海陵王と庶民
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』から海陵王が庶民と関わっている記事を見てみましょう。
前回の「海陵王と直言」では目安箱を設けて庶民の意見を聞き、「海陵王と張浩」では燕京城工事の役夫が夏の暑さで病気になると、医者を徴用し薬が支給していましたが、海陵王は庶民に配慮していたようで、海陵紀にはこのような記事が見られます。
天徳三年九月十三日、燕京の役夫に一人当たり白絹一匹を賜った。
貞元三年八月九日:起工式を行い、役夫一人につき絹一匹を賜った。
貞元四年十一月十日:貞元四年の租税を免除し、長期間駐屯地に居て交代していない兵士に、一人当たり絹三匹と銀三両を賜った。
正隆三年六日:官僚に、政務に勤しみ民を安んじるようにとの詔を下した。
正隆四年四月十七日:山東路の泉水と畢括の両営に、兵士への食糧支給を増やすよう命じた。
正隆五年八月二十六日:海陵王が山陵に参拝した。途中で、田で収穫している人を見掛け、今年の豊凶を尋ね、衣服を賜った。
最後の記事などを見ると気さくな人だったように思えます。
また政策ではありませんが、正隆三年六月十日条には「海陵王が宝昌門に登って相撲を見、民に好きに観覧させた。」とあります。
海陵紀の論評にはこうあります。
兵士たちの食事と同時に自分の食事を供させて、兵士がほぼ食べ終わるまで待ってから自分が食べた。
民の車がぬかるみに嵌まっているのを見ると、衛士に命じて下から曳かせ、車が出るのを待って後から進んだ。
また『大金国志』にはこうあります。
貞元二年(1154)六月、京兆府の鳳翔と同華で大旱魃があり、民が飢えたため、海陵王は倉を開いて救済するよう命じた。また凶作となったいくつかの州に対し、州外に出て食を求めることを許可した。中央から官人を派遣して、残る者と外に出る者に分けさせて記録し、その地の倉を開放して救済した。
正隆二年(1157)夏、河南の州郡は造営に功労あり、新たな領民も援助すべきであるとして、使いを出して現状を視察させ、困窮者を救済した。また各地で水田を補修し、灌漑の水路を通した。
このように海陵王は民政に心を配っていたことが分かります。
また正隆六年(1161)、南宋への出兵直前に海陵王が河南についてこう発言しています。
「この地方では毎年民間の食糧備蓄が多く、今年も豊作である。馬は田と田の間で飼えばよい。仮に今後二年間不作であったとしても、問題は無いはずだ。」
国に十分な余力があると判断した上で、短期で勝利できると思って南宋との戦争に踏み切ったのでしょう。