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婚姻届を担保に同級生に100万円貸した結果

作者: 墨江夢

「お願いします。私に100万円貸して下さい」


 俺・菱川啓(ひしかわけい)が、そんな普通の高校生では絶対あり得ないようなお願いをされたのは、ある冬の日のことだった。


「内緒の話があります。放課後、体育館裏に来て下さい」。同級生の刈谷美緒(かりやみお)にそう言われて、足を運んだ体育館裏。

 俺だって青春真っ盛りの男子高校生だ。内緒の話があると呼び出されれば、そりゃあ告白なんじゃないかって期待したくもなる。だけど……


 ふたを開けてみたら、告白などでは断じてなく。ただの金銭の要求だった。


「理由もなしにいきなり100万円貸してくれって言われても……。何に使うつもりなのかくらいは教えて貰わないと」


 高校生で100万円が必要になる機会なんて、滅多にあるものじゃない。絶対に何か事情がある筈だ。

 お金を借りようとしているのだから、刈谷にはその事情を話す義務がある。


「そう……ですよね。何も聞かずに100万円貸して欲しいだなんて、虫が良い話ですよね。実は――」


 話を聞くと、どうやら刈谷の弟が今度大きな手術をすることになり、その費用として急遽100万円が必要になったらしい。

 刈谷の家は母子家庭で、母親のパート代と刈谷のバイト代でなんとか生計を立てている。生活に余裕があるとは言えず、100万円の捻出なんて到底不可能だった。

 

「菱川くんは、沢山お金を持っていると聞きました。それに優しい人だとも。その優しさに漬け込む形になってしまい、本当に申し訳ないのですが……どうか弟の為に、お金を貸して貰えないでしょうか?」


「お願いします」と、刈谷は深く頭を下げる。


 俺は高校生でありながら人気漫画家でもあり、確かに100万円くらいなら貯金から捻出出来るくらいのお金を持っている。

 弟さんの命に関わるとなれば、100万円貸すのもやぶさかではない。

 だけど……世間一般からしたら100万円というのは大金であり、「わかったよ。はい、どうぞ」と簡単に貸せる金額じゃなかった。


「貸してあげたい気持ちはあるんだけど……ねぇ?」

「金額が金額ですからね。ジュース代を貸してくれと言うのとは、わけが違います。100万円を貸したは良いけど、返ってこない可能性だってあるわけですし」


 刈谷には悪いが、つまりはそういうことだ。

 刈谷の性格を考えれば、故意的に借金を踏み倒すことはしないだろう。そこは信頼している。

 しかし生活が厳しく返済が出来なくなるケースなら考えられた。


 10万円くらいなら返ってこなくても、「まぁ、仕方ないか」と割り切ることも出来るけど、100万円となると……どうしても躊躇してしまう。


「菱川くんの不安は、重々承知しています。私も何の条件もなしに100万円貸して貰えるとは、初めから思っていません。ですので……担保を差し出します」

「担保?」


 担保って、あれだろ? 自宅とか貯金とかを万が一の時の保証として差し出すやつだろ?

 父さんが銀行員だから、前に教えて貰ったことがある。

 

「はい。自宅は賃貸、貯金もろくにない。そんな私が菱川くんに差し出せる担保は……自分の人生です」


 そう言って刈谷が突き出してきたのは――婚姻届だった。

 婚姻届には刈谷の名前が記入されており、既に押印済み。あとは俺が必要事項を記入して市役所に提出すれば、俺と刈谷の婚姻関係は成立する。


「もしお金が返せないようなら、私は菱川くんと結婚して、一生あなたに尽くします。自分で言うのはなんですが、私は可愛いですしスタイルも良いですし、おまけに家事全般出来ますし。お金がないことを除けばかなりの優良物件だと思いますよ」


 その自己評価については、まったくその通りだと思う。刈谷と付き合いたいと考えている男子は、結構沢山いる。

 

「もしかして、他に好きな人がいますか? そうなると、私の人生なんて一銭の価値もなくなり、担保にならないんですけど……」

「俺に好きな人がいるだけで、自分の人生を無価値にするなよ」

「え? 本当にいるんですか?」

「……いないよ」


 学生と漫画家の二足の草鞋は目が回る程忙しく、とてもじゃないが恋愛なんてしている暇がなかった。

 そしてそんな俺だから、この先彼女が出来るとも思えない。


「人生でたった三年きりの高校時代だ。漫画だけでなく、恋愛に対して本気になるのも悪くないかもしれない。この先ラブコメを描く時の、参考になるかもしれないし」

「ということは?」

「お前の提案に乗った。100万円貸してやるって言ってんだよ」

   

