第532話.心の在り処
4月15日……俺が静養に務め始めてから5日が経った。
この5日間、俺は本当に静かに過ごした。医者たちから診察を受ける以外は、ほとんどの時間を読書や散歩で潰した。こんなに静かな日々は本当に久しぶりだ。
そして今日、俺は朝から警備隊本部の西に向かった。長い廊下を通って大きな扉の前まで歩いた。扉の上には『鍛錬室』と書かれていた。
「公爵様」
廊下に立っていた兵士が来て、頭を下げてから素早く鍛錬室の扉を開ける。俺は軽く頷いて扉の中に入った。
鍛錬室はかなり広い。数十人が同時に武器術を鍛えられるほどの規模だ。壁にはあらゆる武器がかかれていて、部屋の中央には練習用の木人形が並んでいる。結構本格的な鍛錬のための場所だ。
でもまだ早朝だから、鍛錬室の中には5人の士官しかいない。彼らは各々の武器を持って、練習用の木人形を殴っていた。俺は彼らに近づいた。
「こ、公爵様……?」
士官たちが俺を見て目を丸くする。俺は笑顔で首を横に振った。
「俺のことは気にするな。鍛錬を続けてくれ」
「はっ」
士官たちは鍛錬を再開する。俺も壁から木剣を取って、練習用の木人形の前に立った。
木人形は木剣と木盾を装備して、誰かが攻撃してくれることを待っていた。俺はニヤリとしてから、木人形に向かって剣を振るった。
「はっ!」
俺の木剣が曲線を描いて、木人形の肩を狙う。迅速の剣撃だ。でも肩を強打する直前、木剣は軌道を変えて木人形の首に向かう。
「はあっ!」
俺は木剣を振るい続けたが、一度も木人形を叩かなかった。俺の木剣はずっと軌道を変えながら、木人形の全身をそっと触れるだけだ。
「え……?」
「一体……?」
士官たちが俺の剣さばきを見て驚く。見えない速度で剣を振るっているのに、相手には少しの被害も与えていない。こんな『無害の猛攻撃』なんて、見たことも聞いたこともないだろう。
しかし無害の猛攻撃を続けている内に……俺は胸の奥から違和感を感じた。やっぱりこんなのは……俺が望んでいるものではない!
「……うおおおお!」
違和感が最大に達した時、俺は無意識的に腕に力を入れた。そして雄叫びを上げながら木剣を突き刺した。木剣は木人形と衝突し……そのまま胴体を貫いてしまう。
「あ……!」
士官たちが驚愕する。練習用の木剣が、木人形の太い胴体を完全に貫通したのだ。確かに信じられない光景だ。
「……へっ」
だが俺は苦笑した。5日も休んだのに……まだ本調子ではない。腕力も速度も反応も本来の7割くらいだ。これでは……やつに勝てない。
「レッド」
後ろから聞き慣れた声が俺を呼んだ。振り向くと少女の姿が見えた。短い茶髪、健康的な体型、綺麗な肌、活動的な服装……俺の婚約者であるシェラだ。
「静養中なのに、そんなに動いていいの?」
シェラが笑顔で近づいてきた。活発な彼女だけど、優雅さが漂う。
「大丈夫さ」
俺は笑顔で答えた。
「医者たちの話によると、俺にはもう専門的な治療は必要ないみたいだ。無理しない程度で運動していれば、いずれ本調子に戻れるそうだ」
「それはよかったね」
シェラが頷いた。
「じゃ、久しぶりに私と練習してみる? 私、今日は休日だから時間はたっぷりあるの」
そう言いながら、シェラは鍛錬室の壁から木剣を取る。
「いいだろう」
俺も新しい木剣を取った。そして俺たちは対峙し、同時に戦闘態勢に入った。
「今日こそ、レッドを驚かせてあげる」
先に攻撃を開始したのシェラだ。彼女は細い身体を素早く動かせて、俺の側面に接近する。
「たあっ!」
