第二集:東月湖
戌の刻の初刻、タリアと焔は藁葺屋根の家の玄関前にいた。
タリアが手頃な木の棒で地面に円形を描き、縁に添って天上界の文様や神聖文字、天名地鎮を手際よく綴り構成する図は、境界円だ。別名――界道は、鬼界、狐界、狼界、鹿界、下界、五界すべてをいとも容易く行き来できる。書かれた図形の境界円は神々の神力に反応し効果を発揮する、五界の者は扱えない。
「――よし、完成した」
雪が降っておらず積雪していない時間帯で助かった。流石に雪の上に境界円は描き難い。タリアが木の棒を置き、焔と二人、境界円に入る。
「じゃあ、行くよ」
「うん」
「――我、百罪百許を授ずけられし神、地上に並ぶものなし」
タリアが夜の静寂で唱えた。二人は目映い光の粒に包まれ、一瞬にして目的地に到着する。焔が夕餉後に「ちょっと俺に付き合って」と誘ってきた、鬼界だ。
鬼界の気温は平均24~30℃と暖かい。
活動活発な火山や休火山が大小数多にある。アルケー火山は地上で最も大きい。タリアが焔と鬼界を訪れたのは、今回で三回目だった。
二人は手袋や外套を脱ぎ、能力で収める。
「…………」
焔に指示され鬼界の東に移動したはいいが、辺りは暗い。きょろきょろ回りを見渡すタリアの右手を焔が掴んだ。
「こっちだよ」
「あ、うん」
焔に誘われ森の中を暫し歩いた。一帯は芍薬の花畑になっている。高貴な香りが周囲にふんわり漂っていた。いま下界は冬季の真っただ中だ、芍薬の開花は五月とまだ先は遠い。タリアは鬼界の気候で一足早い春の体感をし、下界の春容が益々、待ち遠しくなった。
「タリア、もう着くよ」
「わかった」
可憐な花々が咲き誇る小径は楽しい。タリアは足取り軽く奥に進み、焔と共に森を抜けた。風光明媚な煌きが出迎えてくれる。
「――タリア、東月湖だよ」
「……わあ、凄いな!!」
東月湖の水深は平均2m、外周は15km、水域面積は6.2平方kmもある、広大な湖だ。左右の縦線に雲模様が彫られた石畳の橋があり、最奥に湖面とほぼ同じ高さの亭、謂わば水榭があった。
開放的な作りになっている。二層になった金瓦の屋根は宝形造の形状で柱は六本、周りを閉ざす壁はない。亭の平面は六角形だ。
夜陰の湖面に映る新月の輪の倒影が素晴らしい。
「……綺麗だ」
明鏡止水の水面を乱舞する幻想的な淡い光子の正体は火蛍だ。鬼界に生息する蛍で山吹色に発光する。熱を持たない冷火は陰の象徴と古来の人々は恐れていたが、儚さを主張した蛍の生命を燃やす神秘的な姿に人々は注目し始め、いつしか風物詩と変わっていた。
「タリア、足下に気を付けて」
「ああ、ありがとう」
タリアは焔に右手を引かれる。石橋を渡り、数十メートルと近い、水榭まで案内してくれた。
水榭の内部の頭上は青龍、朱雀、白虎、玄武、四神の彩画で装飾されてある。入口手前の二本の柱に対聯、対句が鬼語で記されてあった。タリアは鬼界の言語、鬼語が読めない。
「ねえ焔、これは何て意味だ?」
「ああ。左の柱は白天上清、右の柱は紅地下穢、だよ。天上界と鬼界を示している、深意はない」
「へえ、成程……」
ふたつの句を並べ、対称、強調させる技法は面白い。音韻と形式、華麗で凝らされた美文的な文体は鬼界の宝である。
「それよりタリア見て、一等星があるよ」
刹那、焔が話を切り替え星々を指差した。
「わあ! 光華だ!!」
ひと際明るく輝く三つの一等星、しし座のレグルス、おとめ座のスピカ、うしかい座のアークトゥルスを結んだ春の大三角形や、おおくま座の柄杓の形をした北斗七星、春の大曲線の星座が星列している。
光輝燦爛な夜空は、まるで万華鏡の世界だ。
「俺は興味ないけど、タリアは好きだと思って、気に入った?」
「ハハッ、キミは正直者だ。気に入った、とても感動しているよ。ありがとう焔」
五界の星々は二次元的、天上界は三次元的、タリアは双方の美点を再認識した。礼を告げるタリアに、焔は瞼を半分に下げ微笑んだ。眼差しは至極、優しい。
