プライド激高の難攻不落令嬢は、王太子殿下に求婚される
「アンナ嬢……大変申し上げづらいのですが、今回のお話は――――」
「セルジ様。わたくし、やっぱりあなたとは婚約できませんわ」
公爵令嬢アンナ・ゴッドウィンオースティンはそう言って、自身の婚約者候補を鋭く睨みつけた。話を切り出したのはセルジの方だというのに、アンナはまるで自分の方が先だったとでも言いたげに、尊大に胸を張り、上から見下ろす。
公爵邸に漂う張り詰めた空気。使用人たちは内心『またか』と思いつつ、固唾を飲んで二人を見守っていた。
「そうですか」
セルジとしても、アンナの反応は想定内だった。ホッと安堵のため息を吐き、そそくさと荷物を纏めると、脱兎のごとく屋敷から立ち去る。そんな彼を、立ち上がることすらせずに、アンナは見送った。
「やっぱり今回もダメだったか」
そう口にしたのはアンナの兄、モーリスだった。アンナの肩を叩きつつ、声を上げて笑うその様は、悪趣味そのもの。彼がこの事態を楽しんでいるのは明らかだった。
「お兄様、言っておきますけど」
「わたくしが悪いのではなく、あちらが悪いんです、だろう? 分かってるよ。一体何回このやり取りを繰り返したと思ってるんだ?」
モーリスはそう言って、意地の悪い笑みを浮かべる。アンナはムスッとした表情で兄を睨みつけた。
(何回繰り返した、ですって?)
アンナの結婚相手を探し始めて早五年。候補に挙がった男性は両手の指では足りやしない。けれど、婚約まで発展したものは、残念ながら皆無だ。
「だから『お試し期間』なんて無駄なもの作らないで、縁談が来たら即婚約したら良かったんだ。おまえ、このままだと完全な嫁き遅れだぞ?」
「――――――このわたくしの夫が半端ものでは困ります。きちんと見極めた後でなければ、婚約なんて結べるわけがありませんわ」
兄モーリスの問いかけに、アンナは平然とした表情でそう答える。
けれど本当は『お試し期間』はアンナではなく、婚約候補者達のために設けられたものだった。アンナの両親は、自分たちの娘に難があること――――プライドが高すぎることを知っていた。
アンナはその高すぎるプライドに比例するように、この上なく美しく、賢い娘だった。貴婦人に求められるマナーや知識、華もある。その代わり、超が付く程負けず嫌いで、気位が高い。
己の知識をひけらかす目的でアンナに話を振れば、あっという間に論破されてしまうし、鼻で笑われてしまう。おまけに、自分が相手の下であることを良しとしないため、男性としては当然面白くない。
こんな調子では婚約を結んだところで、すぐに破談になる。このため、アンナの両親は、娘に安易に婚約を結ばせず『お試し期間』なるものを用意したのだ。
「アンナ。兄さんはおまえのことを心配しているんだ」
モーリスはそう言ってため息を吐いた。いつにない真剣な表情に、アンナはムッと唇を尖らせる。先程アンナの破談を笑っていたというのに、まるでそれを忘れてしまったかのような態度だった。
「おまえ、貴族たちの間で何て噂されてるか知ってるか? 難攻不落の秀峰、アンナ・ゴッドウィンオースティンなんて呼ばれてるんだぞ?」
モーリスの言う通り、アンナは貴族たちの間で密かに『攻略対象』として有名になっていた。実際に婚約者候補として名乗りを上げるものは数知れず、アンナを言い負かすことが出来る人間、彼女が認める人間が現れるのかを楽しみながら見守っているものも多い。今のところ、結果は散々なのだが。
「…………光栄ですわ。難攻不落、結構なことではございませんか」
アンナはそう言って尊大に笑う。本人がこの調子なのだ。もう、気が済むまで放っておくしかない。
「分かった。もう兄さんは何も言わない」
モーリスは深々とため息を吐きつつ項垂れた。
そんなことがあった数日後のこと。アンナの元に王宮から遣いが来た。
