第25話 ホワホワ底なし鍋
「やれやれだ」
イグリスに戻った俺は領主屋敷――今はほぼ王太子派の司令部――の風呂に浸かりながらぼやく。
伯爵の言う『しばしの休養』として百人長以上は司令部の施設を自由に使えと通達されたので遠慮なく使わせてもらっている。
俺としてはゴルラと一緒に公衆浴場でも良かったのだが『お前と一緒はもう尻がもたねえよ!』と言われたのでこっちに来たのだ。何故かイリヤ君が残念そうな顔をしていたが理由は不明だ。
「しかしここまで好き放題されて何も言わないイグリス伯は従順を通り越して少し気持ち悪いなぁ」
上辺だけながらイグリス伯を持ち上げている宰相はともかく、バルベラ伯なんて見ているこっちが申し訳なくなるような態度で接しているのに。
「自分を持たず、人の言いなりになる者に価値はなし……か」
あの人も難儀な性格だと笑ったところで風呂場の扉が開かれる。
はて開放されているとはいえ領主屋敷の風呂、公衆浴場と違ってそうそう人は来ないはずなのに。
まさかベネティアかと期待する。
実は先ほど彼女と世間話をしながら脱衣所まで一緒に入ったのだ。
先の戦法の説明や、もし敵が別の行動をとっていたらどうしたか――など熱く議論を交わしながら上半身まで脱いだところで気付かれて浴場に投げ込まれてしまったが。
「なんてね。ベネティアのはずがない。どうせマッチョで毛深い百人長の誰か……」
「あれえ? 人がいるわ」
マッチョな男ではあり得ない蕩けるような甘い女性の声。
女性が間違えて入って来たのならば悲鳴をあげて出ていく前に裸体を目に焼き付ける必要があるけれど。
「貴方どうしているのぉ?」
「これはこれで参ったな……」
湯気の向こうから現れた女性には見覚えがある。
王太子の愛人クラマンスだ。
彼女はタオルも持たず、豊満な胸とお尻、少しだけ豊かなお腹を隠すこともなく首を傾げる。
「ええと今日は勝利の褒美として僕達にも開放されておりまして……ははは」
彼女が悲鳴でもあげたら吊るし首になりかねないので可能な限り無害な男を装って笑ってみる。
クラマンスはたっぷり十秒ほど考え込んでからパッと笑う。
「あらーそういえば使用人から聞いていました。忘れちゃっていたわ」
彼女は少しおバカちゃん――ホワホワしている女性なのだ。
「そうですか。では私はすぐに出ますのでどうかご内密に……」
これがベネティアなら少しでも長く鑑賞しようとするところだが、さすがに相手が悪い。
王太子にバレたら一大事だ。
だが俺があがる前にクラマンスは俺の隣に座ってしまった。
「んーいいお湯」
そして俺を見てニコリと笑う。
「今日は付き添いの娘がいなくてお風呂が退屈なの。お話相手になってくださいな」
男としては大歓迎だけれど、ロープで吊り下がる未来しか見えないぞ。
「ありがたいことですけれど、立場上良くないので僕は――」
するとクラマンスはまた首を傾げてからお湯に浮ぶ自分の胸を指差し、俺はその通りと頷く。
「気にしませんよ?」
貴女がそうでも王太子が気にすると言う前にクラマンスは話し始める。
こうなっては無視して出て行く方が彼女の不興を買うだろう。
『一緒にお風呂に入ったら無礼なことされた!』なんて報告されたらジ・エンドだ。
満足するまで話に付き合うしかない。
「あのね――それでね――」
クラマンスの話は、流行の服、美味しいお菓子、良く当たる占い、使用人達の浮気や不仲などで、俺はただ感嘆の仕草をしていれば良かった。
ゴシップを記事を熱心に読むのはこういう層なのだと苦笑すると、俺が笑ったのを見てクラマンスもニッコリと微笑む。
なんて魅力的な笑顔だ。
唾を飛ばして天下国家を語る者達より彼女の方がずっと人間らしく思える。
もしクラマンスが酒場で出会った女性であれば床に膝をついて一晩のお誘いをするのに。
というか今でも誘ったらOKされてしまいそうで怖い。
いつの間にか肩が引っ付くほど近づいてきているし。
俺の方からも話を振ってみよう。もちろん当たり障りのないことだ。
「いつもこの時間にご入浴されるのですか?」
「ううん。一人でお酒を飲んでいたらポワっとして護衛の騎士さんと仲良ししちゃったの。だから殿下と会う前にお風呂に入ろうと思ってー」
クラマンスはぷっくりした唇の前に指を立て『言わないでね』とジェスチャーする。
全然当たり障りなくなかった。
性に奔放な女性は大好きだけれど。
「は、はは。ところで王太子殿下はお元気ですか?」
とでも言うしかない。
「んー。最近は怖い顔をしていることが多いわ」
内戦勃発、王都は奪われ、自身も危なかったとなれば当然だ。
これで普段通りなら凄い胆力だが……彼には無理だろうね。
「公爵を殺すーとか八つ裂きーとか怖いことを言うし、宰相さんと伯爵さんは自分を蔑ろにーとか」
あー聞きたくない聞きたくない。
知っているだけで面倒になること確定の情報はいらない。
「でもマルグリット様を見た後の方が怖かったかも」
はて、まだ子供のマルグリットとディミトリ王太子に確執などあるのだろうか。
