第十九集:暗黙のルール
「……ん」
午の初刻、太陽の日差しでタリアは目覚めた。
襖が閉められていない桜舞殿の寝所、屏障具の一種、几帳が風ではためいている。綻びが四つの几帳は木製の柱と横木に溜塗が施されており、金襴の垂れ布が掛けられてあった。上品な白の生絹に品のある桜模様が映えている。幅筋は一斤染だ。三連の二重叶結びされた今様色の唐打紐が、桜の花びらが散っている床の簀子に伸びていた。うららかな春の陽気で柔らかい彩光が室内を照らしている。
「タリア、起きたの?」
「んー……、起きた……」
「三時間も寝てないよ」
「……ん」
タリアは焔に今し方、解放されたばかりだ。堕神の事件後、帰宅して数時間、愛を語らう夜の営みは続いた。焔の体力は底無しだ。「寝ていた」は語弊で、「気絶していた」が正しい。
タリアは寝返りを打ち、焔と正対する。焔は右手の片肘を突く、肘枕で横になっていた。タリアの髪を一筋掬い、手先で遊んでいる。開けた黒襦袢の胸元を流れる紅い髪は艶めかしい。妖艶な雰囲気を漂わせていた。
「…………っ」
目のやり場に困るタリアは羞恥で俯き、そっと自分が着た白襦袢の襟元を整える。刹那、焔の左手がタリアの手を掴んだ。
「タリア寝る……?」
「寝ない……、起きよう焔。もう昼だ」
「じゃあ、三十分」
「ちょ、焔……!!」
タリアの上に焔が覆い被さってきた。一瞬で口づけされる。
「ぅん……」
何度か啄まれ、やんわり歯列を割られた。口腔に忍び込んでくる舌は熱い。
「……んんっ……」
彷徨っていた舌を搦め捕られる。甘く溶け合い、頭の芯が痺れた。
「ん……はっ、んんっ……」
狂おしく貪れる。二人の混じり合った唾液をタリアが飲み込んだ。与えられる快感に酩酊しタリアの脳内が蕩けた矢先、ドダドダドダッと廊下を走る音が聞こえ、矢庭に白軍衣の裾をバサリ翻した男神が現れる。
「――タリア!!」
上位神エルだ。隣に上位神アライアもいた。
「……あ」
全員がビシリ固まる。直後、エルが無言で二人のいる寝所、御帳台にツカツカ詰め寄り、焔を横蹴りで吹っ飛ばした。踵が泳がない、軌道のいい見事な足刀だ。
加減のない一撃で焔は妻戸にぶつかる。
「うああ!! 焔!!」
「……やあ義兄さん、おはよう。いい天気だね」
けれど焔は鬼体が丈夫な火鬼だ。けろっと立ち上がり、エルに簡略な挨拶をした。かすり傷ひとつ負っていない。
タリアはいそいそ御帳台を下りる。丈長に仕立てられた千鳥格子の薄羽織を纏い、焔のもとへ行き、乱れている黒襦袢を綺麗にした。
「ありがとうタリア」
エルとアライアを意に介さず、冷静な口調で礼を述べる焔の度胸は本物だ。タリアも肖りたい。居た堪れない状況だ。しかし逃げられず、タリアは腹を括り、二人と面を向かう。
「え、と……。おはようエル、アライア」
「おはようタリア。ねえ猥りがわしい火鬼、殺していい? 宇宙の藻屑、星間塵にしていいわよね? 天上界にいらない夾雑物よ、排除しなきゃ。私が殺ってあげる」
「だ、だめだ落ち着いてアライア!! 興奮しちゃいけない!! 私の宮殿を壊す気か!?」
アライアが手首の準備運動を始めた。柳眉を逆立てている。武道に長けたアライアに本気で暴れられたら桜舞殿は一溜りもない。
「はあ……。アライア、アイツはタリアを誑かす魔物だが、いまはやめておけ」
「……兄さん」
エルが拳を振り翳すアライアを制してくれた。大人しくなるアライアは敵意を含んだ目で焔を睨んだものの、当人は腕を組み、歯牙にもかけていない。仲が悪い二人にタリアは片頬を掻き、咳払いで枯れた声帯を潤し、エルに用件を訊ねる。
「ゴホッ……。エル、アライアとふたりで私に何か用が?」
「ああ。天帝饗宴でお前の神体を常闇に堕とした堕神、大神ドックスを征伐した」
「大神……」
エルの用向は天帝饗宴でタリアが堕落の烙印を押され、堕神に堕ちかけ苦しんだ、あまり思い出したくはない事案の解決報告であった。
