第一集:書官セシャの失恋
天上界外城の西側に解歴紐殿、通称水晶殿がある。
解歴紐殿は天上界の謂わば図書館で、何十億年と昔に誕生した地球の経緯、万物の流転、天地の歴史、多種多様な資料が保管されてある貴重な場所だ。蔵書数は数え切れない。
クリスタルで建てられた建物はバロック様式だ。自然光が入射する透けた外観だが内部は見えず、緑と水で囲まれている庭、その周りの風景を映していた。雲居の空を突き抜ける水晶殿は何階建てか把握されていない。
静寂で満ちた風格ある格調高い内部は、白い大理石のタイルや柱、螺旋階段、見事な細工が施された本棚がずらり並んでいる。天井に繊細な色彩や陰影で描かれた学問や宗教、芸術を表すフレスコ画は職人の手業だ。至る所に飾られた高級感ある花々、内側から外部は丸見えで開放感があった。水面で反射した太陽光は眩しい。
この水晶殿にて働く中級三神の神々、書官は本の整理、選定や収集、利用者の案内や要望を対応する役目を担い、時に五事官の補助、若い神々の学習の手助けをしていた。灰色の長袍、黒い褲、白い靴底の黒長靴が彼らの制服規定だ。
書官を束ねる男神は中級三神の神官、文歴官の長エアナブになるが彼は自身の任務で多忙故、普段、水晶殿の管理は書官に任せきりでいない。もし上級三神の神が来訪した場合、位階によって書官が割り当てられる。なかでも特別な天上皇創りし上位神は書官長が護衛、道標役をする規定があった。
因みに書官長はセシャだ。中級三神の五番目の階位の神次官で知識と記述を司っている。面長の顔立ちで鼻筋の高い鼻の形は良い。糸目の瞼は一重だ。睫毛は短く隈が沈澱した目元は黒い。肉のない顎先の輪郭はシャープだ。頬骨が若干、疲労で浮き出ていた。180㎝の背丈で筋肉のない細身の体型をしている。
「――こちらの書棚になります」
未の刻の初刻、そんな書官長セシャは、とある人物に付き添っていた。
「――ありがとう、セシャ」
天上皇創りし最後の男神、豊かさと開花を司る上位神タリアだ。美を象徴した見目麗しいタリアの天上界随一たる美貌に振り返らない神々はいない。
タリアが水晶殿を来訪した瞬間、彼らの目はタリアに釘付けだ。黙って足を止め、直視せぬよう、顔をやや下向きで動向を窺っている。
セシャの想い人はタリアだ。タリアは自ら本を借りにくる頻度が多い。従って必然的にセシャと顔見知り程度の間柄となっていた。
間近でタリアと対面し惚れない神々はいない。桜色の明眸と目線が交わうと吹き抜ける爽やかな春の風、些細な引き金で弾けた恋に落ちない男神や女神はいないだろう。
セシャも又、密かな恋心を抱いていた。けれど相手は上位神だ。一介の神々と訳が違う。心中を占領した溢れる感情はセシャ本人も報われないと思っていたが先日、タリアは鬼界の三災鬼、火鬼と婚儀を挙げ、セシャは霞んだ僅かな希望をもぺしゃんこにされ、無慈悲な現実を叩き付けられ、正真正銘の失恋をしていた。
相手が神聖で高潔な上位神ならまだしも、あろうことかタリアが選んだ者は五百年前、人間や神官を殺めた天地に悪名が轟く大罪人だ。
何故、の一言で苦しんだセシャの行き場のない遣る瀬無い気持ちは語るに及ばない。
しかしいま、セシャは答えが胸にストンと落ちた気がしている。
「ねえ焔、どっちがいいかな?」
「俺はタリアがいい」
「……私は選択肢に入っていない」