 俺は刈谷から婚姻届を受け取る。これで契約成立だ。


「お金は一両日中に振込むから、刈谷の口座番号教えてくれ」

「良いですよ。……あっ、振込の手数料は菱川くん持ちでお願いします」

「……わかったよ」


 手数料は借りた側が支払えよとも思ったが、たかが数百円で文句を言うような器の小さい男になる気はない。


「因みになんだけどさ、これって俺たちは付き合っていることになるのか?」

「そうはならないんじゃないですか? 立場的には、恋人じゃなくて婚約者ですから」

 

 婚約者って……関係性が一足飛びしちゃってるよ。

 でもまぁ実際のところ、俺と刈谷の間に恋愛感情はないわけで。2人を繋いでいるのは、運命の赤い糸ではなく100万円という札束だ。 

 金の切れ目が縁の切れ目。100万円を貸しているから、俺は刈谷の婚約者でいられる。

 所詮俺たちの関係なんて、債務者と債権者なのだ。



 

 

「ネタが尽きた」


 仕事机の上に広げられた真っ白な原稿を見ながら、俺は呟く。

 月刊連載の締切は目前だというのに、次の話の構想がまるで思い付いていなかった。


 それでも焦っていないのは、これが初めての窮地というわけじゃないからだ。三ヶ月に一回は、ギリギリまでネタの思い浮かばないことがある。


 こうなったら、どんなに机の前で頭を捻ってもアイデアが浮かんでこないものなんだよなぁ。アイデアというのはお天気雨のように、予期せず降ってくるものなのだ。

 トイレにこもったり、長風呂をしたり、気分転換の方法は色々あるけれど、俺は大抵ネタに詰まった時は外を出歩くことにしていた。


 日の暮れた駅前を散策していると、どこからかコーヒーの良い香りが漂ってくる。

 匂いにつられて足を進めると、そこは小さな喫茶店だった。


 こういう落ち着いた雰囲気の喫茶店で、コーヒーを飲みながらの創作活動は、意外と捗るらしい。先輩作家が、前にそんなことを言っていた。

 物は試しだと思い、喫茶店に入ると……


「いらっしゃいませー……って、あれ? 菱川くん?」


 俺を出迎えたのは、喫茶店の制服を着た刈谷だった。


「刈谷……ここでバイトをしてたのか?」

「はい。好きなんですよね、喫茶店。休みの日なんて、よく喫茶店巡りをしているくらいです」

「喫茶店に精通している刈谷が働いているくらいだ。ここのコーヒーは、さぞ美味しいんだろう?」

「それは、もう! ここ近辺で一番と言っても過言じゃありません! ……で、ご注文は?」

「オススメで頼む。一番美味い喫茶店の、一番美味いコーヒーで」

「はい、畏まりました!」


「当店自慢」と言って刈谷が運んできたのは、オーソドックスなブレンドコーヒーだった。


「シンプルイズベスト。こういう素朴な味にこそ、素材の良さが出るんです」


 なんでもこの店のマスターは超が付く程の凝り性で、豆と淹れ方に大変こだわっているらしい。バカ舌の俺にもわかるくらい、市販のコーヒーとの違いは明らかだった。


 ミルクも砂糖も入れず、ブラックのコーヒーを啜る。口の中に広がる苦味が脳を刺激して、成る程、確かにこれなら創作活動が捗りそうだった。


「本当に美味いコーヒーだな。もう一杯貰っても良いか?」

「勿論です! ……菱川くんも、コーヒとか喫茶店が好きなんですか?」

「特別好きってわけじゃないな。だけど原稿が行き詰った時、こういう落ち着いた雰囲気の店に入ると良いって先輩に教わって」

「原稿……あぁ。菱川くんは、売れっ子の漫画家ですからね。ここに来たっていうことは、今まさに原稿が行き詰っているんですか?」

「そうなんだよ。明後日が締切だっていうのに、原稿が全然仕上がってなくてな。……あっ、これ他言無用な。特に担当編集には」

 

