表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
582/602

第541話.空の向こう

 5月になっても俺は書類仕事に追われていた。


「ふう」


 隊長室の机で報告書を読んで、指示事項と署名を書く。ここ数日、もう数え切れないほどこの作業を繰り返した。


「……やっと終わりだな」


 自分にそう言い聞かせながら、机の上を見つめた。もう俺が直接指示するべき事項もあまり残っていない。長かった書類との戦いもこれで終わる。


 最後の報告書を手にした時、二人が隊長室に入ってきた。足音も、気配もなく動く二人……猫姉妹だ。


「レッド君」


 白猫が話しかけてきた。


「諜報員たちの配置が終わったわ。任務完了よ」


「ご苦労。これでコスウォルトの防諜も強くなったな」


「しばらくは問題ないはずよ。私と黒猫ちゃんが席を外してもね」


 白猫が笑顔を見せた。俺は満足げに頷いた。


「来週から貿易が再開される。港を通じて、莫大な物資が入ってくるだろう。ようやくコスウォルトの経済も回復するのだが……敵も動くはずだ」


「貿易船に紛れて、ルケリア王国の諜報員たちも入ってくるだろうね」


「決戦が近づいているからな」


 俺はニヤリとした。


 昨年からエミルの情報部は多数の要員をルケリア王国に派遣した。敵の情報を探ることは、戦略の基本だからだ。そしてそれは……ルケリア王国側も同じだ。


 俺たちがコスウォルトを拠点とした以上、ルケリア王国は多数の要員をこの都市に派遣してくるはずだ。激しい情報戦が始まるだろう。だから俺は鳩さんと猫姉妹に指示し、都市の隅々に諜報員を配置させた。


「レッド君の方はどう? 仕事は終わったの?」


「終わったさ」


 机の上に百枚以上の報告書が積まれている。全部今日確認したものだ。


「兵力補充、司法執行、予算確保、貿易再開……総指揮官としての役目は果たした。しばらくは俺が席を外しても問題ないはずだ。遠征軍の各指揮官は有能だし、俺の戦略方針をちゃんと理解しているからな」


「じゃ、今週中には出発ね」


「ああ……ついに行ける」


 深く息を吸い込んだ。俺のもう一つの戦いが……待っている。


「ね、レッド君」


 白猫が意味ありげな視線を送ってくる。


「聞いた? アルデイラ公爵のこと」


「アルデイラ公爵?」


 俺は眉をひそめた。


「やつが何か仕出かしたのか?」


「それがね……どうやら壊れたみたいだわ」


「壊れた?」


「うん」


 白猫が頷く。


「数日前から、何も言わなくなったそうよ。全てを諦めた顔で、ひたすら壁を見つめているんだって」


「確かに壊れたな」


 俺は苦笑いした。


「やつもようやく分かったんだろう。今まで軽蔑してきた弱者たちと……自分自身が同じ人間であることをな。それで自尊心が崩壊してしまったに違いない」


「他人を軽蔑して苦しめてきた人間の末路……まさに因果応報だわ」


 白猫も苦笑いした。


「あのままじゃ、すぐ処刑された方が本人も幸せだろうね」


「まあな」


「まさかレッド君って、もっと苦しめるためにアルデイラ公爵を生かしておいたの?」


「いや、違う」


 俺は笑顔で首を振った。


「もう話した通り、俺がやつを生かしておいたのは……エルデ伯爵夫人のためだ」


「アルデイラ公爵の長女ね」


「ああ、彼女こそが貴族社会の希望だからな」


 俺は腕を組んだ。


「貴族社会は陰湿な陰謀が渦巻いている。『上手く人を騙せる人間』が上に行ける構造さ。おかげで多くの貴族は『信頼なんて無意味だ。私も陰謀を企んでみようか』と思っている。まさに陰謀家の養成施設だ」


「つまり、アルデイラ公爵を処刑しても……いつかは第二のアルデイラ公爵が現れるってことよね」


「そうだ。本当に王国最悪の陰謀家を退治するためには……貴族社会そのものを変えるべきだ。そしてそれが出来るのはエルデ伯爵夫人だ」


 純粋な夫を深く愛している貴婦人……彼女も俺の仲間だ。


「エルデ伯爵夫人は素晴らしい知略と政治力を持ち、王都の貴族層をまとめている。しかも彼女は夫から学んだのさ。人間への希望を」


「夫との愛情が……彼女を変えた。羨ましい話だわ」


 白猫が微笑んだ。俺は少し間を置いて話を続けた。


「王国の情勢が落ち着いたら、アルデイラ公爵を正式裁判にかけるつもりだ。そうなったらエルデ伯爵夫人も……受け入れるだろう」


「そうね。私もそれが最善だと思う」


 いつもとは違い、白猫が真剣な顔で頷いた。


「じゃ、私と黒猫ちゃんは旅の支度をするわ。結構長い旅になりそうだからね」


 俺が「ああ」と答えると、白猫は黒猫を連れて隊長室を出ようとした。だがその時、黒猫が俺に話しかけてくる。


「頭領様」


「どうした、黒猫?」


 俺が見つめると、黒猫は少し戸惑ってから口を開く。


「今回の旅……タリアさんを同行させてもいいでしょうか?」


「タリアを?」


「はい」


 黒猫が頷いた。


「その、タリアさんが言いました。頭領様の行く先を目撃して……人々に知らせたい、と」


「タリアは何としても俺を主人公にした作品を書くつもりだからな」


 俺は笑った。


「ま、いいだろう。タリアも連れていこう」


「はい」


 黒猫の顔が少し明るくなった。俺の義妹は、友達と一緒に旅出来て嬉しいみたいだ。それでいい。


 猫姉妹が去り、一人になった俺は窓際で空を眺めた。青くて爽快な空がどこまでも続いていた。そして眩しい日差しが大地を温めてくれていた。別に特別な風景じゃないけど、見ているだけで気持ちいい。


 たぶんあの子も今……空を眺めている。不思議な話だが、俺には分かる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