第541話.空の向こう
5月になっても俺は書類仕事に追われていた。
「ふう」
隊長室の机で報告書を読んで、指示事項と署名を書く。ここ数日、もう数え切れないほどこの作業を繰り返した。
「……やっと終わりだな」
自分にそう言い聞かせながら、机の上を見つめた。もう俺が直接指示するべき事項もあまり残っていない。長かった書類との戦いもこれで終わる。
最後の報告書を手にした時、二人が隊長室に入ってきた。足音も、気配もなく動く二人……猫姉妹だ。
「レッド君」
白猫が話しかけてきた。
「諜報員たちの配置が終わったわ。任務完了よ」
「ご苦労。これでコスウォルトの防諜も強くなったな」
「しばらくは問題ないはずよ。私と黒猫ちゃんが席を外してもね」
白猫が笑顔を見せた。俺は満足げに頷いた。
「来週から貿易が再開される。港を通じて、莫大な物資が入ってくるだろう。ようやくコスウォルトの経済も回復するのだが……敵も動くはずだ」
「貿易船に紛れて、ルケリア王国の諜報員たちも入ってくるだろうね」
「決戦が近づいているからな」
俺はニヤリとした。
昨年からエミルの情報部は多数の要員をルケリア王国に派遣した。敵の情報を探ることは、戦略の基本だからだ。そしてそれは……ルケリア王国側も同じだ。
俺たちがコスウォルトを拠点とした以上、ルケリア王国は多数の要員をこの都市に派遣してくるはずだ。激しい情報戦が始まるだろう。だから俺は鳩さんと猫姉妹に指示し、都市の隅々に諜報員を配置させた。
「レッド君の方はどう? 仕事は終わったの?」
「終わったさ」
机の上に百枚以上の報告書が積まれている。全部今日確認したものだ。
「兵力補充、司法執行、予算確保、貿易再開……総指揮官としての役目は果たした。しばらくは俺が席を外しても問題ないはずだ。遠征軍の各指揮官は有能だし、俺の戦略方針をちゃんと理解しているからな」
「じゃ、今週中には出発ね」
「ああ……ついに行ける」
深く息を吸い込んだ。俺のもう一つの戦いが……待っている。
「ね、レッド君」
白猫が意味ありげな視線を送ってくる。
「聞いた? アルデイラ公爵のこと」
「アルデイラ公爵?」
俺は眉をひそめた。
「やつが何か仕出かしたのか?」
「それがね……どうやら壊れたみたいだわ」
「壊れた?」
「うん」
白猫が頷く。
「数日前から、何も言わなくなったそうよ。全てを諦めた顔で、ひたすら壁を見つめているんだって」
「確かに壊れたな」
俺は苦笑いした。
「やつもようやく分かったんだろう。今まで軽蔑してきた弱者たちと……自分自身が同じ人間であることをな。それで自尊心が崩壊してしまったに違いない」
「他人を軽蔑して苦しめてきた人間の末路……まさに因果応報だわ」
白猫も苦笑いした。
「あのままじゃ、すぐ処刑された方が本人も幸せだろうね」
「まあな」
「まさかレッド君って、もっと苦しめるためにアルデイラ公爵を生かしておいたの?」
「いや、違う」
俺は笑顔で首を振った。
「もう話した通り、俺がやつを生かしておいたのは……エルデ伯爵夫人のためだ」
「アルデイラ公爵の長女ね」
「ああ、彼女こそが貴族社会の希望だからな」
俺は腕を組んだ。
「貴族社会は陰湿な陰謀が渦巻いている。『上手く人を騙せる人間』が上に行ける構造さ。おかげで多くの貴族は『信頼なんて無意味だ。私も陰謀を企んでみようか』と思っている。まさに陰謀家の養成施設だ」
「つまり、アルデイラ公爵を処刑しても……いつかは第二のアルデイラ公爵が現れるってことよね」
「そうだ。本当に王国最悪の陰謀家を退治するためには……貴族社会そのものを変えるべきだ。そしてそれが出来るのはエルデ伯爵夫人だ」
純粋な夫を深く愛している貴婦人……彼女も俺の仲間だ。
「エルデ伯爵夫人は素晴らしい知略と政治力を持ち、王都の貴族層をまとめている。しかも彼女は夫から学んだのさ。人間への希望を」
「夫との愛情が……彼女を変えた。羨ましい話だわ」
白猫が微笑んだ。俺は少し間を置いて話を続けた。
「王国の情勢が落ち着いたら、アルデイラ公爵を正式裁判にかけるつもりだ。そうなったらエルデ伯爵夫人も……受け入れるだろう」
「そうね。私もそれが最善だと思う」
いつもとは違い、白猫が真剣な顔で頷いた。
「じゃ、私と黒猫ちゃんは旅の支度をするわ。結構長い旅になりそうだからね」
俺が「ああ」と答えると、白猫は黒猫を連れて隊長室を出ようとした。だがその時、黒猫が俺に話しかけてくる。
「頭領様」
「どうした、黒猫?」
俺が見つめると、黒猫は少し戸惑ってから口を開く。
「今回の旅……タリアさんを同行させてもいいでしょうか?」
「タリアを?」
「はい」
黒猫が頷いた。
「その、タリアさんが言いました。頭領様の行く先を目撃して……人々に知らせたい、と」
「タリアは何としても俺を主人公にした作品を書くつもりだからな」
俺は笑った。
「ま、いいだろう。タリアも連れていこう」
「はい」
黒猫の顔が少し明るくなった。俺の義妹は、友達と一緒に旅出来て嬉しいみたいだ。それでいい。
猫姉妹が去り、一人になった俺は窓際で空を眺めた。青くて爽快な空がどこまでも続いていた。そして眩しい日差しが大地を温めてくれていた。別に特別な風景じゃないけど、見ているだけで気持ちいい。
たぶんあの子も今……空を眺めている。不思議な話だが、俺には分かる。