 シーッと唇に人差し指を当てると、その言動が余程面白かったのか刈谷は吹き出した。


「それはそれは、本当にお疲れ様です。でも、体調には気を付けて下さいね。学生も漫画家も、体が資本ですし」

「そうは言っても、原稿第一の職業だからなぁ……。多分今日から締切までは、ろくに休めないと思う」


 原稿は言わずもがな、学生の本分たる勉強や日頃の家事など、やるべきことは多い。少なくとも原稿を上げるまで徹夜は必至だ。

 

「言われてみると、心なしか疲れが溜まっているように見えます。目の下にクマが出来ていますし」


 刈谷が顔をグイッと近付けて、俺の顔を観察してくる。

 ちょっ、近い近い! そんなに接近されたら、恥ずかしくなるだろうが。


「この状態が締切日まで続くとなると、少し心配ですね。私に何かお手伝い出来ることがあれば良いのですが、悲しいことに、絵を描くのは得意じゃないので」


 うん、知ってる。

 以前美術の授業で写生をした時、刈谷の作品はクラスメイトたちを阿鼻叫喚させた。どうやったら、中庭の池が血の池地獄になるんだよ。


 刈谷がバイト三昧で忙しいことは知っているし、100万円貸しているからといって、それを理由に助けてくれと言うつもりなんて微塵もなかった。

 だから俺のことなんて気にしなくて良いんだけど……刈谷なりの誠意のつもりなのだろう。それでも彼女は、何か俺の手助けを出来ないか必死で考えていた。


「絵が描けない以上、漫画以外のところでサポート出来ればと思うのですが……」

「あっ、代わりに宿題をやって貰うっていうのはどうだ?」

「却下です。そんなの菱川くんの為になりません」


 俺の案は、即刻否決された。


「宿題を代わりにすることはしませんが、家事なら代わってあげられるんじゃないですか? ご飯とか洗濯とか掃除とか、家事全般を私がやれば、その分菱川も休めますよね?」

「それはそうだが……」


 確かに、家事に取られる時間を睡眠には充てられるのならば、俺としては大助かりだ。

 しかし無償でそんなことまでやって貰うのは、やはり抵抗がある。

 ……そうか。無償じゃなければ良いのか。


「なあ、刈谷。一つ提案なんだが……折角家事をしに来てくれるんなら、それをアルバイトにしないか?」

「アルバイトですか?」

「あぁ。時給は、そうだなぁ……1500円! いや、2000円出そう!」

「お給料が出るのなら、私としてはありがたい提案ですが……」


 家事代行をして貰えば、その分俺の時間が増える。それに刈谷に臨時収入が入れば、100万円の返済も早くなるかもしれない。

 だからこの提案は、双方にとってメリットがあるのだ。


「最近カップラーメンやコンビニ弁当しか食べてなくてな。そろそろ手料理が恋しいと思っていたんだ。雇われてくれるか?」


 手料理が食べたいなんて、刈谷の遠慮をなくす為の口実だ。彼女もそれがわかっているからこそ、敢えてその嘘に言及しなかった。


「……わかりました。そういうことでしたら、時給2000円で家事代行を引き受けます」

「ありがとう。それじゃあ明日の放課後、俺の家に来てくれ」





 翌日の放課後。刈谷は一度帰宅した後、俺の自宅を訪ねてきた。


「いらっしゃい。散らかっているところで悪いけど、くつろいでくれ」

 

 これは社交辞令ではなく、マジで散らかっている。

 部屋の中には、脱ぎ捨てられたパジャマやボツ原稿が散乱していて。あまりの散らかり度合いに、流石の刈谷も声を失っていた。


「失礼承知で言いますけど、本当に散らかっていますね。親御さんはこの部屋を見て、何も言わないんですか?」

「一人暮らしだから、両親はこの部屋の惨状を知らない」

「一人暮らし……ということは、今この部屋には私と菱川くんの二人だけ……」


 刈谷は俺から距離を取る。

 一つ屋根の下で二人きりだと気付いて、ようやく身の危険を感じたようだ。


「……変なことしないで下さいよ」

「そんな暇があったら、原稿の一枚でも仕上げてるわ」

「……それもそうですね」


 安堵する一方で、刈谷がどこか不満そうに見えたのは、俺の気のせいだろうか?


