第552話.交差の瞬間
村の奥の、小さな煉瓦造の民家。狭い庭には畑と物干し竿があり、壁の近くには様々な木樽が置かれている。たぶんあの木樽の中には調味料や食用油などが入っているんだろう。まさにどこにもありそうな……普通の田舎の民家だ。
「入ってきな」
マリアが民家の前に立ち、笑顔で手招きした。俺とシェラが先に入り、爺もついてきた。
家の中は……穏やかそのものだ。木籠、家具、台所、そしてパンを焼く匂い……狭いけど生活感に溢れている。
真ん中のテーブルを指さして、マリアが「座ってくれ」と言った。俺たちはその周りの椅子に座った。
「どうぞ」
しばらくして、マリアは台所からお茶の入ったコップと焼き立てのパンを持ってきた。素朴な食べ物だが……いい匂いがする。俺とシェラはもちろん、爺も田舎の味を楽しんだ。
「お嬢さんは……」
お茶を一口飲んでから、マリアがシェラを見つめる。
「レッドの恋人かい?」
「あ、はい。シェラと申します」
シェラが頷いた。
「私はレッドの婚約者です。そしてアイリンちゃんの友達です」
「なるほど、お嬢さんがシェラなんだね。アイリンから話は聞いた」
マリアが優しい笑顔を見せる。
「『自分はレッドと鼠の爺に救われた。そしてシェラが友達になってくれた。だから幸せだった』。アイリンは何度もそう話したのさ」
「そんな……」
シェラの瞳に涙が浮かぶ。たった数ヶ月の間だけど、シェラとアイリンは本当に親しかった。活発な姉と物静かな妹を見ているようだった。一緒にドレスを着て、パーティーを楽しんだりした。懐かしい日々だ。
「さて……」
マリアの視線が俺に向けられる。
「レッド、お前がこの村に来たのは……私に聞きたいことがあるからだろう?」
「ああ、そうだ。あんたにはいろいろ聞きたい」
俺はコップをテーブルの上に置いた。
「だが、まずは感謝を言いたい」
「感謝?」
「アイリンの声を治してくれたことに対してだ。本当に……感謝する」
マリアが俺の顔を注視する。婆の小さな目は、まるで何もかも見透かしているようだ。
「……正直に言えば、俺はまだあんたら異端を信用していない」
「そうかい」
「あんたらの事情を知らないわけではない。知っているからこそ、まだ信用出来ないのさ」
俺は腕を組んだ。
「あんたらは女神教の本来の経典を信じている。国王によって改訂される前の経典をな。ただそれだけなのに……この王国では重犯罪者として扱われた。そうだろう?」
マリアは何も言わなかった。
「俺があんたらの立場だったら、怒りと憎悪に満ちているはずだ。自分たちを迫害するこの王国を憎んでいるはずだ。戦争でも起こして、何もかも覆そうとするはずだ」
俺とマリアの視線がぶつかった。
「生憎だが、今の俺はこの王国を守る立場だ。だからあんたらをまだ信用出来ないのさ」
「……これは本当に驚いたね」
マリアが小さな目を見開く。
「私たちについては、いろんな噂が流れている。いい噂も、悪い噂もある。しかしレッド、お前は……噂に振り回されることなく、自分で考えている。争いの本質を考えている。本当に驚くべきことだ」
「へっ」
俺は笑ってしまった。
「何言ってんだ? こんなの普通だろう?」
「しかもお前は口先だけではない。自分の考えを行動に移している。どんな逆境にも屈せず、自分の考えを実践している。まるで……」
全てを見透かす眼差しで、マリアが話し続ける。
「まるで……本当の救世主だ」
その言葉を聞いて、俺はもう一度笑った。そして首を横に振った。
「今更だが、はっきり言ってやる。俺は救世主なんかではない。本当の救世主は……」
「レッド!」
その時、いきなり外から呼び声が聞こえてきた。嬉しさに満ちている呼び声が。
「あ……!」
そして一人の少女が現れた。小柄で、純粋な顔をして、手には革袋を持っている。そう、この少女こそが……。
「シェラ!」
アイリンがシェラを見て目を丸くする。シェラも驚いてアイリンを見つめる。
「アイリンちゃん……」
