第559話.千年の歴史を超えて
「そこからは、私が話そう」
そう言ってきたのは……俺の師匠、鼠の爺だった。
「私はな……」
爺が席から立ち上がって、ゆっくりと部屋の中を歩き出す。
「私は、マリア婆の話には同意しない」
爺がマリアの方を見つめる。
「人間という生き物はな、決して『平和だけを求める存在』ではないんだよ」
冷たく言ってから、爺が俺の方を振り向く。
「覚えているか、レッド? 私が平和について話したことを」
「ああ、覚えているさ」
俺は腕を組んで答えた。
「『平和なんて、次の戦争のための準備期間に過ぎない』……だろう?」
「ふふふ、いい弟子だ。お前は」
爺は愉快そうに笑った。
「そう、それが本質だ。歴史の流れを見れば一目瞭然さ」
爺の目が残酷な眼差しを放つ。まるで……最初に出会った日のように。
「戦争が長くなれば、平和を求める人間が多くなる。でも平和が長くなれば、戦争を求める人間が多くなるのだ」
爺の顔に冷たい笑みが浮かぶ。
「怒りと憎悪も……人間の自然な感情の一つだからだ。戦争でその感情を解消したくなるのだ。それを否定して『平和だけを求めるべき』と語っても、何も変わらないんだよ」
爺の声も冷たくなる。
「どの時代にも、どの社会にも……必ずいる。怒りと憎悪に包まれた人々が。その現実を否定するのは無駄だ。妄想だ。愚昧だ」
爺が俺に近づく。
「だからこそ必要なのさ。『人々の怒りと憎悪を代弁してくれる存在』が」
俺は何も言わなかった。ただ爺の顔を注視した。
「……女神教は」
爺がまた口を開く。
「その存在のことを赤竜と呼んで、大悪魔の化身と見なす。でも宗教を信じない私からすれば、そんな話は空想なんだよ」
爺は俺の顔を直視する。
「赤竜も……結局ただの人間だ。自分の怒りと憎悪を発散している内に、時代の流れに流されるだけの人間だ」
「……なるほど」
俺はゆっくりと頷いた。
「だから爺は俺を選んだんだな」
「その通り」
爺も頷いた。
「一目で分かったのさ。お前は……赤竜になる運命だと」
俺と爺は一緒に振り返った。最初に出会ったあの日を。
「お前は肌が赤くて、完全に孤立していた。しかも家族もお金も持っていなかった。極めて少数で、極めて弱い存在……まさに『人々から殴られるために生まれた存在』だったのさ」
「へっ」
俺と爺は一緒に笑った。灰色の貧民街で……俺たちは話し合った。
「そんなお前に力を付けさせれば、きっとなれる。この世の全てを破壊する赤竜に」
「爺も求めていたわけだな。自分の怒りと憎悪を代弁してくれる存在を」
「直接やりたいけど、歳が歳だからな」
爺は笑顔で俺を見つめる。ある意味、弟子の成長を嬉しく思っている師匠の顔だ。
「お前は本当によくやってくれた、レッド。たった5年でこの王国を制覇した。無数の赤竜の中にも……お前ほど強いやつはいなかったのさ」
「爺に褒められるなんて、普通に嬉しいな」
「……でも」
爺が無表情になる。
「どうやらお前は……自分の運命を拒むことにしたようだな。赤竜になる運命を」
「ああ。俺は……変わる。変わってやる」
俺は席から立ち上がった。
「マリアと爺の話は……確かに真実だ。女神教を信じるか否かは関係無い。俺は、まさに赤竜になるために生まれた存在だ」
みんなが見ている中、俺は淡々と話した。
「子供の頃……いつも殴られて、いつも侮辱された。それで俺の中には、少しずつ怒りと憎悪が溜まっていた」
俺は自分の胸にそっと手を当てた。
「その怒りと憎悪は……今も残っている。そして俺に力を与えている」
「そう、怒りと憎悪こそがお前の力の根本だ。立ち塞がる者全てを倒せる力の根本だ」
爺がゆっくりと杖を動かして、俺のみぞおちを軽く叩いた。
「お前の根本を……本当に変えることが出来るか?」
「出来るさ」
俺は笑顔で答えた。
「爺が言っただろう? 力を集中すれば……人間は木どころか、国だって壊せると。なら俺が証明してやる。人間は……運命だって壊せるってことを」
「……へっ」
爺がまた笑った。
「なら、やってみせるがいい。もしそれが出来れば……お前は間違いなく最強だ。私が保証する」
「いいな、爺に認められるなんて」
爺を超えることは、俺にとって王国を制覇することと同等だ。今日……その目標を果たせるかもしれない。
「……本当に驚いた」
マリアが呟いた。
「千年を超える女神教の歴史の中でも……こういうことは前代未聞だ」
マリアは爺の隣に立って、俺を見上げる。
「『赤竜』によって破滅の時代が始まると、必ず現れた。強さと優しさを持って平和の時代を作るために戦う『救世主』が。しかし『赤竜』が『救世主』になろうとするなんて……本当に前代未聞だ」
マリアの声が震える。
「もしお前が成功すれば……我々は今度こそ見つけられるかもしれない。赤竜に勝てる方法を」
「まだ喜ぶのは早いぞ、婆」
俺はニヤリと笑った。
「で、救世主になるために……俺は何をすればいいんだ?」
「お前には『救世の試練』に挑戦してもらう」
「試練?」
俺は眉をひそめた。
「試練って何だ? 山を登って祈りでもするのか?
「いや、自分自身と戦うのさ」
その答えを聞いて、俺は失笑した。
「やっぱり相手はあいつだな」
俺は拳を握りしめて、覚悟を新たにした。




