無糖ココアは甘くない
プロローグ
私は結構、イライラする方だ。
我ながら嫌な性格だなと思う……でもどうしてか、些細なことでイライラしてしまいがちなのだ。
そんな私だから、小学校中学校と彼氏ができたことはない。
欲しいと思ったことがないというのが大前提だけど……多分、彼氏を作ろうとしても何かが気に食わなくて、イライラしてしまうのは目に見えている。
例えばメールの返信が遅いとか。
構ってほしい時に構ってくれないとか。
普通の女子だってムカッとするようなことが起きれば、私なら数倍ムカムカしてしまうことは想像に難くなかった。
だから、この春から晴れて高校生になったからといって、恋人を作るつもりなんてさらさらないし。
好きな男子に告白するとか、バレンタインのチョコを徹夜で作るとか、憧れの先輩を追っかけるとか。
そういう甘ったるいイベントは――私こと前田立夏には似つかわしくないと、そう結論が出ているのだ。
そもそも論として。
私は――甘いものが好きじゃない。
001
「あの、うるさいのどうにかなります?」
高校に入学して一週間……特にやりたいこともない私は、中学時代にやっていたという理由だけで、サッカー部のマネージャーをしていた。
私はジャグ用の水汲みを言い渡され、日々せっせとグラウンド端の蛇口に足を運んでいたのだが。
その隣の木造建造物――道場とかいう場所から、騒音が聞こえてくる。
ドンドンバチバチという音に合わせて、やーだのぎゃーだのという断末魔みたいな叫び声。
それが毎日。
「……」
イライラした。
ので、注意することにした。
「すみませーん」
道場の入り口に回り、中に向かって呼びかける。
恐らく剣道とかいうスポーツだろう……私にはチャンバラごっこにしか見えないが、本人たちは至って真面目に取り組んでいるらしい、こちらに気づく気配がない。
もう少し大声を出さないと聞こえないかと思っていたら、一番近くにいた部員らしき人が入り口までやってきた。
「誰かに用っすか? 本田先生だったらまだ来てないっすけど」
応対してくれたのは男子生徒のようだが、面とかいうものを被っているので顔はよく見えない。
ただ明らかに不機嫌であることは、声のトーンから察せられた。
イラっとする。
いや、彼にしてみれば突然の来客の所為で練習を中断することになっていい気はしないだろうけど、それを前面に押し出されると、こちらもカチンとくるのだ。
こういうとこ、自己嫌悪。
でも、イライラを止められない。
「あの、うるさいのどうにかなります? 疲れてるところにこんな騒音が聞こえてきたら、不愉快なんですけど」
私は単刀直入に言った。相変わらず可愛げも何もないなとわかってはいるが、しかしもう言ってしまったのだからしょうがない。
「……」
男子生徒は、何を言われているのかわからないという目をして。
「……ぷっ、あははははは!」
直後、爆笑した。
「な、何ですかいきなり」
「いや、俺たちが何やってるかわかります?」
「何って……剣道ですよね」
「それわかってるのに『うるさいのどうにかなります?』って、ギャグかと思って……くくっ……」
私の発言がツボにはまってしまったらしく、彼の笑いは止まらない。
「あ、あの……笑ってないでなんとか……」
「市原ぁ! 何サボってんだごらぁ!」
道場に怒号が響き渡る。
「っ! すみません! 今戻ります!」
それを聞いて、目の前の男子生徒は駆け足で練習に戻っていった。
「……」
そんな彼の背を見送ることはせず、私はサッカー部の待つグラウンドへと帰る。
002
「あーーー‼」
翌日。
一年三組の教室に、大声がこだました。
声の主は、どうやら教室に入ってきた私を指さしているようである。
「……えっと、おはよう?」
「おはようじゃない! あんたの所為で、昨日大変だったんだからな!」
「昨日?」
いきなり因縁をつけられた私は困惑する……そもそも、この男子生徒の名前は何だっけ?
