第2話 未開の地ルップル
祖国の正義を妄信してはいなかった。
植民地への苛烈な施策、圧倒的な国力を背景にした他国への恫喝に疑問を感じることも多かった。
声高に愛国を叫ぶ上官と命を捨てて戦うべしと興奮する同僚達をどこか冷めた目で見てもいた。
それでもグランベルデアで生まれ育ち、帝国の庇護の下で学び、軍人として豊かな生活を与えて貰う身であったから、その正義に逆らうつもりはなかった。
あるいは私一人が何をしてもどうなるものでもない――と考えることをやめてもいた。
従順なふりの傍観を打ち砕いた小さな手。
『どうして なにもわるいことしてないのに』
燃え上がる独立軍の旗の下、母と姉の躯の下から血まみれの少女が手を伸ばす。
『いたいよ おかあさん いたいよ』
俺は義憤によって立ち上がる。
祖国にこの不条理を訴えるのだと息巻いて。
その先は知っている。
もう見る必要はない。
燃え上がる大都市、次々と崩れ落ちる美麗な建造物、足元に積み上がる反乱軍と帝国軍、そして市民の躯が幾百万……その全てと目が合う。
こんなはずじゃなかった! こうなるはずじゃなかったのに!
叫ぶ声は誰にも届かない。
当たり前だ。
これは俺の夢、毎日のように見る悪夢なのだから。
俺は間違えたのだ。
もう二度とこんな――。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「う……ぐ……」
「およ? 起きた? 今お水もって……わっちゃあ!」
若い女性の声に続いて軽快に床を叩く足音、そして顔面への軽い衝撃と冷たさを感じる。
「ごめん! 躓いてお水ぶっかけちゃった! でも目は覚めたでしょ」
盛大にかけられた水が意識の覚醒を早めるのを感じながら俺は目を開く。
周囲を見回すと年季の入った木製の天井と丸太の壁、まるでログハウスのような建物の中に置かれたベッド……野戦病院か? いや室内にある小物を見る限り個人宅に見える。
「3日も目を覚まさないから、このまま死んじゃうかと思ったよ。よかったよかった」
声の主は俺を覗き込んでにっこり笑い、改めて注いだ水を差しだしてくれる。
「あり……がとう」
少女というには少し大人びており、女性と言うにはまだ子どもっぽい歳。
健康的に日焼けした肌と引き締まった手足から普段から体を動かしているのだろうとわかる。
「そして胸はすこぶる小さめ……わっぷ」
差し出されていた水が顔にかけられる。
「失礼な奴だな! ってまたやっちゃったよ!」
コロコロと表情が変わる少女を見て俺も思わず笑ってしまう。
少なくとも二回も水をかけられたことで目は完全に覚めた。
「ここはどこかな?」
意識が覚醒したことで今までの流れを脳内で整理する。
浜辺で悪者に絡まれて向けた銃が暴発した。
そこで体力の限界を迎えて意識を失ったところをこの少女が助けてくれたのだろう。
実にありがたいことだ。
「ここはルップルだよー。あなたこそどこの人? 漁の最中に流されたならテムテム村かな? まさかルモールから流されることはないだろうし。でも漁師にしては真っ白だねぇ細っこいし」
ペタペタと俺の体触りながら笑う少女と対照的に俺は表情を暗くする。
地名に聞き覚えは無かったが、帝国標準語で普通に受け答えができてしまったからだ。
「帝国語圏……」
「なに考え込んでるの? あっまさか!?」
後ずさる女性、俺の顔に気付いたのかと思いきや、どうしてか胸を両手でかばっている。
あぁ乱暴されると思っているのか。
「ははは、ないない。まさかさまさか、ははは」
「その笑いはなんだぁ!」
女性が飛び掛かって俺の頬を抓る。
痛いがこれも生きている証……なんて屁理屈こねられないほど痛い。
本気で抓らないでほしい。
「あーもう埃たっちゃったよ。換気しないと」
少女は最後に俺の鼻を指で弾いてから窓を開く。
三日ぶりの日光に眩んだ目が徐々に視力を取り戻していく。
「……綺麗だ」
工場廃液も煤煙も無い青く澄んだ海と空、一面緑に覆われた平原、そして遠くに霞んで見える巨大な山……実に美しく何故か恐ろしい。