呼び出しの主は、この国の王太子エヴァレット。アンナの二つ年上の二十歳で、まだ独身。婚約者も存在しない。
「いやいや、アンナには無理だろう」
そう口にしたのはアンナの両親だった。
公爵家という恵まれた家柄、これまでだって王族との婚姻話が出なかったわけではない。けれど、アンナの高すぎるプライドは、王族に対しても発揮されるに違いないと、両親が巧妙にはぐらかしてきたのである。
「まぁ、何故ですの? わたくし、立派にお話相手を務めて参りますのに」
アンナはそう言って、心底不思議そうに首を傾げた。
今回の名目は『お茶会』へのお誘いだ。王宮の用意したお茶を飲みながら、王子の話し相手を務めればそれで良い。
けれど、その裏にある意図は明白だった。
エヴァレット殿下が本気で花嫁を探している。それは、貴族ならば誰もが知る事実だからだ。
「アンナ、よ~~く考えなさい。相手は王族なのよ? いつものように、『あなた』が最上、ではダメなのよ?」
「そんなの当然ですわ。不敬扱いされるような真似、わたくしがするわけ無いじゃありませんか」
(((いや、アンナならやりかねない)))
両親とモーリスは、互いに顔を見合わせつつ、心の中でそう呟いた。
娘の粗相は即ち、自分たちの首に直結しうる。けれど、今回の招待はエヴァレット自身の手によるものだ。行かせないという選択肢も、正直言ってない。
ゴッドウィンオースティン家の面々は、何十回も何百回も声が出なくなる程時間をかけて、アンナに注意事項を説き続けたのだった。
***
それから数日後、アンナは一人、王宮のテラスを訪れていた。
「楽にしてくださいね。紅茶はお好きですか?」
「……ええ。ありがとうございます」
エヴァレットは噂に違わない、ほんわかした雰囲気の美男子だった。人懐っこく親しみやすい笑顔に、優雅で穏やかな声。アンナは思わずドギマギしてしまう。
これまでの婚約者候補たちは皆、ギラギラと瞳を光らせた自信家ばかりで。エヴァレットのようなタイプの人間と接する機会は、アンナには無かった。
「噂通り、アンナ様はとてもお美しいですね」
(当然ですわ)
アンナは思わずそう答えそうになって、必死に口を噤んだ。両親や兄たちの教えが辛うじて生きている。小さく咳ばらいをしつつ、アンナは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます」
本当はお返しにエヴァレットを讃えるべきなのだろうが、アンナには他人を褒めるという概念がない。上手く言葉が出てこなくて、アンナは小さく眉間に皺を寄せた。
「おまけに、アンナ様はとても博識でいらっしゃるそうですね。僕はあまり勉強が得意ではなくて――――」
エヴァレットはそれから、色んな話題をアンナに振ってくれた。どんなに反応が乏しくても、アンナの好きそうな方向に話を持って行っては、言葉を引き出す努力をしてくれる。
おまけにエヴァレットは、アンナに対して終始、低姿勢を崩さなかった。
正式な王位継承権を持つ王族であるというのに、まるでアンナの方が上であるかのように振る舞い、常にニコニコと笑顔を忘れない。これにはアンナも、本気で驚いた。
「今日はアンナ様とお話ができて、とても楽しかったです」
帰り際、エヴァレットはそう言ってアンナの手を握った。その途端、アンナは頬を真っ赤に染める。これまで、どの婚約者候補たちにも身体を触らせたこと等無かった。このため、こういったことには耐性が全く無い。心臓がバクバクと鳴り響き、顔は真顔で硬直していた。
「また、僕と会っていただけませんか?」
「……はい、喜んで」
気づけば、アンナの口は勝手にそう動いていた。これまでの彼女にはとても考えられない受け答えだ。
帰りの馬車に揺られている間もずっと、アンナは夢見心地だった。
***
両親やモーリスは、アンナが何のお咎めもなく帰還したことを酷く喜んだ。