あまり(というか全く)同級生の男子とは話さないので、未だに名前を把握しきれていない。
彼はつかつかとこちらに歩いてきて、その大きな体で私の行く道を通せんぼしてくる。
「道場で変なこと言ってたろ! あの後主将にボコボコにされたんだからな!」
「あー……」
言われて思い出す。
目の前の男子の名前が市原勇樹くんだということ――そして昨日道場で対応してくれた生徒が彼だったことも、当然理解した。
「えっと……ごめんね?」
「何で疑問形なんだよ、ちゃんと謝ってくれ」
「でも、私は苦情を言いにいっただけで、急に笑い出したのは市原くんでしょ」
「剣道部に向かってうるさいって言われたら、誰だって笑うよ」
そんなことはないんじゃないかと思いつつも、しかし私の所為で彼が怒られてしまったのは事実のようだ。
「あんただって、サッカーやってて球蹴るなって言われたら困るだろ?」
「それはまあ、困るかな」
剣道において大声がそれ程大事だとは知らなかった……一日経って冷静になってみると、確かに私の言い分は無理筋だったようだ。
「……ごめんなさい。私が間違ってました」
一通り思案して、自分が悪いと認め謝罪することにした。
イライラした時の言動は、大抵私に非がある……高校生になったことだし、せめて事後処理くらいは上手くやろう。
「あ……その、うん……こちらこそ?」
何が「こちらこそ」なのかは意味不明だけど、市原くんは私の謝罪を受け入れてくれたようだ。
「きつい性格なのかと思ってたけど、意外と物分かりがいいんだな、あんた」
「……」
あー、駄目だ。
今さっき謝ったばかりなのに、またイライラしてる……そしてそれを抑えられない。
「……昨日のことは私が全面的に悪いとして、一つだけ言っていい?」
「ん?」
「私のこと、気安く『あんた』って呼ばないで」
◇
予鈴が鳴り、クラスのみんなはぞろぞろと席についた。
私も席に座る。
罪悪感と共に。
「……ねえ、さっき市原くんと何話してたの? りっか、謝ってなかった?」
後ろの席から背中をつつかれる。
小声で話しかけてきた詮索好きな少女は、三田悠里。出席番号が近いというだけで友達になり……まあ、何だかんだ気が合って仲良くしてもらっている。
「……別に何でもないよ。昨日ちょっと迷惑かけちゃっただけ」
「ふーん……。にしてはやけに親しげだったね。『私のことは名前で呼んで!』って、中々言えないわー」
「そんなこと言ってないじゃない。『あんた』って呼ばないでって頼んだだけよ」
「ほとんど同じ意味だよね、それ。ニュアンスは違くとも結果は同じ……くっくっく、これは早くも前田立夏ちゃんに春が到来かにゃ~」
「茶化さないで」
「でも実際、市原くんって人気あるんだよね~。イケメンだし身長高いし。剣道部っていう硬派なところも、一部の女子からは支持を集めてるらしいよ」
「硬派ねえ……」
私は丁度対角線上の席に位置する市原くんの後頭部に目をやる。
まあ確かに、身長は高いし顔は整ってるけど……。
くるっと。
市原くんがこちらに振り向き――目が合ってしまった。
「――っ」
私は急いで目を逸らす……まずい、見てるのがバレた……。
「……なーにやっての、りっか」
後ろから、呆れ混じりの声が刺さる。
003
放課後。
まずは更衣室でジャージに着替えて、それから部室に行ってミーティングの準備を……。
「ねえ……えっと、まえだ、さん?」
私がこれからの予定を整理していると、不意に名前を呼ばれた。
「……何?」
今朝のこともあって変に気恥ずかしく、ぶっきらぼうに返事をしてしまう。
ああこれ、イライラしてると思われるパターンだ……そうやって何度、意図せずに他人を傷つけてきたかわからない。
「その……『あんた』なんて馴れ馴れしく呼んじゃってごめんて、謝ろうかなーと……」
「別にいいよ、無理しなくても。友達でもないんだし」
あーほら、まただ。
こんなことが言いたいわけじゃないのに。
自分の態度が嫌でイライラして、それにもっとイライラして……結局周りに気を遣わせて、人が寄り付かなくなる。
いつものパターン。
「え、友達じゃないの⁉ ショックでかい!」
「……その、友達じゃないは言い過ぎたというか……」
「じゃあ友達ってことだよね? よかったー、マジ焦ったー。前田さんのことめちゃめちゃ怒らせちゃったんじゃないかって心配したよ」
「えっと……」
あれ、何だこのやり取り?
