俺の嫁はエルフ受けが悪い【39】
重たい足を引きずって、前に進む。
来るまではなんてことのなかった道のりが、果てしなく思えるぐらい、今の俺は疲弊しきっていた。
別に大したことはしていない。
ただ化物と相対して、軽く話して、俺が殴り掛かって、それでおしまいだ。
俺は何1つ、攻撃らしい攻撃は受けていないし、ダメージを負うような仕打ちもされていない。
ただそこにいただけ、話しかけられただけ、それだけのことだったが、酷く体力を持っていかれてしまった。
できることなら、この場で倒れ込んでしまいたい。
まだまだ森の入口はずっと先だ。
かすかに残っている甘ったるい香りが、辛うじて保たれている俺の意識を眠りに誘おうと漂ってくる。
この場で気絶したところで、この匂いが残っているうちは野生動物も寄ってこないだろう。
いや、逆にこれぐらいの薄さなら寄ってきちまうか?
……どっちでもいいか。
余計なことに思考を裂いて、倒れようとする自分の状況をかすかに忘れることで無理やりに前に進む時間を稼ぐ。
ちょっとでも現実に目を向けたらそこで心が折れちまいそうだ。
心が折れたら膝が折れて、そのまま地面に頽れて、いよいよ起きあがることはできないだろう。
この場でそうなるのは困る。
ここまで誰にも知らせてこなったことは、さっきも思ったがたぶん正解だ。
あんな化物女と知り合いを鉢合わせるわけにはいかない。
俺が会っただけでここまで疲弊するんだ、他の、特に真っ当な精神をしてるやつには会わせられない。
ハンナには特に――いや、ハンナの天然具合なら、逆に大丈夫だったりするか?
だとしても、できることなら会わせたくはない。
平気かどうかより、もっと根本的な、会わせたくない気持ちが湧いてくる。
それだけ、彼女は不気味で、恐ろしかった。
この先、また出会うことがないとは限らないが、できることならもう2度と会いたくない。
しかし、名前も顔も覚えられてしまった。
なんとかなかったことに、はできないよなぁ……次に会った時、俺はどうしたらいいのだろうか。
逆に話に付き合ってやるか? いやぁ、今度こそ正気を失う気がする。
どれぐらい進めただろうか?
何となくでもいいから距離を把握するため、軽く周囲を見回してみる。
頭が重い。
幸いなことに視界はクリアだ、まだ森の中にはいるみたいだが、それでも背後の広場からけっこう進めたらしい。
普段通りの感覚で歩いていけば、もう5分もすれば森から出られるだろう。
今の歩みだと、どうだろう、10分か、それ以上か。
心が病むと、動きたい気持ちすら薄れてしまうらしい。
足が前に進むことを拒絶している。
体を動かすことを脳味噌が否定している。
まるで全身が重たい液体に置き換わったような、倦怠感と動かしずらさ。
粘性の高い、スライムのような体を引きずって進んでいるような、体が溶け続けているかのような違和感が、ずっと全身を襲っている。
おかげでまともな歩き方もできやしない。
足を上げ下げするのなんて不可能で、少し進む度に休憩を挟まなければそのまま気を失ってしまいそうだ。
冷静な判断はもはやできそうにないが、それでも何とか前には進む。
この森を出る、そしてそのまま進めるだけ進む……あわよくば、ハンナたちが待っているであろう森にまでたどり着く。
最後のは望み薄だとしても、ナエのことを頼んだハンナが戻ってこない俺を心配して見に来てくれているかもしれない。
だとすれば、足を止めるわけにはいかない。
どれだけ時間がかかっても、前に進むことだけはやめちゃいけない。
このまま倒れて気を失ったら、戻ってこれない気がする。
もし起き上がれたとしても、こんな何もない森の中で目が覚めて、再び立ち上がれる確証もない。
動けるうちに動くべきだ。
どうせこの体は死なない。
何があっても朽ちない体なのだから、そいつを動かす魂が燃え尽きてしまう方が問題だ。
今倒れればきっと、俺の魂は力尽きる。
そうならないように、進むのだ。
俺の心を癒してくれるのは、魂を燃やしてくれるのは、ただ1つ。
「ハンナ……」
愛しい人の名を呼ぶと、少しだけ気力が湧いてくる。
さっきもだが、ああ、ハンナ、君の存在は俺の心を奮い立たせてくれる。
会いたい。ハンナに、会いたくてしょうがない。
愛する嫁の顔を思い浮かべるだけで、こんなにも頑張れるのだから、愛の力というのは偉大なものだ。
これは必死な逃走だとか、ここから抜け出すためのあがきだとか、そういうものではない。
愛する人に会いに行こうとしている。
そうだ、俺はそのために進んでいるのだ。
大切な人との再会に向けて、困難な状況にも打ち勝とうと頑張っているのだ。
そう考えると、どんどん前に進む意欲が湧き出てきた。
いける、この調子でいけば、乗り越えられる!
俺は会いに行く、ハンナに、愛しい家族に、最愛の妻に、恋しい伴侶に会いに行く!
