第59話.まだ終わってはいない
俺は1人で屋敷に入った。
屋敷は広くて華麗だった。中央には女神の彫刻があり、壁には美しい絵画が飾られていた。芸術についてはほぼ何も知らない俺でさえ楽しめるほどだ。
屋敷の奥には、大きいテーブルが置かれている広い部屋があった。この屋敷の食堂だ。食堂に入ると1人の男が豪華な食事を楽しんでいるのが見えた。この屋敷の主……ゼロムだ。
「あ、レッドさん」
ゼロムが俺に向かって笑顔を見せる。
「一緒にしませんか?」
「いいだろう」
俺はゼロムの向かいに座って、スープや丸焼きを食べ始めた。
「美味しいな」
「この屋敷のシェフは優秀ですからね」
ゼロムが自慢げに言った。
「でも残念です。この美味しい食事をもう楽しめなくなるなんて」
「そうだな」
「……この屋敷、完全に包囲されているんですね?」
「ああ」
俺はナイフで肉を切りながら頷いた。
「ロベルトとビットリオとクレイ船長の組織……それに警備隊まで来ている。もうこの屋敷からは誰も逃げられない」
「私1人を捕らえるために、そこまでするなんて……まるで大物になって気分ですね」
ゼロムが笑った。
「私はただの小悪党です。そんな大物ではありません」
「そうか」
「はい、ルアンさんから話は聞いたでしょう?」
「ああ、大体のことは聞いた」
俺はゼロムの顔を見つめた。
「つまりお前は……『黒幕』じゃないんだな?」
「はい。本当にただの小悪党です」
ゼロムは恥ずかしそうに笑った。
俺はナイフとフォークをテーブルに置いて、水を飲んだ。
「お前が『天使の涙』の件に関わるようになった経緯を、詳しく説明してもらおうか」
「分かりました」
ゼロムも水を一口飲んで、話を始める。
「3ヶ月くらい前のことでした。今は亡き警備隊隊長のラズロさんが、私とルアンさんに事業を提案してきました」
「薬物流通事業か」
「はい」
ゼロムの顔が少し暗くなる。
「ラズロさんが強欲な人だというのは、以前から知っていましたが……まさか薬物でお金を稼ごうとするなんて思ってもみませんでした」
「ラズロは何故お前とルアンを選んだんだ?」
「それは簡単な消去法です」
ゼロムが微かに笑った。
「『総会』のメンバーの中で……ロベルトさんはこの都市に対する愛情が深く、薬物流通なんかに手を出すはずがない。ビットリオさんは息子の件で誰よりも薬物を嫌悪している。クレイ船長は昔からラズロのことを嫌っていたので、協力するはずがない。つまり私とルアンさんしかいなかったわけです」
「なるほど」
「最初は私もルアンさんも戸惑いました。もちろんお金は欲しいですが……薬物禁止の掟もあるし、リスクが高すぎると思いました。しかし……」
ゼロムはまた水を一口飲む。
「ラズロさんは協力の謝礼金として、とんでもない大金を提示しました。それはどう考えても警備隊隊長が用意できるお金ではありませんでした。私とルアンさんが驚くと……ラズロさんは自分の裏に力を持っている人がいるから、協力を断らない方がいいと脅迫してきました」
「その力を持っている人が『黒幕』か」
「そう見るのが妥当でしょう」
ゼロムが頷いた。
「大金と脅迫、つまり飴と鞭によって私とルアンさんはラズロさんに協力するようになりました」
「具体的にどんな協力をしたんだ?」
「薬物の密入と保管、流通網の確保などでした」
「ずいぶんと本格的だな」
「薬物禁止の掟を破ったことがバレたら危険ですから、なるべく慎重に動いたわけです」
ゼロムは眉をひそめた。
「しかし……ある日のことでした。ラズロさんが『新しい薬物の開発実験を見せてやる』と言ってきて、私は顔を隠したまま彼の『実験室』を訪ねました」
やっぱりデリックが目撃した『2人』は、ラズロとゼロムだったんだな。
「でも私がそこで見たのは『お金を稼ぐための開発』ではありませんでした。それは……どう見ても『軍事用の薬物の開発』でした」
ゼロムの声は少し震えていた。
「私は怖くなりましたが……もう後戻りできないし、協力を続けました」
「ラズロが首のない遺体となって発見された日まで、か」
「はい」
ゼロムが視線を落とす。