「早速家事に取り掛かります。まずは掃除ですね。時給2000円分に見合う働きをさせて貰います」


 刈谷は慣れた手つきで掃除を進めていく。

 散らかっていた部屋の中が、驚くことに僅か小一時間で綺麗に片付いた。

 あまりの手際の良さに、職能給としてもう1000円賃金を上げてあげたいくらいだ。


 部屋の掃除が終わると、刈谷は一息つく間もなく夕食作りに取り掛かった。

 献立はオムライス。卵をスプーンで軽く突くと、中から半熟卵がとろーっと溢れ出してきた。


「お味はどうですか?」

「めっちゃ美味い! こんなに美味しいオムライス、初めて食った!」

「それは良かったです。明日は親子丼かビーフシチューにしようと思うんですが……どっちが良いですか?」

「親子丼。そんで明後日がビーフシチュー」


 刈谷の料理スキルは中々のものだ。親子丼もビーフシチューも、絶品に違いない。


 俺の推測通り、刈谷の作る親子丼とビーフシチューもとても美味しかった。

 非の打ち所がないと言いたいところだけど、一つだけ残念なところがあるとしたら……原稿を仕上げたら、彼女の手料理を食べられなくなってしまうということだった。


 しかしそんな心配も、杞憂に終わる。

 

 当初は締切までという契約は、知らないうちに更新されていて。刈谷はそれ以降も度々俺の部屋に足を運んでは、家事を行なってくれた。





 刈谷に100万円を貸したあの日から、一年が経った。

 一年前と同じく冬晴れの日、俺は刈谷から、再び放課後の体育館裏に呼び出された。


「悪い。待たせたな」

「いいえ、私も今来たところですから。私の方こそ、一年もお待たせしてしまってごめんなさい」


 言いながら、刈谷は厚みのある茶封筒を差し出す。


「お借りしていたお金です。100万円入っています」


 俺は封筒を受け取る。

 中を覗くと、帯封された札束が一つ。うん、確かに100万円だ。


「菱川くんのお陰で、弟も無事手術を受けることが出来ました。今では元気に外を走り回っています」

「それは何よりだ。こっちこそ、色々世話になったな」


 この一年、刈谷はほとんど毎日のように俺の家に来てくれた。毎月原稿に追われる俺にとって、それがどれ程の助けになったのか。刈谷とてわからないだろう。

 だから「ありがとう」と、何度だって感謝の言葉を伝えたい。


「これで返済も完了。ということは、担保ももう必要ないよな?」


 俺はポケットから、綺麗に折り畳まれた一枚の紙を出す。言うまでもなく、婚姻届だ。


「婚姻届はお前に返す。破るなり燃やすなり記念に取っておくなり、好きにしてくれ」

「わかりました」

 

 婚姻届を受け取った刈谷は……何を思ったのか、すぐに俺に突き返してきた。


「……何のつもりだ?」

「この婚姻届を担保に、またお金を借りようと思いまして。今度は……10億円程」

「10億円って……」


 いくら俺が売れっ子漫画家とはいえ、流石にそこまでの貯金はない。お金を借りるにしても、現実的な金額にして欲しかった。


「そんな大金用意出来ない。仮に用意出来たとしても、一生かけても返せないだろ?」

「そうですね。ですから――私の一生を、こうして担保として差し出しているんです」


 ……あぁ、なんだ。そういうことか。

 ここに来てようやく、俺は刈谷の言いたいことを察した。


 10億円なんて、刈谷は初めから借りるつもりがないのだ。本当に伝えたかったのは、「私の一生を差し出している」という部分。 

 つまりこれは、刈谷から俺に対する告白なのだ。


「きっとお金が返せませんから、私は菱川くんと結婚して、一生あなたに尽くします。自分で言うのはなんですが、私は可愛いですしスタイルも良いですし、おまけに家事全般出来ますし。お金がないことを除けばかなりの優良物件だと思いますよ」

「しかも俺のことが大好きときた。優良物件どころか、誰もが憧れる豪邸じゃないか」


 ここで刈谷の口車に乗って彼女に10億円貸したとしよう。その場合、俺たちの関係性はどうなるのか? 

 刈谷がどんなに俺を好いていてくれたとしても、債務者と債権者という枠組みから逃れることは出来ない。

 そんなのは嫌だな。だって――俺も刈谷が大好きなのだから。


 お金ではなく、心と心で繋がっている。俺は刈谷と恋人同士になりたいのだ。


「10億円貸すことは出来ない。でも……俺の人生だったら、半分くらい分けてやっても良いぞ」


 だからもう、担保なんて要らないよな。

 俺は刈谷から婚姻届を受け取ると、「また近い将来書けば良い」と伝えてから、ビリビリに破いたのだった。

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