第525話.かけがえのないもの
しばらく無言で過ごしてから、俺はアイリンの姿を見つめた。
アイリンの顔は記憶のままだ。黒髪に黒い瞳……そして優しさと無垢さ、聡明さに溢れている。見ているだけで胸の奥が暖かくなる。
でも記憶のままだけではない。4年という年月が経って、アイリンも17歳になった。
「お前も大きくなったな」
まだ小柄だけど、アイリンはもう俺の腰に抱きつく子供ではない。しっかり成長したのだ。その事実に俺は微笑んだ。
「言葉も……喋れるようになったんだな」
「うん、少し話せるようになったの」
アイリンは笑顔を見せて、ちゃんと自分の声で答えた。俺は驚きと嬉しさを同時に感じた。
「マリア婆さんから治療を受けて……まだ上手くはないけど」
「よかったな。本当に……」
俺は頷いた。俺の瞳からまた涙が零れ落ちた。
4年前、俺は医者のヘレンさんから驚くべき事実を聞かされた。アイリンが言葉を喋れないのは精神的な傷のせいであり、『マリア』と人物がそれを治療できるかもしれないということだ。
マリアは『女神教の異端』の指導者らしい。正直俺は女神教や異端に関してはあまり知らないが……ヘレンさんなら信頼できると判断した。それでアイリンをマリアのいる東部地域に送ったのだ。『数年以内に東部地域まで征服して、お前を迎えにいく』と約束して。
やっと……その約束が果たされた。俺とアイリンは、またしばらく一緒に笑って一緒に泣いた。
「レッドも……成長したんだね」
ふとアイリンがそう言った。俺は驚いた。
「俺が? 成長?」
「うん」
「ま、確かに身長は少し伸びたけど……」
「ううん」
アイリンが笑顔で首を振った。
「心が……広くなったの。もう本当に王様みたい」
「へっ」
俺は笑った。
「心が広いかどうかは知らないが、確かに今の俺は王国の頂点に近い。まだ王にはなっていないけどな」
「ふふふ」
アイリンも笑った。
「レッドが王様になったら……きっと多くの人が幸せになる」
「さあな」
俺はニヤリとした。
「俺はお前や仲間たちが幸せになれればそれでいいんだ。ま、そのためにはもっといい王国を作る必要があるけど」
優しいアイリンを幸せにするために、俺は覇王の道を選んだ。そして覇王の道を歩いていたら、多くの仲間に出会った。
平民も貴族も、男も女も、子供も老人も関係ない。俺と一緒に道を進んでくれるなら、俺の仲間だ。多くの仲間を幸せにするためには……もっといい王国を作るべきだ。そう、これは俺の個人的な欲望だ。
「……それより、お前こそ凄いじゃないか」
俺はアイリンに笑顔を見せた。
「俺の身体に広がった毒を解毒してくれたのは、お前だろう?」
「うん、それはそうだけど……」
「あれは伝説の暗殺組織の猛毒だったのに、こうも簡単に解毒するなんて。お前はもう1流の薬師だ」
「ううん、それは違う」
アイリンが笑顔で首を振った。
「私はまだ勉強中なの。レッドの身体の毒を解毒できたのは、お爺さんのおかげ」
「お爺さん? じゃ……」
俺が驚いた時、また誰かが部屋に入ってきた。白髪、ぼろぼろの服、粗末な杖……背は低く、顔は鼠みたいだ。どこをどう見てもただの貧民の老人だ。でも実は……このみすぼらしい老人は、俺の知っている最強の戦士だ。
「爺……!」
俺はまた懐かしさと嬉しさに包まれた。俺の師匠、鼠の爺が来たのだ。4年ぶりなのに……爺はあまり変わっていない。
「起きたか、レッド」
爺はこちらに近づき、アイリンの傍に座る。そして半笑いで俺を見つめる。
「レッド、お前……散々泣いたんだな。久しぶりにアイリンに会えて」
「うっ……」
「公爵ともあろう者が、情けない」
「ちっ」
俺は苦笑した。
「別にいいじゃないか。俺が泣くかどうかなんて、俺の勝手だ」
「へっ」
爺が気持ちよさそうに笑った。その笑顔を見て、俺は必死に涙を堪えた。俺と爺とアイリン……みすぼらしい部屋で3人でいると、まるであの頃に戻ったみたいだ。
「絶体絶命の時に、俺が助かったのは……爺の力のおかげなんだな」
「まあな。お前が死んだら、私の計画も破綻してしまうからな」
笑顔でそう言ってから、爺が説明を始める。
「私はアイリンと共に、この東部地域で女神教の異端と同行していた。しかし戦乱のせいでこの東部地域の混沌がどんどん酷くなり、何度も大変なことに巻き込まれた」
「盗賊の群れに何度も襲撃されたんだろう?」