「良かった。気に入ってくれて」
焔はタリア一辺倒の知識を蓄えている。タリアのために、タリアを喜ばせたく、今宵の散歩はここを選んだ。
「――タリア」
突如、閃々たる背景を背に焔が片膝を突き、跪いた。手を繋ぐタリアの右手の甲にそっと口づけする。折よく一斉に火蛍がふわり舞い上がった。
「――――ッ」
目を見張るタリアの桜色の虹彩に清麗で満ちた鮮やかな美景が反射する。泡沫の尊い瞬間だ。
「俺はタリアを悠久に愛すと誓う。タリアの魂が消滅したら俺も死ぬ、タリアがいるところに俺もいる。俺の心体、全部をタリアに奉ずる。現世、来世、死して尚、俺はタリアの傍らにいるよ」
誓言した焔の表情は凛々しい。寂寞たる過去と決別した固い意思に迷いはない。
タリアは焔の指先を握り返した。火鬼の孤魅恐純と出逢い、彼の篤実な愛のお陰でタリアも又、神々しく淀んだ煢然な錘を切り離せている。
「ありがとう焔、私も生生世世、キミに恋情と愛情を捧げよう。さあ焔、立って」
タリアと焔は君臣にない。対等な立場だ。タリアは焔を立たせた。
「……指頭がほんのり冷たい、タリア寒い?」
「いや、平気だ。冷たいかな?」
タリアは特段、体温の低下を自覚していない。焔は眉間に皺を刻んでいる。
「冷たくなってる。帰って湯浴みしよう、温まるよ」
タリア自身も気づかない些細な変化を、焔は絶対に見逃さない。
「……もう少しいたい。五分でいい」
火蛍が名残惜しかった。タリアは妥協案を提示し、「お願い」と懇願する。意図せず上目遣いだ。
潤んだ瞳に射抜かれた焔は、血流を駆け巡る邪な衝動を、奥歯を噛んでぐっと耐え、溜息交じりに承諾し顎をしゃくった。タリアの願いだ、叶えてあげたい。
「……っ、はあ。あっちの椅子に座ろう、五分だよ」
「ああ、ありがとう」
二人は来た道を戻る。東月湖の周縁部に木製の長椅子があった。焔の「あっちの椅子」の位置を、タリアが視界に捉えるや否や、長椅子の後方の、夜色に染まった木立がガサガサ揺れる。直後、ひとりの若い男性が飛び出してきた。
「――ダッ、ダズゲ……デ!!」
肌襦袢を着る男の頭部に、鬼の角がない。彼は正真正銘、下界の人間だ。
ハッとしたタリアが男に走り寄る。
「――大丈夫か!?」
「……ア、ア……ァ……」
男は体中、怪我が酷い。殴られた痕跡がある。男を見下ろす焔が小首を傾げた。
「……人間? 東月湖に禁界道はない。下界と接する狭間も――多分、ない」
禁界道は鬼界、狐界、狼界、鹿界、が結合する道だ。
「確かに……、妙だ」
下界と異界の狭間は道幅があるが、長椅子の後ろは単なる林地だ。獣道ですらない。となれば、男は禁界道を通ったのだろう。しかし焔云く前者はない。後者の「多分」は、狭間には解明されてない点が多く、未知な要素があるからだ。
「(……禁界道、狭間……どっちだ?)」
「ア……、オレ……」
「――ッ! ゆっくりでいい! なにがあった!?」
「……ッ、北の、じゅひょ、う村……、アガッ、アア!!」
タリアの質問に返答する間もなく、男は突然凍結し、パサリと砕けた。雪の結晶となって体が崩壊する。
「……、いったい……」
「……へえ。氷か、氷は狼族の能力だよ」
焔が肩を竦め、情報をくれた。
「狼族……」
狼族が住まう狼界は極寒地で雪が降り止まない。種族の属性は雪や氷だ。
狼界で厄害の三狼――冴木犀、雪、弦師霜を三厄狼と称し、天上界は警戒していた。狼族が彼の死に関与している、恐らくだ。可能性は高い。
「……焔、私に付いて来るかい?」
唐突にタリアが訊ねた。焔は言外の意を察するまでもない。答えは決まっている。
「ああ、もちろん」
「ありがとう」
「どこに」も聞かず、決断が早い。タリアは一笑し、白い手袋と桜色の外套を取り出し着込んだのだった。
最後まで読んで頂きありがとうございます(*´Д`)
感想、レビュー、評価、ブクマ、フォロー等々、頂けると更新の励みになります!
また次回もよろしくお願いします<(_ _)>