シェラの木剣が俺の手首を狙う。しかもちゃんと俺の死角からの攻撃だ。俺は内心驚きながら防御に入った。
「えいっ!」
初手が失敗したが、シェラは勢いを落とさずに木剣を振るう。踏み込みも攻撃角度もなかなかだ。
「へっ」
俺は笑った。もちろんシェラは一流の戦士ではない。でも軍隊の指揮官として、恥じないほどの実力を持っている。初めてシェラに出会った時と比べると……本当に飛躍的な進歩だ。
俺とシェラは互いを見つめ、呼吸を合わせ、手と足を動かせ、攻撃と防御を繰り返した。もうこれは単なる鍛錬ではない。互いを深く信頼し、互いの考えを理解して、心身の交流を続けているのだ。
「はぁ……はぁ……」
そして30分くらい後、シェラが疲れてしまう。彼女の体力も昔に比べるとかなり強くなったけど、昔より激しく動いたから疲れるのは仕方ない。
「結局、今日も……レッドには一発も当てられなかった……」
「いや、よくやったよ」
俺は笑顔を見せた。
「格闘技の教師としてお前の成長が嬉しい。よくやった、シェラ」
「ぷっ!」
シェラが笑った。俺も笑った。
しばらく一緒に笑ってから、俺はシェラを抱きしめようとした。
「な、何するのよ! 人々が見ているでしょう!?」
シェラが赤面になって後退る。確かに士官たちがこちらを注視している。
「あ、後で部屋に行くから……待っていなさい」
小声でそう言ってから、シェラは赤面のまま鍛錬室を出る。俺も苦笑いして自分の部屋に向かった。
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部屋についた浴室で身体を洗ってから、俺は寝台に横になって読書を始めた。
今日の本は『歴史の中の指導者』だ。あらゆる王国の有名な指導者を紹介し、彼らの人物像や業績を分析する歴史書だ。
歴史の中には、本当にいろんな種類の指導者がいた。若い頃は明君と呼ばれたが老年には最悪の暗君となった人物、強大な征服者なのにいきなり病で死んだ人物、完璧な統治者に見えたけど自分の息子に裏切られた人物などなど……。
どんな偉大な指導者も、結局は一人の人間だな。そう考えながら俺は歴史書を面白く読み続けた。
「レッド」
ノックの音と共に、シェラの声が聞こえてきた。俺は部屋の扉を開けて、可愛い婚約者を招き入れた。
「ほら、これ」
シェラが俺に籠を渡した。籠の中にはサラダとジュースが入っていた。
「お前の作ったサラダか。本当に久しぶりだな」
「せっかくだから、作ってみたの」
シェラが笑顔で言った。
俺がまだ地方の小領主だった頃は……シェラがたまにサラダを作り、一緒にピクニックに行ったりした。でも俺の勢力が大きくなり、シェラも忙しくなってからは……そんな余裕は少なくなった。
今日は久しぶりに婚約者の手料理を食べられる。その事実に微笑み、俺はシェラと一緒にテーブルに座った。そして新鮮なサラダを食べ、甘いジュースを飲んだ。
「美味しいな」
「でしょう? 私って育ちのいいお嬢様なんだから」
「へっ」
得意げな顔のシェラを見て、俺は笑った。彼女の可愛い表情は昔から変わらない。
他愛のない話をしながら、俺たちはサラダを食べ終えた。静かで幸せな時間だ。
「シェラ」
「ん?」
「都市の復旧はどうなっているんだ?」
「あーあ、仕事の話か」
シェラが苦笑する。
「順調よ。皆さんが頑張ってくれているし、市民たちも協力的だし」
「そうか」
「でも経済の回復には時間がかかりそうよ」
「仕方ないさ」
俺は頷いた。
「コスウォルトの経済は、港の貿易に頼っていたからな。情勢が安定し、本格的な貿易が再開されるまでは経済も動かないさ」
