第四集:兄弟の涙
申の刻の花柳街は静かだ。人通りも疎らで、化けの皮を剥いだ化粧を施していない女郎が数人、肌着の衣で彷徨いている。飲み明かした鬼達の生気のない屍、異物、が至る所に点々とあった。
孤魅恐純は川沿いを進み、古い反り橋を渡る。傷んだ木の板がギシギシ唸った。橋は歴史の面影はあるが時代に取り残された末路に思える。
「――懲りずにやってたな」
生い茂る森で赤鬼の兄弟、罔極と之恩を発見した。孤魅恐純の溜息交じりの独言に、兄弟二人は驚きで両肩を不随意的に揺らし顔を上げる。額、頬、首、あちらこちら泥塗れで擦り傷だらけだ。
「――火鬼の兄ちゃん!!」
「――に、いちゃん!」
二人は向日葵を連想させる明るい笑顔で孤魅恐純を出迎えた。
「……ふうん」
孤魅恐純は罔極が握る手頃な石を見やり、長い睫毛をゆっくり傾け、視線を足元に落とす。三百幸石は昨晩に比べ、多少は厚みが増していた。乱雑に大小の石を重ね、四角錐を目指す意気込みは窺える。
「来てくれたんだ! ちゃんと昼間にしてるよ、見て!」
「……通りかかった序でにね。はあ、完成するのか?」
罔極は自信満々に自慢したが、底辺止まりは変わらない。不揃いな自然の石を三百使って四角錐に積み上げる、中々に高度な技が必要だ。
「ムーッ、する!! させるの!! 明日!! 明日には完成させる!! 絶対に!!」
孤魅恐純の冷めたい眼差しの先にある三百幸石は不安定で危なげない。一言で、下手くそだ。罔極本人も自覚はあり、口元をへの字に宣言した。
「……明日ねえ」
地上に絶対はない。けれど孤魅恐純は断言できる。明日に完成は無理だ。
「母ちゃん、今日、高熱で起き上がれなくて……、水も嫌だって恐いって飲まなかったんだ!!」
「(水が恐い……?)」
「三百幸石、早く! 早く完成させたい、母ちゃんを助けたいんだ! 火鬼の兄ちゃんだって、助けたいヤツいるだろ!?」
「いないね」
涙目で訴える罔極に孤魅恐純は同調しない。
助けられた経験がない孤魅恐純は、誰かを助けたいと必死になる気持ちに寄り添えない。
「いないの!? ひとりも!?」
「ああ、いないね。ひとりも、いない。助けられたことない俺がいったい誰を助ける?」
地上は平等ではない人生が平等だ。不平等は不幸に繋がらない。孤魅恐純は天上界の唱える戯言にうんざりだった。
火鬼に生まれ、劣悪な環境で育ち、鏖殺と駆逐、殲滅と撲滅の日々に休息はない。生きたければ殺せ、殺されたくなければ殺せ、殺す以外の選択肢は死と敗北を意味する。孤魅恐純は気づけば天地に名を馳せ、気づけば亡骸の頂点に君臨していた。
「い、――ま!! いまはいないんだよ!! どこかにね、いるよ!! 火鬼のお兄ちゃんを助けてくれる人!! それでね、火鬼のお兄ちゃんが助けてあげたい人!!」
「……あげたい、人いる!!」
罔極が孤魅恐純を励ます語尾を真似た之恩が拳を掲げる。合理的なもの、打算的なもの、そんな世界と無縁な十歳と五歳に気遣われた孤魅恐純は空を仰いだ。
「……はあ」
いない、に三百万両賭けていい。発想が幼稚だ。万一、助けられる状況に至っても助ける側にならない。助けた側の魂胆は丸見えだ。騙されない。
「いるよ!!」
「るよ!!」
「あー……、はいはい」
二人に適当な相槌を打ち、面倒臭い孤魅恐純は話題を切り変えた。「水が恐い」の、先程の言葉が引っかかっている。
「お前らの母ちゃん、犬に嚙まれなかったか?」
「……いぬ? んー、あ! ちょっと前、かな。僕達を虐める野良犬追い払って、噛まれてた!」
卑賎街はお腹を空かせた野良犬が多い。小さい子供は恰好の餌食だ。
「母ちゃんの傷口、いまは?」
「いま? いまはわかんない。んー……痒い、痛いって言ってたかな? あっ、僕らを守った勲章だって言ってた!! 僕達の母ちゃん強いんだ!!」
「……強いんだ!!」
