第五集:孤魅恐純の怒り
太陽が沈んだ戌の刻、鬼界は闇のベールに覆われる。赤鬼の兄弟――罔極と之恩は、一刻も早く三百幸石を完成させるべく、花柳街の川沿いの橋を渡った先にある森に舞い戻っていた。
「明るくてよかった!」
「……た!!」
今宵は満月だ。月明りが二人の手助けをしてくれている。
「ん~、石がない」
罔極がきょろきょろ辺りを見渡した。近場はすべて拾い集めてしまい、肝心の石がまったく転がっていない。
懸命に両目を凝らし一歩、一歩、奥に進んだ。罔極の白無地の浴衣をぎゅっと握り、之恩も足元に注意を向ける。
雑草や枝が蔓延った獣道は怖い。動物の鳴き声に恐怖心も掻き立てられる。十歳と五歳の兄弟は、母親を助けたい一心で力一杯に足を動かした。
腰を低く視界が下に偏った結果、気づけば二人は知らず知らず、鬼界と下界の狭間に来てしまっていた。
そして二人同様に、迷い込んだ者がいる。
「――おい!! 鬼がいるぞ!!」
「――本当だ!! 鬼がいやがる!!」
頭部に鬼角がない、作務衣を着た下界の人間達だ。突如、浴びせられる怒声に、罔極と之恩は体を強張らせ制止した。
木刀を腰に差す四十代半ばの男が六人いる。罔極と之恩は四界の一族は疎か人間と会った試しがない、初めての対面だ。
「あ……、ぁ……」
「……う、ぅぅ……」
本能が危ないと警鐘を鳴らした。漂う空気は不穏だ。後退る鬼の兄弟に、憎悪に満ちた顔で人間達は木刀を握る。
「俺ァ、先週、子供を鬼に食われたんだ!!」
「デカくなりゃこいつらも人間を襲う!!」
「親鬼はいねえ!! 殺っちまえ!!」
有無を言わさず人間達が一斉に襲い掛かってきた。罔極と之恩は逃げる、がすぐに左目が白内障で視野が歪む之恩が転倒した。追い付くひとりの男の振り被った木刀が、之恩の左肩を直撃する。殺意を籠めた勢いに加減はない。
「ヴアアア!!」
子供に容赦のない一撃だ。減り込んだ木刀が骨を砕き、血管を裂き、経験のない激痛に之恩が悲鳴を上げた。
「やめて!! やめてくれ!! 助けて!! 助けてお願い!!」
之恩に被さって蹲る罔極が懇願する。だが、人間達は聞く耳を持たない。
「絶好の機会だ!!」
「いまだ!! 殺れ!!」
「ふたり纏めてぶっ殺せ!!」
「容易く殺すな!! 痛めつけろ!!」
すかさず、袋叩きにした。人間は時に弱く、時に残酷だ。
「ヴッ、ダッ、ア!! 助け、……ガッ!! だず、げて!!!」
「イッ、ゥアア! に、いちゃ……、に、ぢゃ……グッ、ア!!」
人間の良心は状況下で変化する。
体を与えられた生物の特権で、公平な、感情だ。
下界に限った話ではない。過去で受けた屈辱や暴力、愁傷が、怒りや恨みとなり、時に人を非人道的な行為へと走らせてしまう。普段は穏和で優しい子供想いの、今晩の人間達がいい例だ。
「はあ、はあ、はあ……ハハ、苦しんでたな!!」
「ああ、じわじわ、フウ……ッ、殺ってやったぜ……」
「ぜえ、っ、はあ……ウチの子もッ、報われる……!!」
「ハハッ、……ハアハア……、ざまあねえ!!」
人間達は荒い息遣いで勝利を分かち合った。罔極と之恩は全身を殴打され、重なり合う形で死んでいる突出した眼球、抜けた歯、内臓が破裂し膨れる腹部、大量の血が地面を赤く濡らしていた。
そこに前触れもなく、黒い漢服の裾を翻す鬼が現れる。
「――……楽しい遊びしてるな、俺も混ぜてくれ」
鬼界で最恐の三人、三災鬼のひとり、孤魅恐純だ。
「ひぃいいい!! 紅の鬼!! 間違いねえ!! コイツ宵月童子だ!!」
「宵月童子!? 何で、んな化物がッ……!!」
「こ、こっちに来るんじゃねえ!!」
海老色の二本角、特徴的な朱色の髪に人間達が大呼した。天に轟く悪名高き火鬼、下界の通り名は宵月童子だ。圧倒的な威圧感に、畏怖の念を抱く男達は足腰が立たない。
「…………」
孤魅恐純は無残な死体を見やる。
