EP05. 夕食とデザート
手入れが行き届いた庭を眺めながら、さっきのマーサとの会話を振り返った。ここでなら、俺にもできることがあるかもしれない。
――うん、料理を作って役に立ちたい。
そう決めた途端、胸の中に小さな灯がともった気がした。久しぶりに誰かに“頼られて”ほんの少しだけ、あの時の自分じゃなくなれた気がした。
キッチンには既に材料が揃っている。地元の卵、厚切りのベーコン、ペコリーノチーズ、パスタ。そして、マーサが持ってきてくれたマスカルポーネとココア。完璧だ。
「今夜はカルボナーラを作るつもりです。あと、デザートにティラミスを」
「デザートまであるのね♪拓海さんのお料理楽しみだわ」
「バイト先のまかないでよく作ってたんです。店長に“一番うまい”って言われました」
得意顔でそう言ったものの、胸の奥にはある記憶が引っかかっていた。
パスタを茹でる鍋に火をかけている間、ボウルに卵黄と粉チーズを合わせソースを作り、黒胡椒をたっぷり挽いてかける。手際よくフライパンでカットしたベーコンをカリカリに炒めるが、同時に緊張が押し寄せて来た。
(焦るな。落ち着け……)
しかし、頭の中で勝手に記憶が蘇る。
――「何度言わせる?やる気ある?空気読めよ」バイト先の先輩に言われた言葉。
――バイトのチャットグループから外された時、みんな何事もなかったかのように“気づかないふり”。
バイト先にも学校にも、うまく馴染めなかった。
誰にも本音を言えず、ただ「無難にこなす」ことばかり考えていた。
(でも、料理だけは失敗したくない。…あれ?)
ふと手元に違和感が。ソースを入れたフライパンをのぞくと、既に小さなダマができていた。
(あっ、やばい……火が入り過ぎた)
ソースを混ぜても固まったダマは簡単には消えない。小さな黄色い固まりがいくつもでき、ぼそっとしたソースになってしまった。ソースに入れた卵が部分的に固まり、乳化どころか分離の手前だった。
(パスタはまだ茹で上がってない。…ソースだけ作り直せば間に合う、か?)
気づいた瞬間、背中に汗がにじんだ。焦りがぶり返す。けれど、もう一歩下がることはできない。
(……失敗した…最悪だ)
熱が通り過ぎてソースがスクランブルエッグみたいだ。頭が真っ白になる。
(なんで……こうなるんだよ)
料理は得意なはずだったのに。ここなら上手くやれるって、少しだけ期待してたのに。手が震え視界がにじむ。
(……あのときと同じだ。どこに行っても、俺は上手くいかない、浮いて、ズレて、はみ出して……)
目の前の失敗したソースが、自分そのものに見えてきた。
(……もう、無理かもしれない……)
「君が“無理”って言ったら、料理も悲しむよ」
――突然の声に、びくりと肩が跳ねた。いつの間にか背後にファントムが立っていた。仮面越しに青い瞳がじっと俺を見つめている。
「失敗は君の挑戦の証だ。君が“ここで何かを変えたい”、誰かの役に立ちたいという思いで行動したことだ。…違うかい?」
その言葉に、堰を切ったように涙があふれた。
「…俺、高校でも、バイトでも、友達作るのも全部上手くいかなくて……でも、得意な料理だけは、これだけは、人とちゃんと繋がれるって思ってたのに…つい考え事してしまって!」
「なら、もう一度作ってみよう。誰かと繋がりたい、役に立ちたいという気持ちは、何より強い力になる」
「…せっかく用意してもらったのに、食材を無駄にしてすみません」
「大丈夫。硬くなったソースはグラタンや他の料理にも使える」
ファントムがそういうと、マーサがこちらを見てウインクした。ファントムの声は、まるで呪いを解くように俺の中にすっと染み込んだ。
深呼吸して、もう一度作り直す。ベーコンを弱火でじっくり炒め直し、卵液のソースが硬くなり過ぎないよう注意して混ぜ、茹でたパスタとソースを絡める。とろりと光るカルボナーラが完成した瞬間、さっきまで重かった胸の奥が、すっと軽くなった気がした。
「できました」
綺麗に盛り付けたカルボナーラをテーブルに出すと、ファントムが静かにフォークを手に取りひと口食べる。
「君が丁寧に作ってくれたことがわかる。パスタの方さも丁度いいし、ソースもとても美味しい」
食後は冷蔵庫から仕込んでいたティラミスを出す。エスプレッソに浸したサヴォイアルディ、マスカルポーネクリーム、ココアパウダー。甘さと苦みが折り重なる層をひとつずつ重ねていくたびに、俺の中の痛みも、少しずつ形を変えていった。
「ティラミスの意味を知っているかい? 」
「…?いえ…」
「イタリア語で“私を元気づけて”だ。美味しかったよ。ごちそうさま」
たった一言、それだけで俺は報われた気がした。ファントムは微笑み、カップをそっと置いた。マーサが二人を優しく見守る中、静かに夜が更けていく。
外ではスズムシが鳴き、月が庭を柔らかく照らしていた。
俺は今、たしかに、ここにいる――そう思えた夜だった。