母親を誇る二人は上半身を反らせ胸を張った。子供達の仁王立ちは愛嬌がある。だが、子供嫌いな孤魅恐純に彼らの可愛さは伝わっていない。
孤魅恐純は二人に目もくれず、罔極から聞き出した母親の情報を脳内で整理していた。
「やっぱりな、成程……」
非特異的な症状の高熱は珍しくない。しかし水を恐がった母親の行動、恐水症を伴う病は限られる。恐らく母親が急激に体調を崩した発端は野良犬だ、母親は鬼狂犬病にかかっている可能性が極めて高い。
鬼狂犬病――要は、下界で言う狂犬病だ。鬼狂犬病ウイルスに感染した動物に咬まれると、咬まれた傷口から鬼狂犬病ウイルスが侵入、人の筋肉で増殖する。筋肉で増殖した鬼狂犬病ウイルスの移行先は脳だ。約三カ月の潜伏した後、全身の臓器に障害が起こり死に至る。鬼狂犬病に鬼が感染した場合、致死率は50%だ。
孤魅恐純はひとりで納得した。零れた呟きに、罔極が首を傾げる。
「なにが成程なの? 火鬼の兄ちゃん」
「いや別に……」
孤魅恐純は真実を伏せた。
鬼族は丈夫な体だ。普通は鬼狂犬病如きで死に直結しないが、母親は元々、何かしらの病を抱えていたのだろう。そこに災難が降りかかっている状態で、原因が何であれ、病弱な母親が鬼狂犬病を患い生きれる未来はない。遅かれ早かれの死だ。
言おうが言うまいが結局、兄弟が辿り着くところは三百幸石である。
罔極は十歳、違和感に疎い年齢だ。はぐらかす孤魅恐純を問い詰めない。
「ふーん? よーっし、之恩! まだまだ頑張るぞー!!」
「ぞー!!」
兄弟は元気に石を探し始めた。努力は母親の魂を癒す材料になる。思いやりに欠けた孤魅恐純は応援はしないものの、純朴な二人の生き様を見届けたかった。
「……日が暮れる前に帰りな」
「はーい! じゃあねっ、火鬼の兄ちゃん!!」
「ひおにの、おにいちゃん!」
孤魅恐純の背中を見送り、罔極と之恩は無我夢中で三百幸石に挑んだ。
そして三人が別れて一時が経ち、酉の刻になる。
烏の鳴き声が不気味に響いた。辺りはすっかり暗い。
「あーっ、母ちゃんに叱られる!!」
「れる!!」
一心不乱に二人は作業をしていた。二百個目の石を置き、二拍手一礼し、罔極と之恩は慌てて帰宅を急いだ。
帰路の道で咲いていた綺麗な花を土産に、兄弟は家族三人で暮らす土壁の家に到着する。二人は「せーの」の合図で暖簾を潜った。
「――母ちゃんただいま!!」
「――まっ!!」
横になる母親は返事をしない。いつもは「おかえり」と返ってくる。
「母ちゃん!! 怒ってるの!? ごめんっ、遅くなって!!」
「ごめ、ん!」
昨日の約束を破ってしまった。謝る兄弟は反省した様子で母親の傍に座り込んだ。
母親は振り向いてくれない。微動だにしない。
「ねえ、母ちゃん!」
罔極が母親の左肩を掴んで体を手前に引いた。ごろり、母親が仰向けになる。
「……母ちゃん?」
開いた瞳孔、半開きの口、母親は呼吸をしていない。
「母ちゃん!! 母ちゃん!!」
「あ、あ、かあ、ちゃん!!」
兄弟に無情が襲い掛かった。母を呼んで、呼んで、二人は泣き叫んだ。
兄と弟、二人を助け、育て、愛し、守ってくれた母親が死んでいる。
「わあああああ!! やだあ!! 逝かないで!! 逝かないで母ちゃん!! 母ちゃん!!」
「かあちゃ、かあちゃ!! えっぐ、えっぐ、うええええん!!」
兄弟の涙が床を濡らした。悲しみに心を抉られ、絶望に視界が滲んだ。
刹那、罔極がハッとする。希望はあった、蘇らせる術があった。
「――、三百幸石!! 神様、神様だ!! 待ってて、待っててね母ちゃん!! 行くぞ、之恩!!」
「うん!!」
神は願いを叶えてくれる、神は奇跡を起こせる。罔極が母親に毛布を被せ、摘んだ一輪の花を添え、兄弟は再び森へと駆け出したのだった。
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