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第536話.35年前の事件

 アルデイラ公爵は手を伸ばし、小さなテーブルの上のコップを取って水を飲んだ。


「35年前、まだ10代だった頃……私は貴族社会に幻滅していた」


 冷酷な陰謀家が郷愁に浸る表情をする。自分の過去を思い出しているんだろう。


「君も知っているはずだ。『仮面と短剣』という言葉を」


「貴族社会の陰湿さを現した言葉だな」


 俺が答えると、陰謀家は「ああ」と頷いた。


「貴族層だけのパーティーを見ていると、すぐその真意が分かる。互いに対して仮面のような笑顔なのに、裏では陰湿な陰謀が渦巻いている。吐き気が出る光景さ」


「へっ」


 俺はニヤリとした。


「意外だな。あんたならそういうパーティーが好きだろうと思っていたのに」


「誤解だよ、レッド。私はパーティーより一人で本を読む方が好きだ」


 アルデイラ公爵が笑顔を見せる。


「相続紛争で揉め合う一族、自分の自尊心のために周りを卑下する高位貴族、いつも謙遜な態度だけど実は下剋上を企んでいる下位貴族……10代の私はそれらが大嫌いだった。だから遭えて自由都市ハベルンに留学したのさ」


「貴族社会から離れて、自由市民たちの生き様を見てみたかったんだな」


「その通りだ。当時のアルデイラ公爵家の後継者は兄上だったから、私は比較的自由に動くことが出来た」


 ソファーに身を委ねて、アルデイラ公爵は過去を語り続ける。


「王都の南に位置する、巨大な自由都市ハベルン。そこの豪商の別荘を借りて、護衛騎士たちと一緒に暮らした。そして自由市場を体験したり、公共施設を見学したり、貿易商人の代表と話したりした」


「結構充実に過ごしたな」


「ああ、本当に楽しい日々だった。『どうして公爵家の人間がここにいるんだ?』と変な目で見られることもあったが……楽しかったよ」


 アルデイラ公爵の顔が緩んだ。王国最悪の陰謀家とは思えない暖かい表情だ。しかしその直後、彼はまた冷酷な姿に戻る。


「だが、楽しい日々の裏側で……私は違和感を覚えた」


「違和感?」


「不況から来る不穏な空気だ」


 アルデイラ公爵が目を細める。


「本来のハベルンは、君の『南の都市』やここ『コスウォルト』をも凌駕する王国最大の自由都市だった。その経済規模は王都にも匹敵するほどだった。だが貿易事業の失敗、外交的紛争、不幸な船舶事故などのせいで……長期的な不況に陥り、発展どころか衰退するようになった」


「なるほど、それなら都市全体が不穏になるのも自然だな」


「多くの店が廃業し、生活苦に苦しむ人がどんどん増えていった。貿易商人の代表も『市民たちの顔から余裕が消えております』と述べた」


 アルデイラ公爵は腕を組んだ。


「もちろん公爵家の人間である私は、経済的な困窮とは無関係だった。でも都市内の不穏な空気は確実に感知出来た」


「で、何か起きたのか?」


「ああ、残酷な事件が起きた。残酷な……殺人事件がな」


 アルデイラ公爵はまた水を一口飲んでから話を再開する。


「王国歴504年6月13日……ハベルンの港の近くで死体が発見された。無惨に損壊された少女の死体だった」


 アルデイラ公爵が視線を落とす。


「警備隊が調査した結果、死体の正体はある貿易商人の一人娘だったことが判明された。無垢な少女が残酷に殺害されたことに……ハベルンの市民たちは衝撃を受けた」


「犯人は? 特定出来たのか?」


「いや、警備隊が総力を挙げて調査を続けたけど……証拠が見つからなかった」


 アルデイラ公爵は首を横に振った。


「そして6月16日、また衝撃的な出来事が起きた。港の近くの海岸で、埋蔵された死体が発見されたのだ。調査結果、その死体の正体は2ヶ月前に行方不明された果物屋の娘だった」


「……連続殺人か」


「ああ、そうだ。死体の損壊状態からして、貿易商人の一人娘が殺害された事件と同一犯であることは確実だった」


 アルデイラ公爵の声が低くなる。


「……自由都市ハベルンは混沌に陥った。無垢な少女が二人も残酷に殺された上に、その犯人を特定出来そうにない。しかも今までたまに起きてきた行方不明事件が、実は残酷な殺人事件だったのかもしれない。そういう認識が瞬く間に広がり、市民たちの顔は恐怖に染まった」


「それで、また何か起きたのか?」


「数日後、噂が流れ始めた。港の労働者である『ジョセフ』という男こそが、連続殺人事件の犯人だという噂が」


 アルデイラ公爵が目を輝かせる。


「ジョセフは独身の若い男だった。みすぼらしい外見で、友人も財産も持っていない男だった」


「そいつが犯人だという証拠はあったのか?」


「具体的な証拠は無かったが、ジョセフはいつも一人だったから……彼の潔白を証明してくれる人もいなかった。しかもジョセフはハベルン出身ではなく、東部地域出身の人間だった」