負けてたまるか、こんなもんに、あんな恐怖に、絶望的な恐ろしさに、屈してなるものか。
「おおおおおおっ!」
咆哮をあげ、自らの足を力なく叩き、必死に前に進み続ける。
少しずつ、森が薄くなっていくのが分かる。
木々がまばらになり、視界の先に開けた大地が見えてきた。
もう少しでこの森ともおさらばだ。
そうなれば、平地を歩いて行くうちに元来た森までたどり着く。
進め、進め、とにかく進め。
俺の気力が尽きる前に、とにかく前へ。
視界が霞み始めたが関係ない、進むしかない。
負けるか、負けてたまるか、そんな思いでとにかく、前へ。
だが、
「あっ」
一瞬の出来事。
足元に転がっていた枝を誤って踏みつけてしまった。
世界が傾き、地面が近づく。
倒れると同時に痛みがやって来るかと思えば、それすら感じないほどに俺の精神はすり減っていたらしい。
横になったまま、浅く呼吸を繰り返す。
視界の端がゆっくりと黒に包まれていく。
どこからか、重たい足音が聞こえてきた。
なんだろうか、獣が森に戻ってでも来たのか?
薄れゆく意識の中、俺の目が捉えたのは、森の入口にあったモリクイの巣だった穴。
ああ、くそ、もう少しで森から出られるところだったのにな。
悔しがったところで、もう指先1つ動かせやしない。
泥のように沈みゆく思考が、最後に想っていたのもまた、ハンナのことだった。
◆◆◆
「ん……」
俺は温かく柔らかなものに包まれていることに気付いた。
顔に触れているこの感じは、布、と、それ越しの体温、と……?
「んん?」
目を開けようとするが、しっかりと抱きすくめられてるおかげで瞼を動かせない。
そして、明らかに今の俺よりずっと強い力で閉じ込められている。
だがこのホッとする匂い、肌の感触、力加減と豊かな柔らかさ。
間違いなく、俺は今、ベッドの中でハンナの胸に抱かれた状態でいる。
天国か?
俺はいよいよ死ぬことが許されたのか?
そんな気持ちになってくるが、ハンナがいるのだから当然それはない。
何があったのかは分からないが、どうやら俺は帰ってくることができたらしい。
ホッとした直後、背中の方にも柔らかな感触があるのに気付いた。
こちらも俺の体に腕を回しているが、ずいぶんと小さい。
ひんやりとした肌で、ずいぶん細身だ。
可能性があるとすれば、これは、サラ、だろうか?
はたまた、ナエか?
どっちだとしても、俺は包み込まれる形で前後を抱き締められたまま寝ていたらしい。
なんちゅう状況だ。
ずっと瞼を閉じているから今が昼かも夜かも分からないし、ここが本当にベッドの上なのかも分からない。
だが、先ほどまで味わっていた恐怖の分、今はこの幸せな温みを、心ゆくまで味わっていたかった。
「あれ、ユウキさん……?」
しかし、幸せな時間というものは長く続かないものである。
俺がそのままもう1度眠りにつこうとすると同時、ハンナもまた、目を覚ましてしまったようだった。
そのままもう少し寝ていてくれて良かったのに、と言うのも妙なので、少しだけ離れ、顔を覗き込んでくるハンナに軽く笑みを浮かべて返す。
「ああ、おはよう」
「おはようございます。と言っても、まだ夜中ですけどね」
ハンナの言う通り、辺りは真っ暗だった。
「あー、そうだな、何から聞いたものか……」
「今は朝まで寝ちゃってもいいかと思いますけど、気になりますよね、やっぱり」
優しく笑いかけてくるハンナに、俺は甘えたくなる。
気絶する寸前まで願っていたことだ。
だがしかし、この背中から感じる規則的な寝息を乱してまで、することか。
これがマサギだったら彼を追い出して甘えに甘えただろうが、この子は大切な友人に託された少女だ。
さすがに、大人の男が嫁に甘え尽くしている姿を見せるのはどうかと思う。
とはいえ、ここから起き出して、というのもサラを起こしてしまう可能性が高い。
「とりあえず、そうだな」
俺は特に起き上がったりせず、月明かりの入り込む室内で一段と美しく見えるハンナの顔を見る。
いつもは見下ろすばかりのハンナの顔が、見上げる位置にあるのは少し新鮮だ。
「俺がどうやって帰って来たのか、教えてもらえるか?」
「ああ、それはですね、モリクイさんです」
「モリクイ?」
「はい。その、普段モリクイは森の中にまでは入って来ないのですが、どういうわけか広場までモリクイがやって来たんです。それも、ユウキさんを抱えて」
抱えると言いますか、運ぶと言いますか、と少し興奮気味にハンナは説明してくれた。
どうやら、モリクイが気絶した俺を舌でぐるぐる巻きにして、わざわざ広場まで連れて行ってくれたらしい。
ハンナたちの前で地面に俺を転がし、ナエを一瞥したモリクイは大人しく帰って行ったらしく、ハンナは明日改めてナエとモリクイの間を取り持ちに出向くとのこと。
「ユウキさんこそ、ずいぶん戻ってくるのが遅かったですけど、何かあったんですか?」
「あー、まあ、そうだな……俺の話は、ちょっと長くなりそうだから明日時間を見てにしよう。今日はなんか、どっと疲れちまったしな……」
「……分かりました、ゆっくり休んでくださいね」
ハンナは優しく微笑むと、先ほどまでと同じように俺をそっと抱きしめてくれた。
優しく頭を撫でてくれる感触に、強い安心を覚える。
彼女の温もりに包まれながら、俺はあっさりと二度目の眠りに落ちていくのだった。