大神は下級三神、七番目の階位に属している神だ。神々の御使いで下界を拠点に人間を見守り、中級三神の六番目の階位、神後官の補佐官として堕神と戦うことも多い。
タリアは神の階級で最も位階の高い上級三神、上位神だ。下級三神と接点はない、ドックスの名も初耳だ。
「(彼と私を繋ぐ点はない……、いや……)」
ない、は思い込みかもしれない。記憶を探り頭を働かせていたタリアの、その表情で思考を読んだエルが、事の発端の原因を極力簡潔に告げる。
「タリア、ドックスはお前と関りはない。ドックスは自分が堕神になりたい身勝手な理由で、自ら堕神に近付き、お前を手土産に堕とし攫う交渉でお前を襲ったに過ぎない。鄙劣で思慮のない策略だ」
「堕落の烙印をドックスに渡した堕神はル……、輝堕王に始末してもらったわ」
継いでアライアが補足説明した。元上位神ルキの神名を言いかけ、きっちり訂正する。慌てた様子のない鶯舌の音律は歪んでいない。
「――え……、輝堕王!?」
闇黒を司る輝堕王は堕神の王だ。タリアは予想だにしない人物の名前を出され驚いた。彼は元上級三神の上位神、光を司る男神ルキ、遥か昔人間の跪拝を拒み天上界を追放された、正真正銘エルの双子の弟だ。
エルの前で彼の話題は避けたいが、一瞥したところ特段、動じていない。
「私の能力、蝶青届美で堕輝王に連絡をしたの。アナタを間接的に侮辱した醜陋な堕神を野放しにしてはおけないでしょう? アナタに緊急事態が発生した場合、私達兄姉弟は協力し合う暗黙のルールがあるのよ」
蝶青届美はアライア自身の伝言を霊光した青い蝶々が特定の相手に届ける、一種の通信手段だ。役目を果たした後は消滅する。儚くも美しい能力だ。
「……暗黙のルール? そ、れは知らなかった。ありがとうアライア、エル」
明言されていない兄姉の規則の詳細は問わない。兄姉はタリアの懸念を払拭してくれた、いまある現実がすべてだ。タリアは拱手し感謝した。
「いいのよ、アナタは私達の可愛い可愛い末妹だもの」
「……私は男神だ姉さん」
「じゃあねタリア私は御暇するわ、兄さんもまた。……火鬼と同じ空間にいたくないの、神体が汚染されちゃうわ」
アライアはタリアの修正を無視し、末妹と長男、ふたりの左頬にキスをする。そして焔を睥睨し、十二枚の翼で羽ばたいて行った。焔は鼻で笑い、「汚れたね」などとタリアの左頬を自身の袖で擦ってくる。曇りのない真っ白な柔肌を気遣った動作は優しい。
「焔……」
「はい。いいよタリア」
「……はあ、ありがとう」
どちらの味方もしないが、満足げに微笑する焔の機嫌を現段階でタリアは最優先した。仲良くしてほしいが人は性質があり相性がある、類似性と相補性の要因は千差万別だ。タリアは気長に二人の感情変化を待つほか術はない。
恵風が白梅や紅梅の香りを運んでくる。アライアの退出で三人になった。タイミングを見計らい、エルが焔に苦言を呈する。
「孤魅恐純、お前とタリアは婚前だ。父の無償の愛に倣い、お前達二人の愛ある閨房の房事を咎めはしないが、少しは謹め」
「ありがとう義兄さんは寛大だ、少し謹むよ」
「…………」
焔が語末を反復させ首肯した。
「(兄さんありがとう……)」
タリアは心中でエルを拝んだ。されど安堵は早かった、ふたりの「少し」の誤差は雲泥だ。今宵タリアは身を以て体験する羽目になる。
「タリア、父上に拝謁するだろう?」
「もちろん、未の刻に予定しているよ」
二翼と四肢を再創造し、仄暗い底から意識を浮上させてくれた天上皇に、万謝したい。
「俺も一緒に行くよ、タリア」
「ありがとう焔、一緒に行こう」
天上皇も焔に会いたいはずだ。タリアは焔に微笑み、視線を目映い外に投げたのだった。
おはようございます、白師万遊です(*ฅ́˘ฅ̀*)♡
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