「孤立していたわけか」


「噂は一瞬で広がった。『ジョセフのやつはいつも怪しかった』『いつも一人で何しているのか分からないやつだった』『所詮あいつも野蛮な東部地域の人間だ。信用出来ない』などなど……」


 アルデイラ公爵が微かに笑う。


「噂を止めることなど不可能だから、結局警備隊がジョセフを拘束して調査した。だが……彼が連続殺人事件の犯人だという証拠は何も見つからなかった。原則としてはジョセフを釈放するべきだったが……多くの市民が反発した。『残酷な殺人犯を許すな』と」


「で、警備隊はどんな判断を下したんだ?」


「当時のハベルン警備隊隊長は慎重な人だったからな。中立策を取ることにした」


「中立策?」


「『多くの市民がジョセフの処刑を望んでいる。今彼を釈放したら、逆に危険だ。だからジョセフを拘束したまま調査を続けて、犯人を探す』という策だ」


「なるほど、慎重と言えば慎重だな」


 俺が頷くと、アルデイラ公爵も頷いて話を続ける。


「そして6月28日……自由都市ハベルンはまた衝撃に包まれた。ジョセフの部屋を再度調査していた警備隊が、地面の下で見つけたのだ。女性用の髪飾りを」


「地面の下で……」


「調査結果、その髪飾りは……死んだ貿易商人の一人娘のものだった。そう、連続殺人事件の犯人を特定する決定的な証拠なのさ」


 アルデイラ公爵が笑顔を見せる。


「ハベルンの市民たちは声を上げた。『やっぱりあいつが犯人だった。早く処刑しろ!』と。数千の市民が警備隊本部の前に集まって、『早く処刑しろ!』と必死に叫んだ。それで慎重派の警備隊隊長もジョセフが犯人だと認め、迅速な裁判と処刑を指示した」


 いきなりアルデイラ公爵の顔から表情が消える。


「ジョセフの処刑が決定され、不安に包まれていた都市の中に安心と喜びが広がった。市民たちは『正義が果たされた』と頷いた。だが私は……また違和感を覚えた」


 アルデイラ公爵が自分の手のひらを見つめる。


「そもそも私はハベルンとは無関係の人間だ。あくまでも観察者として事件を見て、違和感を覚えたのさ。その違和感を解消するために……私は動いた」


「独自に調査をしたのか?」


「別に調査というほどのものではない。公爵家の権威を使って、事件を担当していた警備隊の兵士たちから話を聞いただけだ」


 アルデイラ公爵の声が冷たくなる。


「大半の兵士は『犯人はジョセフです。もう疑いの余地はありません』と話した。しかし一人だけ……妙な話をする兵士がいた。『先日、自分がジョセフの部屋を調査した時は……地面の下に何かが埋もれているような痕跡は無かったんですが……』と」


「証拠操作……?」


「そう、あの兵士も証拠操作を疑っていた。だがその疑いを口に出すことは出来なかった。都市全体が『犯人はジョセフ』と信じていたからな。だからまた私が動いた」


 アルデイラ公爵がまた目を輝かせる。


「公爵家の権威を更に使って、私は連続殺人事件に関する報告書を細かく調べた。『何であいつはあんなものを読んでいるんだ?』と、また変な目で見られたが……構わなかった。どうしても胸の中の違和感を解消したかった」


「それで何か見つけたのか?」


「ああ、報告書の偏向を見つけた」


 アルデイラ公爵の顔に冷たい笑みが浮かぶ。


「ハベルン警備隊の兵士たちは、結構中立的に事件を調査した。『ジョセフが犯人である可能性』と『犯人ではない可能性』に関して、様々な証言を集めて報告書を作成した。しかし実際に警備隊隊長が受け取った『報告書の総括本』には……『ジョセフが犯人ではない可能性』を述べた記録が消されていた」


「……誰かが巧妙に報告書を書き換えたわけか」


「ああ、それで私は確信した。ハベルンを驚かせた連続殺人事件の真犯人は……警備隊の中にいると」


 アルデイラ公爵は愉快そうに笑った。


「真犯人を誘き出すために、私は偽の報告書を作成した。『この事件の犯人はジョセフではない。教会の修道女が真犯人を目撃したと証言した。まだ犯人の特定は出来ていないけど、修道女の話によるとどうやら警備隊の人間が怪しいらしい』という内容の報告書だ」


「あんた、修道女を囮にしたんだな」


「そうだ。私は護衛騎士たちに指示を出して、警備隊本部と教会を監視させた。真犯人がまた報告書を書き換えようとしたり、あるいは修道女を殺そうとしたら……それを捕まえるために」