「ところでさっき言いかけた帝国ってなに? 歴史の話?」
俺はゆっくりと首を振る。
「いやなんでもないよ。それよりもキミの名前を教えてくれるかい?」
すると少女はわざとらしくそっぽを向き、俺もその意図に気付く。
「申し訳ないレディ。僕はユリウス。ただのユリウスだ」
すると少女は一瞬で笑顔になって俺の手を取った。
「私はリシュだよ。ただのじゃなくて可愛いリシュ! よろしくねユリウス!」
ブンブンと激しい握手に振り回されながら、俺は心の中で安堵の息を吐く。
帝国の影響圏ならば、いかなる田舎とて【ユリウス】の名にギョッとならない者はいないからだ。
「本当に未知の場所に流れ着くなんて運が良いのか悪いのか」
どうして言語が通じるのかはわからないが……。
そしてリシュは俺の為に食事を作ってくれる。
「うーこいつ鱗硬くて捌きにくいんだよなぁ。いいや、ぶつ切りにしちゃえ……うらぁ! 死ねい!」
漂って来る匂いがまともな食事をとれていなかった胃袋を刺激する。
「わっとっと皮剥き忘れちゃった。ま、煮てるうちに剥けるでしょ」
目の前の海で獲れた新鮮な海産物と根菜の鍋料理なんて美味いに決まって――。
「げっ! ……うーわ」
「さっきから本当に大丈夫かい!? 心の中でフォロー入れるのもう限界だよ」
辛抱たまらず声をかけるとリシュは笑いながら鍋に蓋をする。
「大丈夫大丈夫! 私は料理上手で有名なんだから。それより鍋ができるまでお話でもしようよ。さっき聞きそびれたけどユリウスはどこから来たの?」
俺はどうしたものか首を捻って考える。
「まさか記憶喪失!?」
ババンと驚くリシュ。
「幸か不幸か記憶は完璧なんだけどね」
俺は海原の向こうを指差す。
「そっちは海じゃない。まさかユリウスは魚人なの!?」
ギョギョッとばかりに後ずさるリシュ。
本当に感情が豊かで見ていて楽しい子だ。
「違うけれど、どうせなら人魚が良いなぁ。この海の向こう、ずっとずっと向こうから来たのさ」
嵐に揉まれた上に途中で何度か意識を失い、何日流されたのかすら定かでないから、距離も方角も分からないけれど。
「よくわかんない。人間は陸の生き物なのに」
そこが聞きたかった。
俺はリシュの手を取り目を合わせる。
「この流れで来るのっ!? 貞操の危機っ」
「行かないなぁ」
まず確かめたい。ここはどんな場所なのか。
大陸か島か、あるいは列島や群島なのか。
「島? 大陸? 良くわからないけど世界は陸と海しかないよ? 私たちが暮らしているのが陸で周りが海だよ。陸の広さ? 形? うーん、私も村の外に出たことあんまりないし……ただゴルラが言うには馬を使って10日駆けてもまだ反対側の海は見えないんだってさ。 雪? なにそれ、わかんない」
色々不完全な情報ではあったが、総合すると『ここは大陸ではなく大きめの島』『少なくとも今いる場所では降雪がないほど気候は温暖』だ。
次は文明レベルが知りたかった。
「文明? ユリウスは難しい事ばっかり聞くなぁ……。えっと村一番の建物は集会場で石造りで高さは……一番ゴテゴテしているのは製粉所にある水車かな。一番大きい船? 領主様が居るルモールの大型船には30人乗れるらしいよ」
文明レベルは中世程度、政治体制は封建制、風車や水車、帆船は利用されているが、銃器をはじめ工業化の兆しは微塵もなく、帝国に遅れること300年といったところだろうか。
あとは世界の情勢といったところだけれど。
「国? あーうちは確かバルバル……バルラ……バルザーラ王国だったかな? 普通ぐらいの大きさの国だったはず? 他の国のことは良くわかんないなぁ。山の近くには亜人の国もあるらしいよ。こう耳が尖ってガーっと襲って来るみたいな」
ここに関してはあまり期待していなかった。
中世封建統治下の一領民が国際情勢を把握しているとは思えないからだ。
『耳が尖ってガー』は未開の原住民、もしくは霊長類の動物を指しているのだろうか。
「というか私の方こそ聞きたいよ。ルップルは山から遠くて制約も弱いはずなのにあんな大穴開くなんてユリウスは浜でなにをしたの?」