全然いつものパターンじゃない。
「でも嫌な気持ちにさせちゃったのは事実だし、お詫びのしるしにこれ受け取って!」
言って、彼はポケットから棒状の何かを取り出す。
「これって……『うめえ棒』?」
「そ、ポテサラ味ね。俺の一番好きなやつ……やべ、もう道場行かないと、また主将に怒られる!」
時計を確認した市原くんは忙しなく鞄を肩にかけ、足早に教室から出ていった。
「え、あの、ちょと!」
いきなりお菓子を手渡された私は困惑して呼び止めようとするが――彼の背はすでに見えなくなっていた。
「……」
私は『うめえ棒』の袋を開ける。
「……美味しいじゃない」
サクッという小気味良い音を立てながら。
私はお菓子を食べ進めた。
004
「……おはよ、市原くん」
「んー……えっ、あ、おはよ、前田さん」
お菓子によって餌付けされた翌日の朝……机に突っ伏して寝ていた彼の肩をゆすり、私は起床を促す。
寝ぼけ眼をこする市原くんの顔は、どこか小動物染みていて可愛らしかった。
……イライラする。
「えっと……もしかして、また俺なんかやっちゃった?」
「あ、違くて……その……昨日貰ったお菓子のお返し、的なやつを持ってきました」
私は鞄を漁り――一本の缶を手に取る。
そしてそれを、彼の机の上に置いた。
「……? 何これ、無糖のココア?」
恐らく初めて見るのだろう、市原くんは大きい目を更に丸くして缶を見つめる。
「うちのお父さんが好きで箱買いしてて……よければ、どうぞ」
「マジ? 貰っていいの? うわぁ、ラッキー!」
もし彼に尻尾が生えていたら、ぶんぶんと振っているのが想像できる喜びようだ。
「ココア好きなんだよねー、サンキュー前田さん」
「……喜んでるとこ申し訳ないけど、ココアが好きだと、それ苦手かも」
「え、何で?」
「そのココア、全然甘くないから」
あれは何年前のことだったか……正確には覚えてないけど、小学校低学年くらいだったように思う。
昔ココアが好きだった私は、お父さんから無糖ココアを貰い、意気揚々と口に運んだのだが……その苦さに驚き、危うく吐き出しそうになったのだ。
「そりゃ、無糖って書いてあるんだから甘くないでしょ」
「でもココアとも書いてあるじゃない……ココアは甘いものだって、思い込んでたの」
「……無糖ってのは糖分がないって意味なんだぜ、前田さん」
「それくらい知ってたけど……ココアなら甘いかもって、無意識に期待しちゃってたから」
「へー、おっちょこちょいだったんだね」
言って、市原くんは缶の蓋を開ける。
プシュッと――ほのかなココアの香りが広がった。
「じゃ、頂きまーす……何これ、うまっ⁉」
一口目で衝撃を受けたらしい彼は、ごくごくと中身を飲み干す。
ごちそうさまと爽やかに笑う彼の目を、直接見れない。
「……美味しいならよかった。これで貸し借りなしね」
「貸し借りって、貸してたわけじゃないんだけど……お返しに『うめえ棒』いる? 明太チーズ味」
「それ繰り返してたら一生終わらないでしょ……私がすっきりするためにやっただけだから、気にしないで」
用は済んだと言わんばかりに、私は早足で自分の席へと向かった。
鼻についたココアの香りは――まだ消えない。
◇
無糖ココアをあげた日から、私と市原くんは毎日挨拶を交わすくらいの仲にはなった。
友達、というやつだ。
また同時に。
あの日を境に、私はあんまり――
イライラしなくなったらしい。
005
二年生になった。
この高校では二年生進級時に文系理系クラスを選択することになっていて……数学がダメダメな私は、必然的に文系クラスを選ぶことになる。
「よかった~! りっか、同じクラスだね~!」
「ちょっと、くっつかないでよ悠里」
新学期が始まった初日――下駄箱の近くにある掲示板に、クラス分けの表がでかでかと掲示されていた。
前田立夏の名前は、二年二組……そのすぐ下に、三田悠里の名前がある。
「……」
市原勇樹、二年八組……。
「新学期早々ぼーっとしてどうしたのよ、りっか! 華々しい高二デビューなんだから、テンション上げなきゃ!」
「あー……そうだね」