 アルデイラ公爵が視線を上げて、天井を見つめる。


「……そして7月3日の深夜、私の護衛騎士が一人の男を捕まえた。凶器を持って修道女に接近しようとした男をな」


「ほぉ」


「その男の名は『テッド』……ハベルン警備隊の首席書記だった。優れた容姿、立派な社会的地位、かなりの財産を持っている人間だった。もちろん周りからの評判も良かった。ジョセフとは本当に真逆だった」


 アルデイラ公爵はまたコップを取って、水を飲み干す。


「だが評判のいいテッドは、最悪の殺人鬼だった。テッドが所有していた倉庫を調査すると、数人の少女の死体が発見された。どうやら彼は、無垢な少女を殺す時こそ幸せを感じる人間だったらしい」


「なるほど」


「警備隊も、市民たちも……テッドの素顔を見て困惑した。でも認めるしかなかった。動かない真実を」


 アルデイラ公爵が軽く笑った。


「テッドは裁判にかけられ、処刑された。そして私は警備隊と市民の代表から感謝状をもらった。『未曾有の事件を解決し、ハベルンを救ってくださったノーマン・アルデイラ様に感謝を申し上げます』とな」


「へっ、確かに素晴らしい功績だな」


「ふふふ」


 気持ちよさそうに笑ってから、アルデイラ公爵が俺を見つめる。


「レッド、私は別に自分を自慢するために昔話をしたわけではない。私が本当に言いたいのは……『テッド事件』の後のことだ」


 アルデイラ公爵の顔が歪む。笑っているようにも、泣いているようにも見える。


「……テッドが処刑された直後、ジョセフは釈放された。あのみすぼらしい青年は暗い顔で警備隊本部を出て自分の小さな部屋に戻った。そしてハベルンの市民たちは……彼を『存在しない人間』と扱った」


 アルデイラ公爵の瞳が冷たくなる。


「誰もジョセフと話さなかった。ジョセフの方を見つめようともしなかった。それである日、あのみすぼらしい青年は……都市を出て姿を消した。たぶんどこかで飢え死にしたか、あるいは自ら命を絶ったのだろう」


 アルデイラ公爵の声も冷たくなる。


「ジョセフが拘束されていた時、多くの市民は『正義を果たすためにジョセフを処刑しろ』と叫んだ。それが本当に正義のための行動なら、ジョセフの無罪が証明された時、真っ先に彼に謝罪するべきだ。でも……結局誰一人もみすぼらしい青年に謝らなかった」


 俺とアルデイラ公爵の視線がぶつかった。


「私は気付いた。市民たちは決して正義のためにジョセフの処刑を叫んだわけではない。ただ……自分たちの不安を払うために、何の力も無い青年を殺そうとしただけだ。まるで古代人が生贄を捧げたようにな」


 アルデイラ公爵が冷たく笑う。


「人々はよくこう言う。『何かある度に生贄を捧げたなんて、古代人は本当に野蛮だったな』と。しかし人間の野蛮な本性は……この時代も同じだ」


 しばらく沈黙が流れた。沈黙の中で俺と陰謀家は互いを見つめた。


「……レッド」


 アルデイラ公爵がまた口を開いた。


「君は子供の頃、人々から散々侮辱され、石を投げられた。しかも君を侮辱して石を投げたのは、別に貴族でもお金持ちでもない。どこにもいる普通の……弱者たちだ」


「まあ、そうだな」


「明晰な君なら、もう理解しているはずだ。弱者は……決して善ではない。むしろ弱者たちの本性は家畜そのものだ」


 冷酷な笑みを浮かべて、陰謀家は言葉を続ける。


「多くの弱者は常にこう話す。『弱者を苦しめる貴族こそが悪だ』と。だが弱者の方も……自分たちより弱い者は容赦なく叩く。日頃の鬱憤を晴らし、優越感を味わうために……気軽に叩ける人間を探す。そのくせに、大変なことが起きると『強い者が現れて解決してくれ』と両手をこする。まさに家畜そのもの……それが弱者たちの素顔だ」


 アルデイラ公爵は俺の顔を凝視する。


「レッド、君はこの王国の弱者たちから救世主と呼ばれている。でも弱者たちは、本当の君の姿には何の興味もない。君の考えや気持ちなど、弱者たちは理解しようとしない。ただ君が強いから頼っているだけだ」


「まあな」


「それを理解している君が、弱者たちに優しくするのは……もう偽善でも何でもない。ただの矛盾だ。私には……君の矛盾が興味深いし、可哀想にも見える」


「……へっ」


 俺は苦笑した。そして王国最悪の陰謀家の顔を眺めた。


「やっぱりあんたは……化け物ではないな」


「何……?」


 陰謀家が眉をひそめた。


「それはどういう意味だ、レッド?」


「強者か弱者か、そういうちっぽけな区別は関係無い。あんたも結局……ただの人間ということさ」


 俺は宿敵の顔を見つめながら、淡々と話した。

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