「その通りだ。だからずっと逃走するしかなかったけど、マリアが勝手なことを言い出した。村を失った難民を助けて、彼らが盗賊と化すことを防ぐべきだと。おかげで私だけ苦労したのさ」
「……流石だな、爺」
俺は頷いた。
「実際、放浪騎士グレゴリーは希望を失った難民や盗賊を集めて反乱軍を結成した。俺もやつらには結構苦戦したのさ。爺は……見えないところで反乱軍の勢力拡大を防いでいたんだな」
「我ながら馬鹿なことをした」
爺が自嘲する。
「私の目的は、あくまでもこの王国の滅亡だ。それなのに戦争難民なんか助けるなんてな。馬鹿馬鹿しい」
「確かに爺には似合わないな」
「これは全部お前のせいだぞ、レッド。お前が救世主とか言われているからこうなったんだ」
「へっ」
俺と爺は一緒に笑った。
「東部地域で活動しながら、異端の情報網を通じてお前の動向を調べた。それで知ったのさ。ルケリア王国の暗殺集団……『青髪の幽霊』がウェンデル公爵やお前を襲撃したことを」
「青髪の幽霊を知っていたのか、爺?」
「私は腐っても情報屋だからな。連中の悪名なら何度も聞いたのさ」
爺が腕を組んだ。
「青髪の幽霊は『夜の狩人』と同格の暗殺集団であり、奥の手として人体に致命的な猛毒を使う連中だ。流石のお前でも、青髪の幽霊に狙われると命が危ないだろう。だから備える必要があると判断した」
爺がアイリンの方を見つめる。
「私がルケリア王国の毒物と解毒剤製造に関する資料を入手して、アイリンがそれを必死に研究した。それでアイリンはあらゆる毒物の解毒剤を作れるようになったのさ」
「なるほど……だからやつらの猛毒をすぐ解毒できたのか」
「お前の身体の頑丈さが規格外だったせいもあるけどな」
爺とアイリンが笑った。
「お前がコスウォルトで決戦に入った頃、私とアイリンは青髪の幽霊を追跡していた。お前の暗殺を阻止するためにな。でも昨日、私たちが現場に到着した時には……お前はもう倒れていた」
「でも俺は助かった。爺とアイリンのおかげだ」
俺は爺とアイリンの顔を見つめた。この二人は……見えないところでずっと俺を守ってくれたのだ。
「ありがとう……爺、アイリン。俺はまた二人に助けてもらった。本当に……ありがとう」
アイリンの瞳にまた涙が浮かび、爺の顔にまた微かな笑みが浮かぶ。
「……それにしても」
少し間を置いてから、爺がまた口を開く。
「お前も本当にまだまだだな、レッド」
「何?」
「敵の暗殺者が狙っているのを知っていながら飛び込むなんてな」
爺が嘲笑う。
「少し強くなったからって油断したんだろう? もう忘れたのか? 『一番大事な教訓』を」
「これは痛いな」
俺は苦笑いした。
「勝機が見えたからこそ動いたけど……確かに俺も油断していたかもしれない。そのせいでアルデイラ公爵を取り逃してしまった」
「そのことは心配するな」
爺が首を横に振った。
「コスウォルトの周辺の地形や情勢なら把握済みだ。アルデイラ公爵はもう一人だし、追跡するのは簡単さ」
「爺がそう言ってくれるなら、安心だな」
俺は頷いてから、上半身を起こした。
「俺も少し動けるようになったみたいだ。早く本隊に戻るべきだが……」
「無理しないで、レッド」
アイリンが心配そうな顔で言った。
「今日は……ここで休んでいって」
「アイリンの言う通りだ」
爺が無表情で言った。
「お前の部下たちにはもう連絡をした。お前らの主は無事だと」
「そうか」
「この捨てられた家はコスウォルトから近い。せめて今日くらいはゆっくり休んでいけ」
「……ああ、分かった」
少し動けるようになったが、まだ本調子になるには時間がかかるだろう。ここは二人の言う通りにした方が良さそうだ。
「レッド、お爺さん」
アイリンが革水筒の水を2つのコップに注ぎ、俺と爺に渡してくれた。俺と爺は一緒に水を飲んだ。こうしていると……本当に昔に戻ったみたいだ。
それから俺たちはずっと話し合った。戦乱や争いとは関係ない、他愛ない話をした。そして一緒に素朴なご飯を食べた。小川の近くの、みすぼらしい小屋で3人で住んでいた頃とまったく同じだ。
あの頃の俺は、一刻も早く地平線の向こうまで進みたかった。一日でも早く王国の頂点になりたかった。しかし王国の頂点になった今は、アイリンと爺とのんびりしているこの瞬間が……不思議なほど気楽だ。不思議なほど大事だ。
そう、公爵になろうが王になろうが……俺に大事なのは変わらない。家族や仲間たちと一緒に過ごす日々こそが、俺にはかけがえのないものだ。その事実をまた思い知らされる一日だった。




