第66話.耐えてみせろ
夜の山道を、1人の男が必死に走っていた。
だが男の足は遅かった。だから俺は難なく男に追いついた。
「……どこへ逃げるつもりだ?」
俺が声をかけると、男は足を止めて……ゆっくり俺を振り向く。
月明かりの下で、俺は男の顔を眺めた。男は……若かった。それにどう見ても『善良な市民』にしか見えない顔だ。だがこいつは……決して『善良な市民』ではない。
「……私のことをご存知ですか?」
男の質問に、俺は笑った。
「ああ、よく知っているさ。お前は……俺の獲物だ」
そう、この男こそが……この『善良な市民』にしか見えない男こそが、薬物『天使の涙』を利用して数多くの人々を苦しめてきた張本人……『黒幕』だ。
「初めまして。私はアンセルと申します」
『黒幕』が笑顔で自己紹介をした。
「俺はレッドだ」
「存じています。貴方の存在は私にとって一番の脅威でしたから」
『黒幕』……つまりアンセルは落ち着いた態度だった。
「でもまさか『フクロウ』が負けたなんて……正直想定外ですね」
アンセルが苦笑する。
「ご存知ですか? 貴方を暗殺する報酬として、フクロウは一国の王を暗殺する時と同等な金額を要求してきましたよ」
「そうか」
「流石に私もあれだけのお金を支払ったら計画が破綻するので、ついさっきやっと心を決めて依頼したのに……まさか失敗するとは」
アンセルは俺の顔を凝視した。
「やっぱりレッドさんは強者です。だから……レッドさんなら私のことを理解できるはずです」
俺は何の反応も見せなかった。
「この世の多くの人間は、無知で無力な弱者に過ぎません。だからこそ力を持った強者がこの世界を変えるべきなんです」
アンセルの声は確信に満ちていた。
「もちろん多少の犠牲は生じますが、それは強者の力に耐えられなかった弱者の宿命です。無知で無力な弱者たちはそんな宿命を受け入れるしかない。貴方のような強者なら……私の言うことが理解できるはずです!」
「へっ」
俺がつい笑ってしまうと、アンセルは眉をひそめる。
「……何が可笑しいんですか?」
「お前は自分の敗因すら知らないんだな」
「私の……敗因?」
「ああ、お前は『一番大事な教訓』を分かっていない」
俺は懐から血まみれになった文書を取り出して、アンセルに見せた。
「これが見えるか?」
「それは……」
「これはな、お前の実験の犠牲になった人間が……最期の瞬間、誰よりも強い意志を発揮して俺に残してくれたものだ。俺はこれのおかげでここまでこられた」
アンセルの顔が強張る。
「俺を信じて、命までかけてくれた人々がいるからこそ……俺はここにいる。つまりお前の敗因は……人々の力を舐め過ぎたことだ」
しばらく沈黙が流れた。
「……分かりました」
アンセルが微かな笑顔を見せる。
「敗北を認めます。私を逮捕してください。甘んじて罰を受けましょう」
「……俺も舐めるつもりか?」
俺も微かな笑顔を見せた。
「偉い貴族の中でも、お前の薬物に操られている連中がいるんだろう? だから今まで捕まらなかったし、たとえ捕まっても……お前が処刑されることは絶対ない。違うか?」
アンセルの顔から笑みが消える。
「……じゃ、私を殺すつもりですか?」
「それはお前次第だ」
俺は拳を握りしめた。
「たった一発だ。俺はこれからお前の体にたった一発だけ拳を入れる。もしお前がそれに耐えたら……逮捕してやってもいい」
「ちょ、ちょっと待ってくだ……」
俺は大きく踏み込んで、アンセルの腹に一撃を入れた。
「うぐっ……!」
アンセルは血を吐きながら膝をつき、無様に倒れた。やつの内臓はもちろん、背骨まで粉々になってしまった。
「がはっ……!」
何度も血を吐いたアンセルは……やがて動かなくなった。俺はやつの死を確認して、その場を去った。
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砦に戻ると、もう戦いは終わっていた。
「レッド!」
ドロシーが俺の姿を見つけて駆けつけてきた。
「『黒幕』は? やつはどうなった?」
「やつは死んだ」
俺の答えを聞いて、ドロシーは視線を落とした。
「……ありがとう」
「感謝される筋合いはない」
俺は俺を待っている組織員たちに向かって足を運んだ。