二年二組の欄には、見知らぬ名前の方が多い……交友関係が狭い私にとって、クラス替えは周囲の環境が一変する一大行事なのである。
「悠里はどう? 知ってる人多いの?」
「うーん……話したことない人は二、三人いるけど、大体みんな知ってんねー」
「……悠里のそういうところ、素直に羨ましいわ」
「あ、もちろん一番のマブダチはりっかだよ! 今年もたくさん遊ぼうね!」
「……そうね」
毒気のない、人好きされる笑顔……私もこんな風に笑えたらなんて、ちょっと嫉妬してしまう。
「――さん、前田さん」
「はいっ⁉」
悠里の言う通りぼーっとしていた私は、急に後ろから肩を叩かれたことで、間抜けな声をあげてしまった。
「おはよー」
「……市原くん……おはよう」
声を掛けてきたのは、眠そうな目をこする市原くんだった。
「クラス表ってこれ? えーっと……うげ、八組なの俺だけじゃね? 全然知ってる人いないんだけど! 終わった!」
彼はまじまじと表を見つめてから、大袈裟なリアクションを取る。
「うちのクラス、理系にいく人少ないからね」
「あーそっか……前田さんは何組なの?」
「私? 私は……その、二組だよ」
「二組かー……あれ、三田さんと一緒じゃん。よかったね、仲いいもんね」
「……そうだね」
胸がズキズキする。
何気ない会話。無糖ココアをあげてから、何だかんだほとんど毎日話していた市原くんと。
今日からは――違うクラスになる。
「……元気ないけど、大丈夫? 具合悪いの?」
「あ、いや……何でもないです……」
彼が理系クラスに進むと知った時から、わかっていたことなのに。
こうして実際に意識させられると、何故だか心がざわざわする。
「心配しなくても大丈夫だよ、三田さんもいるし。まー、俺は違うクラスになって悲しいけどねー」
「……」
市原くんの発言に他意はないのだろう。
一年間同じクラスだった相手と離れることになれば、悲しいという表現をしてもおかしくない。
だけど。
どうしてこんなに。
イライラするんだろう。
006
「一年生集まってー」
二年生になったということは部活で後輩ができるということ。
後輩の指導係に任命された私は、早速簡単な雑用を押し付け始めた……嫌な奴と思うかもしれないが、運動部なんてそんなもんなのだ。
ただ――一つ。
グラウンド端でジャグ用の水を汲んでくる雑用だけは……私が率先してやっている。
「……」
じゃーっという水音をかき消すように、隣の道場から大声が聞こえてくる。
この声のどれか一つが、きっと。
市原くんのものなんだろう。
「あれ、前田さんじゃん」
不意に、後ろから声を掛けられた。
今朝も似たようなことがあったなと思いつつ振り返ると――案の定、そこには市原くんが立っていた。
違う点は、いつもの制服姿ではなく、道着を着ているところ。
「……何してんの市原くん。練習中でしょ?」
「なんか入部希望者が少なすぎるらしくて、二年生は勧誘いけってさ。サボれてラッキー」
「なるほどね。勧誘頑張って」
「ありがと。ていうか、前田さんこそ何してんの? 水汲みって一年生がやるんじゃないんだ」
「……今は他のこと覚えてもらってるから、私が代わりにね」
「へー、相変わらず優しいね」
「……」
なんか変な感じだ。
違うクラスになって、もう話すこともないと思っていただけに……不意打ちで始まったこの会話が、妙に心地いい。
「あ、あのー……剣道部の人ですか?」
市原くんの後ろから、そんな声が聞こえた。
見れば、ザ・一年生という雰囲気を纏った女の子が、おどおどしながら彼に話しかけている。
「? そうだけど、何か用ですか?」
「えっと……ちょっと興味があって、見学したいなと……」
「マジ⁉ おっけーおっけー、道場の入り口すぐそこだから、案内するよ」
「あ、ありがとうございます」
女の子はぺこりとお辞儀をする。
「ってことだから、俺行くわ。前田さんも、水汲みとかいろいろ頑張って!」
市原くんはそう言って、私に背を向けた。
当然だ。彼がここで会話を続ける理由なんて一つもないのだから、さっさと道場に戻るに決まっている。
「……待って」
あれ?
なんで私、引き止めてるの?