「良かった! 本当に生きた心地がしなかった」
そう口にしたのはモーリスだ。深々とため息を吐きながら、涙を流さんばかりに喜んでいる。
「だから言いましたでしょ? 何がそんなに心配だったのか、不思議ですわ」
「アンナ、おまえは自分のことをちっとも分かっちゃいない。普通じゃないんだよ、おまえは」
不安が解消されたためか、モーリスの口調は少しばかりキツイ。アンナはムッと唇を尖らせた。
「普通とはどういう方を言いますの? わたくしは自分に正直に生きているだけですわ」
誰しも生まれ持った性質というのはある。アンナは単に『プライドの高さ』が突出していたというだけだ。仮に『臆病』だとか、『優しい』といった性質が突出していたとしても、誰からも文句を言われることはない。そう思うと、アンナには納得がいかなかった。
「それに、殿下は『楽しかった』って言ってくださいましたわ!」
「……へ?」
アンナの言葉に、その場にいた全員が目を丸くした。
「嘘……」
「嘘じゃありません。それに殿下は『また会いたい』と、そう言ってくださいましたのよ!」
アンナの表情は鬼気迫っていて、とても嘘を吐いているようには見えない。けれど、これまでの婚約候補者たちに対する前科が、ゴッドウィンオースティン家の面々を懐疑的にさせた。
「あの、アンナが」
「三十分と会話がもたず、男性に逃げられてばかりのアンナが」
「……それは、わたくしが悪いのではなく、相手が悪いのだと何度も何度も申し上げているではございませんか」
アンナはそう口にして、尊大に胸を張る。モーリスたちは開いた口が塞がらなかった。
「いや、流石は殿下と言うべきか」
「懐が違うのかもしれないわね」
「そうね。殿下はとても穏やかで、素敵な方でしたわ。これまでの男性とは違って、話題も豊富でしたし、本当に優しく接してくださいましたのよ」
またしても、ゴッドウィンオースティン家の面々に激震が走る。アンナが自分以外の人間を良く言う日が来るなんて、例え天地がひっくり返ってもあり得ないと思っていたのだ。モーリスは自分の耳を恐ろし気に引っ張りながら、「これ、本当に現実なのか?」等と呟いている。
「それで? おまえは何て答えたんだ?」
「それは……その…………」
その瞬間、アンナは口ごもり、頬を紅く染めた。追及から逃れるように視線を逸らし、唇をもごもごと動かすその様は、とてもじゃないが普段の高慢ちきなアンナとは結びつかない。
「ーーーーおまえも、女の子だったんだなぁ」
「お兄様、それは一体どういう意味ですの?」
(案外可愛いところもあるじゃないか)
心の中でそう呟きながら、モーリスは小さく笑った。
***
以降、エヴァレットとアンナは定期的に逢瀬を重ねるようになった。
最初は心配していたゴッドウィンオースティン家の面々も、回を重ねるごとに慣れていき、今では殆ど何も言わなくなった。時折、モーリスから探りが入るものの、自身に害がないと分かると、すぐに引き下がる、というのが常態化している。
エヴァレットは、知れば知るほど、誠実で謙虚な人柄だった。初めての逢瀬で『勉強は苦手』だと言っていたが、その実誰よりも博識だし、日々知識を磨くための努力をしていることが伺える。おまけに、それを誰にも悟られないようにしているところが意地らしく、アンナには好印象に映った。
(これまで、浅知恵の男性ばかり見てきたから)
そういう男性ほど、くだらない自分自慢が多いのが特徴で。容姿や能力値といったものに加え、忙しい自慢、財力や家柄、果てには自分以外の家族を自慢してくる人間も多くいる。
(己の力で得たもの以外を誇るだなんて、馬鹿らしい)
彼等が『自分にある』と主張したもの全てをエヴァレットは持っている。けれど彼は、それを誇示することはない。それこそが、真に誇り高き人間の取るべき行動なのかもしれないとアンナは思った。
(わたくしはどうだったかしら?)
