第2話『鞠の理、ピッチに立つ』
女子プロサッカーWリーグ第3節。
快晴の清水スタジアムには、紫と白のユニフォームが躍っていた。
対戦カードは、上位の清水ウィステリアと、最下位の久留米FCレイヴンズ。
「今日も厳しいな……」「引き分けでも御の字か」
解説席からも弱気な声がもれる。
***
前半、久留米は防戦一方だった。
キャプテンの桐生ほのかが必死に指示を出すが、チーム全体が受け身になっている。ボールはつながらず、押し返す力もない。
そして、ついに二十五分。
清水の10番が切り込み、クロスにヘディングで合わせて0-1。
「っ……!」
センターサークルに戻るほのかの顔が悔しさで歪む。
ベンチの監督が小声でつぶやく。「……ダメだな、テンポが死んでる」
そして、決断した。
「花村を、入れるぞ」
「えっ、いとを? まだプロ初出場なのに……」
スタッフが戸惑う中、監督は言い切った。
「“何か”が変わる気がするんだ。あの子なら」
***
「交代、花村いと!」
前半三十二分、アナウンスが響く。
観客が一瞬ざわついた。誰だ? 花村って……。
その名を呼ばれ、花村いとはゆっくりと立ち上がる。
長い髪を結い、足首には淡い紫の“藤の紐”。
ユニフォームの背番号「10」が、陽に揺れていた。
ベンチから走ってくる選手に、いとはふと微笑み――
「兵は、神速を尊ぶものなり」
呟いた。
「……なにそれ?」
交代選手は困惑した顔を浮かべながら、いとにバトンを渡す。
***
ピッチに入った瞬間。
いとは空を見上げ、深く息を吸った。
(……鞠よ、再び風に舞う刻ぞ)
センターサークルに立ち、いとは味方の配置を見る。
CBのほのかは前に出すタイミングが遅く、右SBのすずは距離感をつかみきれていない。前線の三宅澪は孤立気味だが、体の軸が浮いている。今、裏を狙いたがっている。
(ならば、道を敷くのみ)
味方からのパスが入った瞬間、いとの体がしなる。
古武術のような「初動の速さ」で、敵の中盤を一閃。
触れられない速さではなく、“触れたと思った瞬間、そこにいない”という動き。
観客がどよめいた。
「誰だ今の……!?」「久留米にあんな選手いたっけ?」
いとはスピードを保ったまま、ドリブルで敵陣を突破。
「風のごとくぞ」
呟いたその瞬間、相手ボランチが寄せる――
が、いとは重心を“高く”保ったまま、風を受けるように逆方向へ抜ける。足裏でわずかにボールを押し出す。
そして、前線を斜めに駆ける澪を見る。
澪の踏み込み。目線。重心。
すべてを読みきり、いとは和歌のように詠む。
「澪よ、月を射よ。風の道はここにありけり」
スルーパスが、ラインを斬った。
美しく、怖いほど完璧な角度で。
澪が走り込み、シュート!
……が、惜しくもポスト。
「っち……!」
澪が舌打ちするが、観客はその連携に息を呑んだ。
「今のパス……まるで先を“見ていた”みたいだ」
***
試合はそのまま1-1で終了。
だが、久留米FCは明らかに変わっていた。
「なんだあの10番……」「和歌みたいなパスって何?」
試合後、解説者は言う。
「“風が吹いた”……。そんな感じだったな、久留米に」
花村いとはユニフォームの袖を直し、空を見上げる。
「戦は始まったばかりぞ。風よ、舞え、鞠のごとく」
黒鴉の背に、確かな“理”が宿りはじめていた――。