EP06.朝靄
朝――。
目を覚ますと、まだ9月だというのに、肌寒い空気が室内を包み込んでいる。
(…そうだ。ここは伊豆の山の上、ファントムがいる仮面の館、マスカレードハウスだった)
レースのカーテンをめくると、淡いグラデーションの朝焼けの空。山の稜線に朝日が差し始め、ゆっくりと一日が動き出そうとしていた。ダイニングに降りると、マーサがちょうど紅茶を淹れていた。昨日のセイロンやレモンティーとは違う、ほんのりミントの香りが漂っている。
「おはようございます」
「おはよう。昨夜はお疲れさま。よく眠れたかしら?」
「はい、ぐっすりと」
「よかったわ。…今朝ね、ひとりのお客様が帰られたの」
「俺以外にもいたんですか?」
「ええ。夜型の方だったから、昼間はなかなか顔を合わせないけどね。今ならまだ見送りができるかもしれないわ」
なぜだかわからない。でも、その人を見たくなった。息を切らし裏庭を駆け抜けると、朝靄にけぶる道でストールを風に揺らしながら歩く女性を見つけた。
声を掛けようとした瞬間、女性が足を止め振り返った。正しくは俺にではなく、ファントムがいるこのマスカレードハウスに向けて深々と頭を下げていた。
朝靄が俺たちの距離を縮めようとさせなかった。俺は思わず『お元気で』とつぶやくと、女性は顔を上げ長い髪とストールを整え朝靄の中に静かに消えていった。
女性を見送り館に戻ると、ファントムが庭で空を眺めていた。仮面の奥の瞳は、どこか遠い記憶を見ているようだった。
「出会いは必ず別れを伴う。そしてその記憶が、人の輪郭を作っていく」
「…あの人も、何かを抱えていたんですか?」
「そうだ。ここに来る者は皆、少なからず“迷い”を抱えている。
けれど――帰るときには、その迷いの形が少し変わっていると、私は信じている」
俺は静かにうなずき、ファントムに質問した。
「…俺は、まだ残ってもいいですか?」
「もちろん。館は去る者にも残る者にも、等しくやさしい」
その後、マーサに頼まれて倉庫の片付けを手伝っていると、奥にある古いドアが目に留まった。重いドアを 開けると、そこには静かな書斎があった。
アンティークの机にランプ。本棚には古びた洋書や紅茶の本、そして、一冊の手書きのレシピ帳を見つけた。
ラベンダーハニーの紅茶
レモンケーキ・フィレンツェ風
癒しのスコーン
ページの隅には、「L.G.」というイニシャルが記されていた。
(……ファントムのか?いや、それよりもっと昔の……)
「そこにいたのか」
俺は黙って手書きのレシピをファントムに差し出した。
「…このレシピ帳は、かつてこの館にいた“調香師”のものだ。香りと記憶を繋ぐ仕事をしていた人物だよ。……そして彼もまた、迷い人だった」
ファントムは机の上に置かれた空のカップを見つめた。アゲハ蝶の絵が描かれているカップだ。まるで、ついさっきまで誰かがそこにいたかのように放置されたままだ。
「館には、“去る者”と“残る者”がいる。……君は、どちらになると思う?」
問いにすぐには答えられなかった。けれど、レシピ帳の最後のページを閉じた時、ふわりとミントと蜂蜜のような香りが立ち上った。その香りを胸いっぱいに吸い込むと、ようやく俺もまた何かを抱えてここに来たんだと悟った。
迷ったこと、傷ついたこと、言葉にできなかったこと。全部、料理に、香りに、少しずつ染み込んでいた。
そういえば、昨夜作ったティラミスの残りが冷蔵庫で眠っている。
今日のティータイムにファントムとマーサと一緒に食べるのもいいだろう。
ささやかだが、それもまた楽しみに思えた。