第32話『風、孤高なる者と出逢う』
ピッチに吹く風が違う。
CL準々決勝、対するはポルトガルの雄・SCブランコ。白を纏ったそのエースストライカー、リナ=オルソンは、開始から一言も発していない。味方にも、敵にも。まるで言葉の存在すら必要ないかのように、彼女はボールにだけ語りかけていた。
「リナ……あれが“無言の天才”か」
エミリーがいとに囁くように言った。
いともまた、ただ黙って頷く。
前半。ブランコの布陣は鋭く、静かにして速い。数的優位を作るよりも、局所的な読みと反応で個の勝負を制する構えだ。とりわけリナの動きは、まるで風の合間に射し込む孤光のようだった。
互いの視線が交わる。
次の瞬間、いとはリナの予兆を感じ取った。スルーパス――ではない。あれは、自らの間合いでDFの呼吸を崩す“誘い”だ。
「これは……詩だ」
鞠之介だったころの記憶が疼く。
かつて詠み合った、孤独な宮廷歌人の声と響き合う。言葉なきまま、風に心を託すようなあの和歌のように。
後半。0対0。膠着する状況の中、いとはあえて声を捨てた。
指示はすべて、目線と動きで伝える。視線を流し、足元の位置で“重心”を語り、走らぬことで“意図”を示す。
ゾエがラインを上げる。エミリーが内に絞る。
誰もが“声なき風”を感じ取っていた。
そして――七十二分、中央右寄りでいとが立ち止まった瞬間。
リナが釣られた。思わず間合いを詰めた刹那、ゾエの縦フィードが裏を突く。
いとがスルー。エミリーが受けて、一閃。
「……っしゃあ!」
歓声とともに、風が走る。
1-0。静寂が勝った瞬間だった。
試合終了後。選手がピッチを去る中、リナがいとに歩み寄ってくる。
しばし沈黙。
だが、彼女はまっすぐいとを見て言った。
「詩人は、お前だけじゃない」
それだけを残して、彼女はベンチへ戻っていった。
いとはその背を見送りながら、そっと呟いた。
「和歌とは、かくも孤高なもの……されど、共鳴もまたあるものなり」
空は青く、風は静かに吹いていた。