散々馬鹿にしてきた、己の過去の婚約者候補達。けれどアンナは、そんな彼等よりも余程馬鹿だったのかもしれない。エヴァレットと一緒に過ごしながら、アンナは少しだけ、そんなことを考えるようになっていた。
「まぁ、そんなに貴重なものなんですの?」
「ええ。プルナ山脈でしか取れない希少価値の高いものだそうです」
ある日エヴァレットは、取り寄せたばかりの宝石の原石をアンナに見せてくれた。こぶし大の大きな原石で、赤と白の綺麗なグラデーションになっている。
「なんだか、宝石にしてしまうのが勿体ないほど、綺麗な石ですわね」
アンナはそう言って瞳を輝かせた。研磨し、形を変える必要が無いほど、その原石は美しく輝いて見える。
けれどエヴァレットは穏やかに目を細め、小さく首を横に振った。いつもアンナの考えを肯定してくれるエヴァレットにしては、珍しい反応だ。アンナはそっと首を傾げた。
「これは、君に贈るために用意した石だから」
エヴァレットはそう口にしたかと思うと、アンナの左手薬指をそっと撫でた。
「へっ?」
らしくない素っ頓狂な声が上がると同時に、アンナの指先はエヴァレットの口元へと運ばれていて。身体中に激震が走り、燃えるように熱くなるのが分かる。アンナにとって生まれて初めての感覚だった。
「完成したら、受け取ってくれる?」
そう口にしたエヴァレットの瞳は、碧く美しく澄んでいる。気づけばアンナはコクリと頷いていた。
***
「まさかこんな日が来るなんて、思ってもみなかったな」
白いウエディングドレスを身に纏ったアンナを眺めながら、ゴッドウィンオースティン家の面々は瞳を潤ませる。
下手をすれば、一生嫁の引き取り手が現れないと思っていた娘の大躍進。人の好みは分からない、とぼやくモーリスを、アンナは眉間に皺を寄せつつ睨んだ。
「いや、実際おまえの器量や知識なんかは王妃の器になりうると思っていたよ」
父親のなんとも含みのある物言いに、アンナは目を細めて笑う。
「分かっていますわ。性格に難が無ければ、と仰りたいのでしょう?」
「……本当に、アンナは随分丸くなったね。昔のおまえだったら、今頃目くじら立てて怒っていただろうに。これも殿下のお蔭なのかな」
そう言ってアンナの両親は、何とも感慨深げに顔を見合わせた。アンナは小さな声で「そうですわね」と呟くと、もう一度穏やかに笑った。
(いよいよ、か)
両親が席を外した隙を見て、アンナは人払いをした。結婚前に一人、心の整理をする時間が欲しい。そう思ってのことだったのだが、ここで思わぬことが起こった。
「久しぶりですね、アンナ嬢」
ノックもなしに控室の扉が開く。見れば、見覚えのない男性が下碑た笑みを浮かべ、アンナの方を睨んでいた。近衛の装束。どうやらエヴァレットの側近の一人らしい。
「不躾な――――わたくしを一体誰だと……」
「知ってますよ? 難攻不落の秀峰、アンナ様でしょう? ――――いい気なもんだな。散々馬鹿にした俺のことをすっかり忘れ、自分はちゃっかり王太子妃。こんな愚かな女が妃になるんだ。この国に未来はねぇよ」
そう言って男は、アンナの方ににじり寄った。控室の側に居るはずの護衛がいない。この男にやられたか、買収されたのだろう。アンナの額に汗が滲んだ。
「結婚祝いに良いことを教えてやろう。エヴァレット殿下はな、あんな人畜無害そうな顔をして、本当はあんた以上に気位の高い御方なんだ。おまえに声を掛けたのも、『自分ならばおまえを攻略できる』という殿下の自尊心の表れ。当然愛情なんてありゃしないし、本当は心の中でおまえのことを馬鹿にしているよ」
男はアンナのことを見下ろしながら、そんなことを言う。アンナの心臓はバクバクと鳴り響き、息が上手くできなくなった。
こんな形で自分を貶められるのは、生まれて初めての経験だった。まるで自分の存在を否定されたかのような屈辱。それが事実であっても嘘であっても、アンナにとっては十分な仕打ちだ。
「殿下は殊の外俺を重用し、信頼しているからな。――――残念ながら全て事実だよ。そもそも、殿下におまえのことを教えたのは俺だ。まぁ、まさか結婚に至るとは思っていなかったが、見てくれだけは良いからな。お飾りの妻として、適当に飼い殺すおつもりだろうよ」
言葉の刃が鋭くアンナに突き刺さる。
(自業自得だわ)
きっと、アンナが受けた屈辱と同じかそれ以上のものを、この男性は味わったのだろう。その報いを今、受けているだけなのだと、アンナは自分に言い聞かせる。
けれど、すぐさま高すぎる自尊心が邪魔をした。
自分が愛されないことも、無価値とみなされることも、アンナは考えたことが無かった。
アンナはいつだって、自分という人間の価値を信じていた。正しいと思い込んでいた。だから、気持ちを切り替えようにも、どうしたら良いのか分からない。
「じゃぁな。……精々藻掻き苦しめ、バカ女」
最後に捨て台詞を残し、男は控室から去っていった。一人残ったアンナは呆然と立ち尽くすことしかできない。式はもう、目前に迫っていた。
***
「アンナ、一体どうしたんだ?」
挙式開始間近だというのに、アンナの顔面は蒼白だった。アンナの父親は娘をエスコートしつつ、普段とのあまりの差異に驚きを禁じ得ない。
いつだって誇り高く、他人に隙を見せないアンナが、誰の目にも明らかな程に狼狽え、怯えているさまは、異様と言うしかない。
(本当は、今すぐここから逃げ出してしまいたい)
あの男に会ってからというもの、アンナは他人の目が怖くて堪らない。皆が皆、アンナのことを蔑み、嫌っているかのように思えてくる。
(あるいはそれが、あの男の狙いだったのかもしれない)
もしもアンナがこの場から逃げ出せば、タダでは済まない。王族に恥を搔かせた罪は重く、良くて国外追放、悪ければ命はない。
アンナの自尊心を傷つけるだけでは飽き足らず、社会的に貶める。それほどまでにあの男は、アンナのことを憎んでいたのだ。
(だけどわたくし、あの男の思い通りになるなんて、絶対に嫌!)