タリアが話しかける相手は彼と結婚した、誰もが欲する彼を手に入れた、幸運で羨ましい男、孤魅恐純だ。彼はタリアの許可なく口を開き、タリアの許可なく清い神体に触れ、タリアの無垢で無償、永続的な愛を天地でただひとり独占できる。無論、タリアと愛を囁く情欲の月夜を共に過ごす特権も火鬼のものだ。
「(俺自身、もっとなんか、ぐちゃぐちゃどろどろに嫉妬するって思ってたんだけどな)」
タリアと孤魅恐純の醸し出す雰囲気は不思議だった。生まれの異なる正反対の邪と善は、お互いの欠けた部分を埋め合うようにぴったり填まり完結している。互いが互いを必要とした雑音のない世界はふたりにしか理解し合えない、そう空気が教えてくれた。
恐らくこれは、なるべくしてなったふたりの運命だ。
「じゃあ選択肢にタリアを入れて」
「……入れない。鬼界の料理を学びたいんだ」
タリアが両手に持つ古書は鬼界の料理本である。タリアが自分のために料理を勉強し、完成した手料理を「美味しいかな?」などと不安げな表情で問う姿は堪らない。状況を己に置き換え、濃厚で甘い妄想に浸る神々は本棚の影で悶えていた。
一方のセシャは落ち着いている。火鬼に対して汚い妬みもない。
むしろ、ふたりの結婚式以来、一番、頭と心は穏やかだ。
「タリア様、鬼界の料理を学びたいのでしたら、こちらがお薦めですよ。こちらの本は下界の材料で作れますし、人体や動物の臓物類は要りません。調理法や調理器具、道具も一般的です」
「へえ、さすがセシャだ。詳しいね。ありがとう、こっちにするよ。下界に帯出して大丈夫かな?」
上位神で下神に自ら礼を告げる者はタリアを除いていない。サシャが惚れたタリアの美点のひとつだ。
「はい。大丈夫です。返却期間も上位神の方々はありません、って既知の事実を逐一すみません」
「謝らなくていいよ、キミの仕事だ。久々に借りるし思い出せたありがとう。エアナブは元気?」
「御心遣い痛み入ります。エアナブ様は元気です、タリア様のご尊顔を拝したいと以前、申しておりました」
「アハハ、恐縮だな」
セシャの返答に苦笑するタリアは綺麗な爪先で片頬を掻いた。タリアの癖だ、華奢な指先は細い。セシャがタリアの艶がある手元を眺めていた矢先、孤魅恐純がタリアの指と指の間に自分の指を絡めて握り締める。
「タリア、用件は済んだ? 帰って少し昼寝しよう」
「ん? ああいいよ、兄さん達にお土産を渡して帰ろうか」
孤魅恐純の提案を容認したタリアは気づいていない。孤魅恐純は半分閉じる殺気剥き出しの両眼でセシャを見下ろし睨んでいた。
禍々しい悪の塊に睥睨され、慄くセシャは恐怖で粟立つ冷や汗を全身に滲ませている。
「おいでタリア、足下に気をつけて」
「ありがとう。セシャ、またね。今日はありがとう」
「あ――、いえ、はい……。失礼致します」
セシャはタリアに挨拶し拱手した。妖しく紅い翳を背負う孤魅恐純の背中は恐ろしい。
「……絶対、敵わねえな誰も」
相手は神々の天敵だ。万一の可能性も微塵とない。セシャは独り言ち、「あー……初恋は実らねえか、やっぱ……」と天を仰いだのだった。
「……幸せになって下さい、前途を祈っていますタリア様」
失恋の傷心は一貫性の痛みだ。いまは耐える他、術はない。
「――っし、頑張るか」
これは泡沫の切ない夢物語、それは否定してはいけない確かな恋物語、セシャが見上げた青空は濁りのない未来で一段と輝いている。
最後まで読んで頂きありがとうございます(*ฅ́˘ฅ̀*)♡
おはこんばんは、白師万遊です(∩´͈ ᐜ `͈∩)
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