「ん? どうしたの?」
急に引き止めたの嫌な顔一つせず、市原くんは振り返ってくれた。
「えっと……」
気まずい。
言うことなんて考えてなかったし、どうして声が出たのかも自分でわかっていない。
ただ。
ここで彼を行かせてしまったら……二度と。
もう二度と、話せないような気がして。
「……ココア」
「え、ココア?」
「……無糖のココア、お返しにあげたことがあったでしょ? お父さんが注文間違えたらしくて、家に大量に余ってて……もしよかったら、貰ってくれないかな?」
「マジ? ……いやでも、そんな貰いっぱなしは悪いって」
「お父さんも、無駄にするくらいなら飲みたい人にあげなさいって言ってたから、そこは気にしないで」
「んー……そういうことなら……超いる! ありがと、前田さん!」
市原くんはニコッと笑う。
「一気に渡すと迷惑だと思うから……一本ずつあげる感じでもいい? 私も、段ボール持ってくるの嫌だし……」
「何でもオッケー。俺は貰う側なんだから、前田さんのやりやすいようにしてくれていいよ」
「じゃあ、明日また、部活の前にここで渡すね」
「了解! 楽しみ!」
そう言い残して、彼は一年生と共に道場へと戻っていった。
「……バイト、増やした方がいいかな」
もちろん、家に大量の無糖ココアなんて余っていない。
私は携帯を開き――ココアの相場を調べる。
うん。ちょっとだけシフト、増やしてもらおう。
◇
それから。
私から市原くんへの無糖ココアのプレゼントは、ほとんど毎日続いている。
もっとも、彼はプレゼントだとは思っていないけれど……私が実費で購入してると知ったら、申し訳なくて受け取ってくれないだろうから、そのことは伏せているのだ。
放課後、ココアを渡す数分間。
私たちの奇妙な関係は、なぜか途切れることなく続いていった。
……それで、まあ、認めたくないけど。
事ここに至っては、認めざるを得ないだろう。
私が――彼を。
市原勇樹くんのことを、憎からず思っているという事実を。
007
三年生になった。
それも――夏真っ盛り。
「よっ、前田さん」
うだるような猛暑の中、相も変わらずジャグに水を汲む私に、市原くんが声を掛けてくる。
「どうも、市原くん」
今日は現役最後の部活。昨日行われた夏の大会で見事二回戦敗退を決めた我がサッカー部は、大人しく引退という二文字を引っ提げて、受験勉強に励むことになる。
ちなみに、最後の最後まで水汲みの雑用をやめなかった私のことを、女子マネージャー陣は尊敬と皮肉を込めて「ジャグ女」と呼んだ(普通にダサい)。
「サッカー部、残念だったね。めえちゃめちゃ強豪校とあたったらしいじゃん?」
「私たちに勝ったとこが優勝したんだ……市原くんはどうだったの? 剣道部も昨日大会があったんだよね?」
「あー……」
彼は頭をポリポリと掻き、恥ずかしそうにはにかむ。
「負けちゃった。惜しいところまではいったんだけど……俺も今日から、受験生の仲間入りってこと」
「……残念だったね」
「剣道人生が終わったわけじゃないし、大学生になったらまた鍛え直すさ」
「無事になれるといいけど」
「酷くない? これでも勉強頑張ろうって気合入れてるのに」
「ごめんごめん……とにかく、お疲れ様」
そうか、市原くんも引退なのか。
私たちの青春の一ページは、幕を下ろしたことになる。
そして――同時に。
考えないようにしてた問題にも、目を向けなければならない時がきた。
「あ、これ、ココア」
そう。
クラスの違う私たちが、唯一つながりを保てていたこの時間が――なくなってしまう。
無糖ココアを手渡す、たった数分の関係。
それが今、終わろうとしていた。
「ありがとー!」
彼はいつものように無邪気な顔で缶を受け取り、プシュッと蓋を開ける。
ココアの香りが、漂った。
「……」
美味しそうにココアを飲む市原くん対し、どう話しかけていいのか戸惑う。
これを飲み終わったら、私たちの関係どうなってしまうのだろう。
私は、どうしたいのだろう。
「ごちさうさま! 前田さん、ちょっと待っててもらってもいい?」
言葉がまとまらずにいる私を残し、彼は道場の方へと走っていった。
