第2章 「蘇った想い」
本章のイメージBGMは、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンのピアノ独奏曲「ソナタ第9番 Hob.XVI:4 ニ長調」の第1楽章で御座います。
4年生の時にクラスメイトだった笛荷千恵子さんは、ピアノを習っていて、よく放課後に学校のピアノを借りて練習をしていたの。
あれは確か、10月半ばの事だった。
小学生向けのピアノコンテストを控えていた千恵子さんは、課題曲の練習に行き詰まっていて、随分悩んでいた。
だけど或る日を境に、めきめきと腕前が上達した。
それまでとは、まるで別人みたいに。
私としては、友達の上達は素直に喜べたんだけど、千恵子さんの周囲に変わった事が起き始めたのは、その日からだった。
それまで左利きだったのがいきなり右利きになるし、目つきもずっと大人びた物になるし。
決定的だったのは、放課後の課題曲の練習に付き合った時だったの。
演奏レベルは小学生とは思えない程の高水準だったけど、それ以上に私が驚いたのは、演奏中の千恵子さんの鬼気迫る姿だった。
元々色白だった美貌はより一層に青白くなり、この世の物とは思えない幻想的な美しさを帯びている。
癖のない髪は静電気が発生したかのように逆立ち、切れ長の瞳は燐光のように炯々と輝き始めたの。
「良いよ…良いよ、千恵子!この調子なら私達、コンテストどころか一足飛びにプロになれるかも!」
まるで自分の手足のように、ピアノの鍵盤を自在に操る千恵子さん。
ハイドンの「ソナタ第9番」の第1楽章を伴奏にしたその独白は、小学4年生にしては不相応な程に大人びていた。
しかし、それ以上に不自然だったのは…
「わ、私達?千恵子ちゃん!貴女、一体…」
このまま演奏を続けさせたら、きっと取り返しがつかなくなる。
そう判断した私は、千恵子さんをピアノから引き離すべく駆け寄ったの。
だけど…
「邪魔しないで!」
「あっ…!?」
もう後ほんの少しで千恵子さんの肩に手が掛かるタイミングで、私の身体は目に見えない何者かに弾き飛ばされてしまった。
「吹田万里さん、と言いましたね?千恵子を気にかけて下さる貴女に、こんな手荒な真似は不本意ですけど、今は大人しくして下さるかしら?もう少しで、私達の夢が成就する!私と千恵子の夢が!」
「ぐっ、うっ…!」
倒れ込んだ音楽室の床で、どうにか上体を起こした私が目にした物。
それは全身を青白い光に包まれながらピアノ独奏曲を滑らかに奏でる、千恵子さんの顔をした見知らぬ誰かの姿だった。
友達に致命的な異変が起きようとしているのに、何もしてあげられない。
「ち、千恵子ちゃん…」
私が非力な自分の不甲斐なさに歯噛みした、その時だった。
「栄江、お願い!千恵子を連れてかないで!」
音楽室のドアを張り開けて乱入してきたのは、千恵子さんのお母さんだった。
「来たのね、姉さん…」
二長調のソナタを弾く手を止めずに、千恵子さんの顔をした誰かは、懐かしそうな微笑を浮かべた。
「姉さん?!違う、千恵子ちゃん!その人は、千恵子ちゃんの…」
慌てて訂正させようとしたんだけど、私は最後まで言う事が出来なかった。
千恵子さんのお母さんと、千恵子さんの顔をした何者か。
お互いを見つめ合う視線に込められた、親しみと悲しみに気付いた以上、部外者の私は沈黙するしかなかったからだ。
「ピアニストとして独り立ち出来る矢先、交通事故で命を落とした無念の気持ちは分かるわ!栄江が成仏出来ないのも仕方ない。でも、千恵子に罪は無いじゃない…貴女の姪なのよ…」
千恵子さんのお母さんは声を震わせ、ボロボロと涙を流している。
普段の上品な立ち振る舞いからは想像もつかない、剥き出しの激情だった。
「お母さん、栄江叔母さんを責めないであげて。私が頼んだ事なんだから。」
千恵子さんの全身から放たれている青白い光が、少しだけ薄まった気がする。
そうして聞こえてきたのは、さっきまでの大人びた声色とはまるで違う、年相応の少女の声だった。
「千恵子ちゃん!千恵子ちゃんなの?」
私の問い掛けに、ピアノにかけた少女は小さく頷いた。
「お母さん、万里ちゃん。2人には心配かけちゃったね。私、課題曲の練習が上手くいかなくて焦っていたの。コンテストまで、もう日はないのに。そんな時、栄江さんが手助けしてくれたの。少しの間だけ身体を貸してくれたら、必ず上達出来るって。」
楽譜の後半部分に差し掛かった辺りで、青白い光が再び強まった。
それと同時に、俯いた千恵子ちゃんがピクピクと体を痙攣させる。
「私、嬉しかった…姉さんの産んだ娘が、私と同じようにピアノを愛してくれて。」
どうやら、身体の主導権が切り替わったらしい。
再び顔を上げた時、そこに千恵子さんの面影はなかった。
「そんな千恵子がピアノの事で悩んでるなら、手を差し伸べてあげたい。姉さんなら分かるよね、私の気持ち。」
大人びた面持ちの千恵子さん、もとい、千恵子さんの身体に憑依した笛荷栄江さんの魂は、そう言って寂しげに笑った。
「大丈夫。ピアノのコツを千恵子の身体に教え込んだら、それで私は満足だから。だからせめて、最後まで私達に演奏させて。」
今にも消えてしまいそうな儚げな微笑に、千恵子さんのお母さんも私も、何も言えなかった。
2人だけの聴客に向けて奏でられる、ハイドンの「ソナタ第9番」第1楽章。
プロレベルの美しい旋律は、最終小節まで滞りなく演奏された。
「ありがとう…姉さん、万里さん。千恵子、貴女なら必ずコンテストを成し遂げられる。私が保証するから…」
そう言い終えると、千恵子さんの身体は鍵盤に突っ伏してしまった。