「そうね」
シェラも頷いた。俺は少し間を置いてからまた口を開いた。
「アルデイラ公爵はまだ見つからなかったのか?」
「なかなか見つからないみたい」
シェラが顔をしかめる。
「周辺の領主たちと連携して探しているけど……まだ行方が分からない。でも白猫さんと黒猫ちゃんが動いているし、もうすぐ捕まえるんじゃないかな」
「ま、確かに時間の問題だ。鼠の爺もいるからな」
俺は微かに笑った。
「俺を助けてくれた後、鼠の爺はアルデイラ公爵の行方を探している。いくら王国最悪の陰謀家でも……爺には勝てないさ」
「レッドの師匠だからね」
シェラは頷いてから、俺の顔を凝視する。
「師匠がレッドを助けてくれて……本当にほっとしたの」
「すまない。お前に心配をかけた」
「……本当に心配したんだからね」
シェラが横目で見つめてくる。
「いつも最強とか無敵とか言われているんだから、怪我しないでよ。あんたが怪我すると、私もみんなも……」
シェラの瞳に涙が浮かぶ。
「シェラ……」
俺は婚約者の気持ちを感じ取って、彼女の手を掴んだ。
シェラの可愛い姿は昔と同じだが、立場は同じではない。シェラももう『格闘技好きのじゃじゃ馬』ではないのだ。公爵の婚約者であり、軍隊の指揮官でもある。俺を心配して泣くことなど、人々の前では出来ないのだ。
二人きりになって、やっとシェラも本音を打ち明けた。俺が怪我したと聞いて……シェラは崩れそうになり、泣きたかったのだ。それを今まで我慢していた。
俺は席から立ち上がって婚約者に近づいた。そして彼女を抱きしめ、唇を重ねた。
「レッド……」
シェラの瞳から涙が零れ落ちる。そして彼女も俺を強く抱きしめる。俺たちは互いの鼓動と体温を感じ、ずっと離れなかった。
しばらく後……俺とシェラは寝台の上で互いを抱きしめたまま、無言で時間を過ごした。静寂の中、二人の間には安らぎと幸せが流れた。
「……ね、レッド」
ふとシェラが口を開く。
「あんた、アイリンちゃんと再会したんでしょう?」
「白猫から聞いたのか」
「ううん」
シェラが笑顔で首を振った。
「生還した時のレッドの顔を見て分かったの。とても優しい笑顔をしていたから」
「シェラ……」
俺は驚いた。鋭い洞察力を持っている白猫以外に、シェラも俺の心を見抜いていたのだ。この活発な少女は……誰よりも俺の気持ちを知っている。
「お前にアイリンのことを話したかったが、機会が見えなかった。すまない」
「……この都市でのことが一段落したら、アイリンちゃんに会いに行くんでしょう?」
「ああ」
俺は頷いた。
「ベルンの山だ。あの山で鼠の爺とアイリンが俺を待ってくれるはずだ」
「ベルンの山……」
シェラが俺の顔を見つめる。
「レッドが以前言ったよね。あの山で……『隻眼の赤竜』との決着を付けると」
「覚えていたのか」
「もちろんよ」
シェラが微笑んだ。
「隻眼の赤竜は、レッドの本来の姿かもしれない。それを超えない限り、レッドが戦いを捨てることは出来ない……と言った。ちゃんと覚えているの」
「その通りだ」
俺は自分の胸がざわめくのを感じた。
「あの白い山で何が起きるかは、正直俺にも分からない。でも何となく感じられる。大きな流れが……あそこで俺を待っている。俺が敗北を覚悟しなければならないほどの大きな流れが……」
「……心配しないで」
シェラが俺を抱きしめる。
「何があっても、私はレッドの傍にいる。いつも傍で……レッドを抱きしめてあげる」
「ありがとう」
俺もシェラを抱きしめた。