俺はそこで再びリシュを捕まえる。
「ほわっ!? やっぱりきた!」
「きてないね。その『制約』というのを詳しく聞かせてほしい」
骨董品の旧式銃がまるでカノン砲だった。
火薬が湿気っていなければ俺の腕まで千切れとんでいただろう。
「うーん。『制約』のことは誰もはっきりわかっていないの。教団は色々言っているけど……あんまり信用したくない人達だからね。わかっているのは人の力を縛るってことと、世界の中心にあってどこからでも見える『山』がその源になっているってこと」
リシュは窓から山を眺めて今日はいないやと呟く。
「制約は山に近づけば近づくほど強くなるの。海に近いルップルなんかは一番弱い場所で存在すら忘れてしまうほどなんだ。けど内陸に行くと強くなっていって段々人間が作ったものが使えなくなっていくの」
「使えないとは?」
俺の拳銃みたいに爆発するのかと問うとリシュは首を傾けた。
「わからない変になるの。内側では風車とか水車……終いには馬車も使えなくなるとか聞いたことがあるよ。壊れたり爆発したり狂ったり……ずっと昔には街が一つ消えてなくなるぐらいのこともあったとか」
「ふむ……」
実体験がなければオカルトで片をつけたのだけれど。
「ともかく海に近いと弱くて山に近いと強いの。そして山の周りを囲む樹海を越えた先は人の入れない領域で一旦入ったら帰ってこれない。帰ろうなんて考える人はそもそも入らない。一応うちに例外もいるんだけどね」
そう言ってリシュは引きつった顔で笑い、瞬時に眉を寄せた怒り顔に返る。
「だーかーらー制約の弱いルップルであんなド派手な爆発なにをしたの! さあ吐け! 吐かないと病み上がりに油ギドギドのステーキ食わせるぞ!」
「想像するだけで気持ち悪い。病人だから勘弁して……」
銃の説明が出来ないのでなんとか流すしかない。
それにしても人の力を縛るとは意味がわからない。
山に近づくにつれて強くなると言うことはあの火山から特殊な可燃性ガスでも噴き出しているのだろうか?
いや、火は普通に使えているのだから細菌やカビなどが火薬を変質させたのだろうか?
残念ながら確認する方法はないな。
「ともかくあれ危ないからソレ捨てなよ。家が吹き飛んだら穴掘って寝ることになるんだから!」
リシュは部屋に隅に置かれたピストルを指差す。
銃身が破裂した銃には革が被せられ、更に漬物石が置かれて紐で巻かれていた。
危険物として扱っているのだろうが色々と雑に過ぎる。
リシュの性格がわかってきたぞ。
鍋が音を立てて噴きこぼれ、リシュが慌てて駆けていく。
良い香りが部屋中に立ち込めた。
「リシュ特製、海と山の混合鍋完成! 病人にも優しいマイルド仕様だからいっぱい食べて!」
差し出された器からはかなり大雑把に刻まれた野菜や魚が見える。
雑ではあるが粘度の高いスープに包まれて軟らかく煮えており、まともなモノを食べていなかった俺のことを考えてくれている優しいスープだ。
「ありがとう。じゃあ遠慮なく頂――」
「げっ! やばっ!」
俺がスープに口をつける寸前、リシュは器に手を突っ込んで小さなキノコを放り捨てる。
そして大量の水でキノコを掴んだ手を洗っている。
「さあ、めしあがれ!」
「……頂きます」
一度無くしたつもりの命だ。
どういう結果になっても受け入れる……なんでご飯食べるのにこんな覚悟がいるのだろう。
覚悟を決めてリシュのスープに口をつけると、これが実に美味かった。
長くモノを入れていなかった胃を傷めないよう加減するのが難しいぐらいスルスルと入っていく。
「お腹に優しいコポコポの実を砕いてスープに混ぜてるの。食欲増進効果のあるググーも入れて、オンネンガニの顔面は殻ごと入れて出汁を……あれこれはなんだろ? まあいいか肉っぽい色だし」
リシュの声をなるべく理解しないように努めながら食べていた時、爆発の反動か殴られた時の傷かが痛んで器を取り落としてしまう。
「おっと危ない。火傷しちゃう」
リシュは予期していたのか、零れかけた器を素早く受け止めた。
俺達の顔が数センチの距離まで近づく。
「かわいいね」
「うなっ」
