたこと、そんな母親に負担をかけまいと家を飛び出し、この仕事に就いたことなどである。

 子育てを任せっきりにするほど長期の海外勤務なら、いっそ家族で海外に移住した方が良いのではないか。娘さんが家を飛び出すほど思い詰めているのに父親は何をしているのか。勝手に家を飛び出したら余計に母親が心労を覚えるのではないか。様々な思いが去来する。海外勤務と言っているが、表現をソフトにしているだけで、実際は父親と死別しているのではないか。

 仲居さんの背景事情が気になって眠るどころではない。更なる爆弾発言が出てくるのではないかと疑心暗鬼になったが、いつの間にか私は膝枕をされていることに気が付く。耳かきが始まったようだ。

 頼んでいないのに耳かきが始まった。こう見えても私は綺麗好きだ。耳掃除は定期的に行っているから、心配には及ばないという気持ちだったが、他人に耳掃除をしてもらうのは子供時代以来であり、懐かしい気持ちでシチュエーションを受け入れた。

 大人しく身を任せていると、あることが気になってきた。耳かきの時間が異様に長いのだ。おまけに、音から察するに相当な量の老廃物が耳から掻き出されている。それほど耳掃除をサボっていたのかと、忿懣やるかたない気持ちになる。これほど溜まっていたら日常生活に支障が出るだろう。仲居さんも内心呆れ返っているのではないかという不安が心を満たし、やすらぎとは程遠い境地に至ってしまった。だんだんと耳がむず痒くなり、イヤホンを外して自分の耳をチェックしそうになる。もはや、音声を聴きながら安らかな眠りに落ちる道は絶たれたと確信する。

 数十分後、音声データの再生が終了した。そして、驚くべき事実が判明した。仲居さんは私が寝入った後で実家に帰り、父親と再開していたのだ。死別したのではという心配が杞憂に終わり、ほっと胸を撫で下ろす。

 どっと疲れが押し寄せてきた。すでに午前3時近く、疲労感から倒れるように眠りに落ちた。期待していた形とはだいぶ様相が異なるが、確かにASMRには睡眠をもたらす効果があると言わざるを得ない。私はAMSRに向いていないかもしれないが、別のシチュエーションならまた違う結果になる可能性は0ではない。諦めずに挑戦を続けようと心に誓った。夢の中で。                                      終わり

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