「シェラ、シェラ……!」
瞳から涙を流しながら、アイリンはシェラに抱き着く。シェラも泣きながらアイリンを抱きしめる。
「声、治ったのね……アイリンちゃん」
「うん」
アイリンが眩しい笑顔で頷いた。
「会いたかった、会いたかった……シェラ」
「私も……会いたかったよ」
二人は互いの元気な姿を確認して、また涙を流した。見ている俺も視野がぼやけてきた。
しかも再会の喜びは更に続いた。今度は小柄の少年が現れたのだ。
「総大将! 村に滞在する準備を終えました。しばらくなら……あ」
トムがアイリンを見て目を丸くする。
「お嬢さん……! お久しぶりです!」
嬉しい笑顔になって、トムが挨拶する。アイリンも眩しい笑顔でトムを見つめる。
「トムさん、久しぶりです」
「声、治ったのですね。本当に嬉しい限りです」
「ありがとうございます」
俺が格闘場の新入選手だった頃から、この二人は互いに親近感を持っている。南の都市の食堂で一緒に鶏料理を食べたことは、みんな今も鮮明に覚えている。
「嬉しい声が聞こえてくると思ったら、これは……」
そしてエイブとカールトンも来た。二人の騎士もアイリンを見て笑顔になる。
「お嬢さんが元気そうで、我々『レッド組』も嬉しいです」
エイブが優しい顔でそう言うと、カールトンも頷いた。俺の最初の仲間である『レッド組』は、俺がどれだけアイリンを大事にしているのか分かっている。そしてこの小さな少女をお姫様のように丁寧に接している。
「ありがとうございます、皆さん」
アイリンが笑顔で言うと、エイブとカールトンが感嘆の声を漏らす。アイリンの声が治ったことは、皆にも慶事なのだ。
「みんな、この狭い家で何しているの?」
次に現れたのは、白猫だった。
「あれ? もしかしてこちらの子が……」
「ああ、紹介するよ」
俺はアイリンと白猫を交互に見た。
「白猫、こちらがアイリンだ。アイリン、こちらは白猫だ。俺の義姉さ」
「レッドの……義姉?」
アイリンが驚くと、白猫がニコリと笑う。
「成り行きでそうなったの。よろしくね、アイリンちゃん」
「は、はい。よろしくお願いします」
「あら、アイリンちゃんってやっぱり可愛いわね」
白猫がアイリンに近寄る。
「アイリンちゃんはレッドの大事な存在だから、私も大事にするわ。手取り足取りね、ふふふ」
「あ、ありがとうございます」
アイリンは少し困惑する顔だ。こんなふざける人は、異端の中にもいないんだろう。
「もうすぐ黒猫ちゃんとタリアちゃんも来るわ」
「そうか」
俺は満足げに頷いた。その二人はアイリンと同年代だ。きっと3人はいい友達になるはずだ。
「でもここは狭すぎるよね。診療所は広いから、そこでパーティーでも……」
白猫がまたふざけようとした時、二人の少女が現れた。もちろんそれは黒猫とタリアだ。
「来たか」
俺が席から立ち上がった。
「二人共、こちらがアイリンだ。俺の大事な存在さ」
「おお、ついに会えました!」
タリアが両手を高くあげる。
「アイリンさんの話はかねがね聞き及んでおります! 私は吟遊詩人見習い、タリアと申します!」
「初めまして、タリアさん」
タリアとアイリンが挨拶を交わした。やっぱりすぐ親しくなれそうだ。
「黒猫、お前も挨拶してくれ」
俺が笑顔で義妹を見つめた。内気な黒猫も、アイリンとならすぐ親友になるはずだ。
「アイリン、こちらは黒猫だ。俺の義妹……」
その時、俺は異変を感じ取った。この場の明るい雰囲気を一瞬で凍り付かせる異変を。
それは……アイリンと黒猫が互いの顔を見た瞬間だった。聡明で優しい笑顔のアイリンと、いつもの無表情の黒猫が……同時に目を見開く。
「貴方は……」
アイリンが黒猫を呼んだ。だが黒猫は答えない。
「貴方は……」
アイリンが一歩前に出ると、黒猫は一歩後退った。
「私の……」
まるで永遠のような、たった数秒の間……二人の少女は互いを凝視した。
「私の……家族を殺した人」
そして運命の一言が、我々を切り裂いた。