半刻前、彼の姿は花柳街にあった。美しい遊女に目もくれず簡単な用件を済ませ、昼間、兄弟が頑張ったであろう三百幸石の進歩度合いが気になり、興味の赴くまま川沿いの古い橋を渡り森に踏み込んだのだ。刹那に風が運ぶ人間と血の臭いが孤魅恐純の鼻奥を刺激し、嫌な予感で駆け付ければ、目前に現在の状況が広がっていた。
弟を守る兄、兄を抱く弟、呆気ない死に様だ。
弱い鬼は殺される。弱肉強食の地上に慈悲はない。
罪のない無垢で純朴だった彼らが殺される世だ。
弱い者は奪われる。弱い者は皆然り、極悪非道な人間を殺生して何が悪い。
「……ッ、たた、助けてくれ!!」
「見逃してくれ!!」
「お願いだっ、助けてくれ!!」
「……ハッ、アイツらも『助けて』って言ったんじゃないか?」
「――――ッ!!」
孤魅恐純の問いに人間達は唾液を飲んだ。原因と結果、運命の車輪が回った。善因は善果を、悪因は悪果を受ける。吉凶禍福の果報だ。腰に差す鬼灯丸を抜刀した孤魅恐純は、地べたを這いずる六人の人間の首を、炎の一太刀で刎ねた。
弧を描く流血、ゴン、ゴン、と六つの首が地面で跳ねる。血飛沫を上げ、糸を失った傀儡が無造作に崩れた。血溜まりに映る満月は朱殷で妖しい。
孤魅恐純は炎の刀身を鞘に収め、邪魔な頭を幾つか足蹴にする。
「ふん…………」
情感が乏しい、道徳心のない、冷酷無慙な火鬼だ。死者の愚弄を平然と行った孤魅恐純は、仰向けになっている人間の胴体の胸部に右手を突き刺し、生温かい心臓を抉り出した。鮮やかで魅力がある瑞々しい心臓だが食べはしない。
孤魅恐純は同じ作業を繰り返す。一体、一体、異なる心臓を抉り、丁度手元にあった蘇芳色の巾着袋に放り込んだ。
「――食っていい、小鬼は駄目だ」
火鬼の許しを得て、木々の上で待ち構えていた巨大な肉食鳥達が、人間の死体の血肉に群がる。頑丈な鉤型の嘴で肉を引き千切っていた。
巾着袋の底がポタポタ血で滴っている。
「……六つ、ね」
罔極と之恩、二人の無念は関係ない。一重に、やり場のない憤りを発散したい孤魅恐純は二人が成し得なかった三百幸石、それを人間の心臓でやるつもりだ。
しかし全然、心臓が足りない。
三百幸石は三百の石を使用する。いまある心臓は六つ、あと二百九十四、必要だった。
「はあ……、コイツらの村に行くかな」
男達は身形がよく体格もいい。衣食住に困っていない人間達だ。
栄えた村なら三百人は確実にいる。孤魅恐純は世の無情に翻弄された兄弟、眠る罔極と之恩に視線を移した。
帰らない息子二人に嘆く母親が一瞬、孤魅恐純の脳裏に過る。
「じゃあな」
最期の別れの挨拶だ。孤魅恐純は踵を返さない。人間達が来た道を辿り、久しぶりに下界を訪れた。
「――へえ」
鬼界にない、のどかな田園と竹林に出迎えらえる。緩やかな谷合に密集した、伝統的な茅葺屋根の集落だ。整然と佇立する杉林が家屋を囲んでおり、田畑の中を区切る小径に水車小屋があった。家畜小屋もあり裕福さが窺える。
ぽつぽつ置かれた松明は松の割木が使われていて、パチパチ奏でる火の音色は心地が良い。鬼火の出番はお預けだ。
「ここらでいいか」
孤魅恐純は村の中央で止まり、朱色の瞳を灯らせ囁いた。
「火掴火星」
直後、孤魅恐純を中心に手の形状を成す火が放射線状に発射させる。自由自在に波打つ火の手が、人間達を襲撃した。飛び交う叫声の最中、火の手が次々に人間の心臓を主人に持ち帰る。
孤魅恐純はベチャ、ベチャ、と不揃いな心臓を積んだ。
その傍らで集落は段々、静寂になった。
村人の犠牲者は三百二十一人中、二百九十四人、先刻の男達は六人、合計で三百の心臓が山積みになる。兇悪を象徴した光景はおどろおどろしい。
孤魅恐純は満足げだった。熱い吐息が天に昇る。
「……ハア」
三百幸石を人間の心臓だけで完成させた。人間の命を揶揄するように燃やす孤魅恐純の眼前に、天と地を結ぶ五つの天光柱が出現する。天上界の神官が五人、降りて来たのだった。
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