しばらくして戻ってきた彼は、大きめの段ボールを抱えていた。
「これ、今までのお返し! お父さんへお礼と、前田さんにもお礼!」
どん! と置かれた段ボールの中身は――細長いスナック菓子。
「……『うめえ棒』」
「そ。貰いっぱなしは悪いから、せめてもの気持ち的な。それに前田さんも部活引退だし、お疲れ様の意味も込めて」
「……」
駄目だ。
泣きそう。
こんなお返しを貰うなんて想像もしてなかったから、あまりに突然すぎて心の準備ができていなかった。
いろんなものが込み上げてきて、それを止めるので精一杯で、なんにも言葉が出てこない。
「えっと……大丈夫? いらないなら全然捨ててくるけど」
「……大丈夫、嬉しいよ。ありがとう、市原くん」
私は泣きそうな顔を見られたくなくて、下を向き俯く。
私と彼の関係。
甘くない無糖ココアがつないでくれたこの関係を。
私は――終わらせたくないんだ。
「……市原くん」
「なに、前田さん」
「今日でお互い、引退だね」
「そうだね、お疲れ様」
「これからは、受験勉強が始まるね。市原くん全然勉強してなかっただろうから、大変だね」
「ヤなこと言うねー。ま、死ぬ気で頑張るしかないけど」
「そんな死ぬ気で頑張る受験勉強のお供に、無糖ココアがあったら嬉しくない?」
「……確かに、ブラックコーヒーみたいでよさそう。それに周りに飲んでる人もいないし、特別感が出る」
「何それ、かっこつけ……じゃあ、毎日ココアが飲めたら、市原くんはどれくらい喜ぶ?」
「そりゃもうめちゃめちゃ喜ぶよ。勉強のやる気も出るだろうし……でも、何より」
言って。
彼は、私の顔を覗き込む。
「恋人がいたら、毎日ハッピーなんだけどな……前田さんは、どう思う?」
エピローグ
「いらっしゃいませー!」
地元の安い居酒屋。
二十歳になったお祝いで、私はここに連れてこられた。
「じゃあま、とりあえずビールでしょ! すみませーん、生二つお願いしまーす!」
大声で注文する市原くんは、ニコニコ笑顔で私の顔を覗き込んでくる。
「……何でそんなににやけてるの」
「いやー、ついに前田さんとお酒が飲めるようになったなーって感慨深くて」
「ついにって、市原くんの誕生日先月でしょ? 一カ月待っただけじゃない」
「それはそうだけどさ……そう言えば、誕プレの道着、めちゃめちゃかっこいいって部内で評判になってるよ。ありがと!」
「……ならよかったけど」
「前田さんの誕プレ、すごいの用意してあるから! お返しに!」
「まあ、あんまり期待しないどくね」
その昔、『うめえ棒』の詰め合わせを貰ったことのある身としては、プレゼントの内容には期待しない方がいいと思ってしまう。気持ちだけで嬉しいけど。
「生二つお待ちどー!」
「お、きたきた……それじゃあ前田さん。二十歳の誕生日、おめでとう。乾杯!」
「かんぱーい」
私は人生初となるビールを口に運ぶ。
……苦い。
「……ごめん、これ、飲めないかも……」
「マジ⁉ 前田さん甘いの苦手だから、口に合うと思ったんだけど」
「……甘いもの、最近は好きになってきてるけどね」
ぼそっと呟く私の声は、居酒屋の喧騒に吸い込まれる。
「マジごめん! それは俺が飲むから、なんか美味しそうなやつ頼もう!」
焦る市原くんの姿は、小動物みたいで実に可愛い。
「そうだなー……じゃあ、このカシスオレンジってやつにしてみる」
「オッケー! すみませーん、カシオレ一つお願いします!」
運ばれてきたお酒を、一口飲んでみる。
無糖のココアに比べたら、とっても甘くて。
それとちょっぴり、大人の味だ。
「じゃあ改めて、誕生日おめでとー!」
きっとこれからも、私はいろんな味を知っていくんだろう。
甘いのも、苦いのも、辛いのも、酸っぱいのも。
その中には苦手な味もあって、全部を好きにはなれないかもしれない。
でも――きっと。
あの甘くない無糖ココアの味を、気に入る日もくるはずだ。
その日がくるまでは、とりあえず。
甘い味を、楽しもうと思う。
……そういえば最近、イライラしなくなってきたな。
彼も退屈してるかもしれないし――酔った勢いにかこつけて、久しぶりにイタズラでもしてやろうか。
無糖ココアは甘くない・完