絶望の中、アンナは自分を奮い立たせる。その瞬間、式場のドアが勢いよく開け放たれた。
列席者たちの視線が一斉にアンナに降り注ぐ。アンナは大きく息を吸い、それから力強く笑った。
この場にいる誰よりも凛と美しくあろう。誰よりも自信に満ち溢れていよう。誰よりも幸せそうに笑っていよう――――それこそが、アンナのプライドだった。
(決して奪わせはしない)
例え愛されることは無くても、お飾りの妻だとしても、自分を見失ってはならない。それが、アンナが導き出した答えだった。
バージンロードの先で、エヴァレットがアンナを見つめている。瞬き一つすることない、優雅で誇り高い花嫁に、観衆は感嘆のため息を吐いた。
「アンナ」
エヴァレットは微笑み、アンナを迎え入れる。会場が静かな熱気に包まれた。
式はその後も恙無く進んでいく。きっとあの男はこの会場のどこかにいて、アンナを見ながら歯噛みしているのだろう。そう思うと、アンナの背筋はピンと伸びた。
「では、指輪の交換を」
神父の言葉に、アンナとエヴァレットは静かに向かい合う。ゆっくりと、優雅な所作で手を差し出すと、エヴァレットはアンナにだけ分かるぐらいの小さな声で笑った。
「ようやく、この日を迎えることが出来た」
エヴァレットの言葉に、アンナの胸が小さく軋む。
エヴァレットから結婚を切り出されたとき、アンナは彼の愛を疑いもしなかった。当然、王太子という立場上、結婚相手のことで一番に重要視するのは家柄や教養、妃としての器だ。
けれどそれでも、アンナは自分が愛されていると思っていた。それが勘違いだったのだと思うと、涙が溢れそうになる。
「これを君に」
そう言ってエヴァレットは、アンナの薬指に指輪を嵌める。
「……え?」
見ればアンナの指輪は、彼に求婚されたあの日に見た、磨かれる前の宝石の原石で形作られていた。
「どう、して?」
あの時エヴァレットは、宝石として完成したものをアンナに贈ると言っていた。彼がその約束を忘れるはずがない。
「君が愛おしいと思ったから」
そう言ってエヴァレットは、アンナの指先に優しく口づける。
あの日の痺れるような感覚が蘇り、アンナの瞳に涙が溢れる。エヴァレットは穏やかに微笑みながら、そっとアンナの涙を拭った。
「プライドが高くて扱いづらいところも、僕にだけ見せてくれる可愛い笑顔も、全部この原石みたいで、僕は愛しい。それに、こう見えて僕はプライドが物凄く高いからね。君という原石を磨くのは僕でありたい。そう、思ったんだ」
気丈に振る舞うアンナをエヴァレットが優しく抱き締める。
エヴァレットも最初はきっと、先程の男が言う通り、自分ならばアンナの鼻を明かせると――――攻略してやろうと、そう思っていたのだろう。
けれど、目の前の彼の瞳は、言葉は真っ直ぐで、疑いようがない。それに、アンナ自身がエヴァレットのことを信じたいと強く願っていた。
(わたくしはこれからきっと、いくらでも変わることが出来る)
どんなに悔いても、過去を変えることはできない。けれど、未来ならばいくらでも変えていける。
アンナが希望を見出し、進んでいくことを快く思わないものもいるだろう。けれど、アンナは大人しく引き摺り落とされてやる気はない。自分らしく、けれど形を変えて、より良い自分を目指していこうと胸に誓う。
「好きだよ、アンナ」
エヴァレットの口付けを受け入れながら、アンナは満面の笑みを浮かべるのだった。
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