「ルアンさんと私は慌てて、この件に関する全てを隠蔽しようとしました。だから『総会』で調査など要らないと主張したんですが……あなたが現れて全てが変わりました」
ゼロムは顔を上げて、俺を見つめた。
「ルアンさんと私はあなたの存在に恐れを感じました。いつかはあなたの手によって、私たちは破滅するかもしれないと思ったんです」
「そうか」
「私はなるべく静かにしようとしましたが……ルアンさんが突発的に密告をやってしまいました。あの人は状況が悪くなると判断力を失いますから」
「なるほど」
俺とゼロムは一緒に苦笑した。
「ルアンは全ての罪をお前に着せようとしているぞ」
「ルアンさんらしいです。でも私はあくまでも小悪党……ラズロさんの手下として動いただけです」
「そうみたいだな」
ゼロムは手を伸ばして、テーブルの上のベルを鳴らした。するとメイドたちが入ってきてテーブルを片付けた。
メイドたちが食堂を去ってから、俺は口を開いた。
「『黒幕』について、何か知っていることはないのか?」
「具体的なことは何も知りません。だからこそ私は今生きていられるわけです」
「なるほど」
「しかし……情報を知っているわけではありませんが、私なりに推理をしたことはあります」
推理?
「実は港で『天使の涙』を密入していた時……たまに変な連中を目撃しました」
「変な連中?」
「はい。ラズロさんと一緒でしたけど、彼の手下たちではありませんでした。しかも覆面で顔を隠していて、どこか不気味な連中でした」
覆面の連中か……。
「私はそいつらが『黒幕』の手下たちだと推理しました」
「可能性は高いな」
「しかしおかしい点があります」
ゼロムの顔が強張る。
「その連中は、いつもどこからか実験道具などを運んできました。多数の人間が、大きい荷物を運んで頻繁にこの都市を出入りしているのなら……何か痕跡が残るはずです。でも何もありませんでした」
ゼロムは唇を軽く噛んだ。
「不思議に思った私は、馬車の出入り、船舶の入港記録、団体旅行客の宿泊記録などを調べてみましたが……本当に何もありませんでした」
「それは確かにおかしいな」
多数の人間が大きい荷物を運んで何度も出入りしていたのに、何の痕跡もない……?
「幽霊でもない限り、それはあり得ない……と思った私は、結局ある結論に至りました」
「その結論は何だ?」
俺の質問に、ゼロムは少し間を置いてから答える。
「……不思議な話ですが、この都市のどこかに外部への隠し通路があるのかもしれません」
「隠し通路って……」
「そうじゃないと説明がつかないんです」
俺はその結論について少し考えてから、席を立った。
「いろいろ情報ありがとう」
「どういたしまして」
「お前は……これからどうする気だ?」
ゼロムが笑顔になる。
「お金をばら撒ければ、処刑されたりはしないでしょう。でも数年以上監獄で過ごすことになると思います」
「そうか」
「監獄を出ても、私はもうこの都市では生きていけません。別のところで別の仕事を探さないと駄目です」
「そうだな」
俺は頷いた。
「じゃ、縁があったら……また会おう」
「はい」
いつの間にか、ゼロムは疲れた顔になっていた。俺はそんなゼロムを後にして屋敷を出た。
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ラズロが死に、ルアンとゼロムが逮捕され……この都市で薬物『天使の涙』に関わっていた連中は撃滅された。
だが……全てが終わったわけではない。ラズロとルアン、そしてゼロムを操っていた『黒幕』は、今も自由に動いているのだ。
俺は人々を率いて都市の調査を続けた。『黒幕』に辿り着くための手掛かりを探すためだ。ドロシーも兵士たちを率いて俺を手伝ってくれた。
そして数日後のことだった。いつも通り調査を指揮していた俺の前に、意外な人物が現れた。
「爺……?」
「久しぶりだな、レッド」
それは鼠の爺だった。情報を求めて旅に出ていた爺が戻ってきたのだ。しかし俺は再会の喜びじゃなく、激しい衝撃に包まれた。
「お、おい……爺、その傷は何だ?」
久しぶりに会った鼠の爺は……体に血のついた包帯を巻いていた。




