第3章 「残されたモノ」
本章のイメージBGMは、エドヴァルト・グリーグの「ピアノソナタ ホ短調 作品7」で御座います。
精密検査で異常が見られなかった千恵子さんは、堺市立東文化会館で開催されたピアノコンテストに予定通り出場し、見事優勝をおさめたのだ。
その後、音大付属の私立中学に進学した千恵子さんは音大卒業後にピアニストとしてプロデビュー。
オーケストラにも参加しているけど、ソロとしても活躍している。
結婚と出産で一時的に休業していたけど、つい先日に育児が一段落したので演奏活動に復帰したとの事だ。
狭山のSAYAKAホールで行われた千恵子さんのカムバックコンサートには、招待券を頂いた私も出席した。
清楚なピンク色のドレスに身を包み、グリーグのピアノソナタを優雅に演奏する姿は、同性の私が見ても美しかった。
しかし何より驚いたのは、演奏を終えた千恵子さんに花束を贈る、5歳程度の幼女の姿だった。
「演奏お疲れ様、お母さん!」
千恵子さんの長女だという幼いながらも正装した少女の顔は、子供の頃の千恵子さんに瓜二つだった。
それもピアノコンテストの練習に行き詰まっていた、小学4年生の頃の顔に。
親子だから、顔も似ているのだろう。
そう頭の中に浮かんだ疑問を打ち消しながら、私が演奏会場を後にした時、それは訪れた。
「久し振り、万里ちゃん!」
「えっ!?」
旧知の友であるかのように、私へ親しげに呼び掛けてきた声。
それは先程、舞台で花束を贈呈していた、千恵子さんの愛娘だった。
紅葉みたいに小さな左の手の平を、私に向けて差し出して。
「もう、興奈ったら…はじめましてでしょ!この人は、ママのお友達の吹田万里さんよ。」
「は~い、ママ…」
コンサートを無事終えた千恵子さんに窘められ、興奈ちゃんは素直に頷いた。
「来てくれてありがとう、万里ちゃん!」
「勿論じゃない!友達だもの。」
こう返事はしたものの、目の前にいるのは本当に私の友達なのだろうか。
「私が今こうしてピアニストになれたのも、コンテストの練習を励ましてくれた、お母さんと万里ちゃんあっての事だと思うんだ。」
パンフレットやポスターの写真で見慣れた、穏やかだけど儚げな微笑。
大人になった千恵子さんの顔立ちは、栄江さんに憑依されていた時の顔に、ますます似てきている。
それは私の気のせいなのだろうか。
「興奈、握手を左手でするのは良くないわよ。」
「だって、ママ…私、左利きなんだよ。」
そう言えば、千恵子さんはあれ以来、右利きになっていた。
もしかして、栄江さんは成仏しておらず、千恵子さんの身体を借りて今も現世にいるのだろうか。
そして千恵子さんの娘という興奈ちゃんこそが本当の千恵子さんで、千恵子さんは栄江さんに身体を譲り、娘として生まれ変わる事で妥協したのだろうか。
そんな疑問が、頭の中に湧き上がってきた。
しかし、千恵子さんと興奈ちゃんの仲睦まじげな親子のやり取りを見ていると、私は何も声がかけられなかった…
「こんな話、娘には聞かせられないわね…」
誰に言うともなく呟いた私は、何の気なしに取り出したコンサートの半券を、再び財布の中にしまい込んだ。