「乱暴に仲良しした後の寝言で『ロミス違う』『お前が悪いんだ』って、すっごくうなされて、今もマルグリット様が来たらブツブツ言いながらどこかにいっちゃうの」
頭が勝手に情報を整理し始める。
内乱に対応するため一応王族関連の情報は調べてしまっていたのだ。
『ロミス』とは現王――あるいは元王の次男でマルグリットの父親、ディミトリ王太子の弟だ。
文武共に優秀で人当たりも良い好人物であり――三年前に別宅の火災で奥方と共に亡くなっている。
「知りたくなかった……」
「ねー怖いよね」
それにしても情報の大漏水、彼女は蓋も底もない鍋だ。
これで王太子直結となると大変な事態ではなかろうか。
「お話が楽しくてのぼせちゃったわ」
クラマンスはそう言いながらふらふらと立ち上がる。
何の遠慮もなく立つものだから全部見えてしまう。
「大丈夫ですか?」
一緒に出るのはまずいが彼女がひっくり返って怪我したらどの道バレるので仕方ない。
俺は自分のタオルで彼女の体を隠し、肩と腰を支えながら歩く。
そして脱衣所で全裸のベネティアと遭遇した。
「お前――」
いつものように折檻しようとするベネティアだったが、赤い顔で足をガクガクさせているクラマンスを見て止まり、とんでもない表情で俺を指差す。
『クラマンス様どこにおられますか? クラマンス様?』
付き人と思われる者の声も聞こえてくる。
「後は任せた!」
俺は呆然とするベネティアにクラマンスを任せて浴場に戻り湯に沈む。
『まぁこんなところに! お風呂は別に用意すると申したではありませんか!』
『忘れちゃってたのー。でも楽しかったわ』
『ら、裸体で失礼。幸いにして私がお見かけ致し不埒な助平男などはおりませんでしたので! ――よく考えたら私も全部見られたではないか!」
湯に沈んで身を隠しながらふと思い出が蘇る。
ヴァイパーとも一緒の湯に並んで入ったことがあった。
胸とお尻はクラマンスに負けず豊満でありながら、腹は見事にくびれてそれはすごいスタイルだった。
さすがに男として手が伸びたものの、彼女は上官の俺には逆らいにくいに決まっている。
そんな立場を利用して抱くのはダメだろうと思い留まったのだ。
正に断腸の思いだった。
特にヴァイパーがタオルを外して再度隣に来た時にはもう理性の戦線はボロボロだった。
「皆はなんとか生きているだろうか」
全ての責が俺にむけられていればいいが。
恥知らずにも主犯が逃げたせいで副官のヴァイパーが吊るしあげられているかもしれない。
「そうして逃げた先でもまた戦争だ。懲りないにも程がある」
俺は一騒ぎ終わって無人となった風呂から出て家へと戻る。
「ちょっとユーリ見てよ! 料理中に穴あけちゃった壁から古文書が出て来たの! 全く読めないけど『黄金』って書いてある雰囲気が――いやもうこれは書いてあるよ! 根拠はないけど」
「懲りないにも程がある」
「しばらくはまったりできるんでしょ? 古文書を解読してお宝を……」
「時間はそれほどないだろうね」
イグリスでの勝利は俺達にとって大きい。
敵の戦術ミスとはいえ二倍以上の兵力差を覆しての勝利は、このままナヴィス派が王国を掌握するだろうという認識を打ち砕いた。
「その通り。見事に打ち砕いたのだ!」
勇壮に吠えるリシュ。
日和見領主達は態度を保留し、王都の文官達はこぞってナヴィスの非道を訴える密書を宰相に送り、強かな商人達はナヴィスに服従しつつバルベラ伯の物資調達にも応えている。
王太子派はナヴィス派を倒しうる、少なくとも拮抗していると皆が判断している。
「正義は勝つ! よくわからないけど裏切はだめさ!」
高らかに誇るリシュ。
だがこちらが有利になったかと言えば決してそうではない。
兵力的にも劣勢だが、なにより現実に王都と玉座を押さえられている意味は大きい。
時間が経てばこれらは既成事実となっていくだろう。
「有利じゃない……既成事実……確かエッチな意味だったような」
怪しくなってきたリシュ。
王都バルザリオンは王国の経済中枢でもある。
長く続く戦争は物資調達と兵站の勝負だ。時間が経てば経つほどイグリス周辺しか押さえていないこちらとの差は開いていく。時間は相手の味方だ。
「経済ちゅーすう……兵站……」
リシュは小刻みに震えたあと口と耳から蒸気を噴く……ような幻覚が見える。
この程度のことを宰相と伯爵がわからないはずもない。
「近いうちにこっちから仕掛けるだろうってことさ。持てる全戦力でね」
「せんそーかいし」
リシュが壊れた。
食べ物を近づければ治るだろうか。
あと一戦……いや、一と半分を勝てば当分の平和が得られるだろう。
内乱も王位も、まったくもってどうでもいい。
それでも今の俺が戦う理由はリシュやゴルラそれにマルグリットと平穏に生きる為。
「少なくとも今回は戦う理由を見失っていない」
俺は目を閉じて雰囲気を出しながら扉を開き、風呂帰りのゴルラと激突して弾き飛ばされるのだった。
次回は本格戦争の予定です。