至近距離で見つめ合う形になったので反射的に感想が出てしまう。
リシュは雰囲気も相まって美しいと褒めるのは違和感があるが、整った顔立ち、薄く日焼けした肌、コロコロと変わる表情、全てが最上級のかわいいと評価されるべきだ。
急速に赤くなるリシュの髪を軽く撫でると、潮風でごわつくこともなくスルリと指が通った。
「かわいい追加だね」
「こ、これダメなやつだ! 好みの顔でそんなこと言われたら体が動かない……私の貞操もここまでか……無念」
何故かリシュが目を閉じた瞬間、ドカンと凄まじい音を立てて家の扉が開かれる。
「なにやってんだごらぁ!」
現れたのは身長185cmはあろうかと言う大男だ。
ただ背が高いだけではなく全身筋骨隆々でひげ面、浅黒く日焼けして、いかにも力仕事は任せろという外見だった。
残念ながら概して俺はこういうタイプと相性が悪い傾向にある。
「拾って貰った恩も忘れて早速やりやがったなお前!」
「さて、どうしたものか」
ドスドスと向かって来る男は怒り心頭で説明しても聞いてくれそうにない。
ここは一発二発殴られてから話すしかなさそうだが、丸太みたいな腕で殴られたら死なないだろうか。
「ああもう!」
リシュは手に持っていた器の中身を一気にかきこむとベッドの上に仁王立ちになる。
「こらゴルラ! 扉は丁寧に開けてって言ったでしょうが!」
リシュの声に動きの止まった大男は【ゴルラ】と言うのか。
しかし俺を睨む目は変わっていない。
「でもリシュ、お前今襲われそうになって……」
「そんなわけないでしょ。って覗いてたの!? そのでっかい図体丸めてコソコソと!?」
ゴルラは気まずそうにグウと唸る。
この大男が身を屈めて窓を覗いている姿を想像すると滑稽でつい笑ってしまった。
「なにがおかしい!!」
「うるさい! 食事中なんだから静かにして!」
リシュはそう言って俺に器をもたせてくれる……が、これはさっきリシュがかき込んだから空だぞう。
「まったくもう」
リシュは器に盛り直したスープを俺の口に運んでくれる。
「はい、あーん」
「ぬうううう!」
取り落とす心配はないがこうも殺気をぶつけられては食べにくい。
「ええと……彼は」
「ゴルラ。父さんの昔からの知り合いで今は村のまとめ役をやってるの。村長さんがもうお歳だからね」
ふとリシュの豊かな表情が一瞬消えたように見えた。ほんの一瞬だが。
「ユリウスです。よろしく」
「ちっ!」
手を差し出すと払い除けられた。
ふむと頷き、服で軽く拭いてからもう一度差し出すと、ゴルラは一瞬目を丸くした後、いかにも不本意といった顔で払い除けるのと区別のつかない握手をしてくれた。
「挨拶が済んだらいった、いった。起きたばっかりなんだからもうしばらく寝かせないと」
リシュは鍋を器に盛ってゴルラに持たせながら言う。
今更だけどその鍋、十人分はあるよな。
「やっぱりこいつは俺の所に置いた方がいい。もしリシュが襲われでもしたら大変だろ。俺は亡くなった親父さんからお前のことを頼まれてるんだからよ」
「ないない。見るからに無害な顔してるでしょ」
こじれさせたくないので精一杯無害そうな顔で笑ってみる。
「こういう顔してる奴に限って信じられないほどのスケベだったりするんだぞ」
「まーさか、こんなぬぼっとした顔してるのに」
その時、窓から入った強風が部屋の中で巻きあがる。具体的にはリシュの裾を思い切り巻き上げた。
緩めのワンピースは服は見事に巻き上がり、ヘソから下が丸見えになる。
「……コホン」
リシュは裾を押さえてから俺とゴルラを見る。ゴルラは両手で目を押さえて完全防御だ。
対して俺は顎に手を添えてじっくり鑑賞体勢だった。
「ふむ健康的。太ももの上までしっかり日に焼けているのがいいね」
「ガッツリ見るなぁ!」
「やっぱりスケベじゃねえか!」
結局、ゴルラはもしリシュになにかしたら海に沈める、怪我が治ったらすぐに仕事をして貰うからなと捨て台詞を残し、ただリシュに怒られたからか、扉だけは丁寧に閉めて出て行った。
この二人の関係も概ねわかってきた。
リシュが一瞬見せた表情を除いてだが。