第497話.大義と欲望
2月17日、寒波が少しずつ治まる中……俺とエデュアルドはライモラ山脈から下山した。やっと高地帯から普通の地面に帰ってきたのだ。
「ふう」
山脈の真下の平地に足を踏み入れて、俺は安堵のため息をついた。周りの環境が普通に戻り、俺の感覚も正常に戻った。
「自分の案内はここまでです」
隣からエデュアルドが言った。
「では、公爵様。どうか……」
「止めは刺さない」
俺は彼の言葉を遮った。
「あんたにはちゃんと裁判を受けてもらう。あんたが死ぬのはその後だ」
「……かしこまりました」
エデュアルドは素直に頷いた。もう彼は全てを……自分の命も名誉も諦めている。
俺とエデュアルドは山々の間を通る道路を歩いて、北へと向かった。北にはレイモンが部隊を率いて道路を封鎖しているはずだ。
この領地にはアルデイラ公爵の協力者がいる。まだ正体は分からないが、そいつはエデュアルドに指示して俺を暗殺しようとした。その協力者がまた何かを仕出かす前に……一刻も早くレイモンと合流するべきだ。
「それにしても……素晴らしい風景だな」
道を歩く途中、俺は微かに笑った。四方に雲を纏った山々があり、道路の隣には広い湖がある。透明過ぎる湖だ。美しい。
俺たちは湖の近くで焚き火を作った。そして湖の水を沸かして食水を確保した。この作業だけで午前が終わり、正午になった。
「さて、腹ごしらえするか」
地面に座って焚き火で体を温めながら、俺は携帯食料を食べた。エデュアルドも隣で少しだけ携帯食料を食べる。
「こんな風景を見ていると……」
湖の方を眺めて、俺は口を開いた。
「人間たちの争いなんか小さく感じるんだよな。なあ、エデュアルド?」
エデュアルドはしばらく無表情で湖を見つめてから、重々しく口を開く。
「……公爵様のことを救世主と呼んでいる人は多いです」
「そうか」
「本当に……本当にこの王国をお救いになるつもりですか?」
「まあな」
俺は肩をすくめた。
「俺は新しい王国を作るつもりだ。そのためにはまずこの王国を守る必要がある。それだけだ」
その答えを聞いて、エデュアルドはしばらく考えに耽る。
「しかし……もうすぐルケリア王国が来ます」
エデュアルドが俺の方に視線を向ける。
「ルケリア王国の現国王、『黒竜』の率いる大軍は大陸最強だと言われています。大陸最強を相手に……果たして公爵様が勝てるのでしょうか?」
「なるほど、それがあんたらの大義名分か」
俺は苦笑いした。
「『いくらレッドが強くても、ルケリア王国軍には対抗出来ない。だから今の内にレッドを排除して、ルケリア王国に降るべきだ。それがこの領地を守る唯一の方法だ』……そう唆されたんだろう? アルデイラ公爵とその協力者に」
エデュアルドの顔が強張る。
「ま、普通と言えば普通のことさ」
俺は席から立ち上がり、広い湖の景色を正面から鑑賞した。正午の日差しを反射して、湖は眩しく輝いている。
「王都の貴族たちも、今は俺が怖くて素直に従っている。だがもし俺がルケリア王国に負けたら、多くの貴族は我先にと黒竜の下につくはずだ」
俺は笑った。
「確かにルケリア王国軍は強いらしい。黒竜は今まで様々な戦争に参加して、全部勝利したみたいだからな。しかもやつの兵力は俺より数倍多い」
「やっぱり……公爵様でも勝算は低いわけですね」
「まあな」
俺は腕を組んだ。
「客観的な勝算を見れば、確かに俺の方が不利だ。だが……たとえ黒竜に負けたとしても、俺は諦めるつもりは毛頭無い」
「……と、仰いますと?」
「何度でも立ち上がってみせるさ。それが俺の師匠の教えだ」
俺はニヤリとした。
「負けた時は、何が間違っていたのか、どうすればそれを補えるかを冷静に分析する。そして分析から得た知識を次の戦いで活用する。そうやって俺は諦めずに進み続ける」
「進み続ける……」
「ああ、俺はそれが楽しいんだ」
俺は今までの戦いを思い返した。
「貧民から組織のボスに、組織のボスから都市の支配者に、そして伯爵に、公爵に……ずっと進み続ける。その過程が俺には楽しすぎる」
「王になられても……進み続けるつもりですか?」
「もちろんだ」
俺は笑顔で頷いた。
「そもそも俺は権力者になりたくて戦っているわけではない。強くなるために進んでいたら、いつの間にか自然に権力者になっていた……そんなところだ」
「……ふふふ」
エデュアルドが笑った。そしてその直後、どこか悲しい顔をする。
「もし自分が……もう少し早く公爵様に会っていたら……」
「戦友になったかもしれないな、あんたと俺は」
「はい」
エデュアルドは項垂れて、地面を見つめる。巨体の猟師が……今はまるで子供みたいに小さく見える。
「自分は……この手で弟子を殺してしまいました。ルイを……」
「そうか」
「もう後戻りは出来ません。だから……」
その時、俺とエデュアルドは同時に目を見開いた。微かだけど……北の方から音が聞こえてきたのだ。成人男性の雄たけび、そして鋭い金属音……これは戦いの音だ!
「ちっ!」
俺は素早く鞄を拾って、北に向かって走り出した。エデュアルドも俺の後ろを走る。
北に進めば進むほど、音が大きくなっていく。かなり激しい戦闘が繰り広げられているに違いない。そして湖沿いの道を抜けた瞬間、戦場が見えてきた。
「怯むな! 赤竜の旗にかけて戦うんだ!」
山と山の間の、狭い平地……そこでレイモンの率いる騎兵隊が戦っている。数倍の敵軍に囲まれて奮戦している。
「はあっ!」
不利な状況なのに、レイモンはまるで鬼神のように活躍している。彼の槍が生きているかのように動き、敵兵士の頭や首に穴を開ける。俺すら感嘆してしまう武勇だ。
「今だ、突撃を仕掛けろ!」
しかもレイモンの活躍は武勇だけではない。騎兵隊の一部を下馬させて敵の進路を防ぐように指示し、その隙に敵の側面に突撃を仕掛ける。ちゃんと戦術的な動きだ。
敵軍はちゃんと訓練されている上に数も多い。しかしレイモンの奮戦と戦術に圧倒されて、前進どころか後ろに下がりつつある。
「へっ」
遠いところから戦場の状況を確認して、俺は安堵した。やっぱりレイモンを連れてきて正解だった。
「……た、退却! 退却だ!」
敵の指揮官らしい人物がそう叫んだ。それで敵軍は負傷者を収拾し、西へと退却を開始する。レイモンは深追いせずに部隊を再整備する。
「レイモン!」
戦闘が終わってから、俺はやっと戦場についた。厳しい山行の直後に全力で走ったせいで、流石に俺も疲れてしまった。
「ボス!」
レイモンが急いで俺に近づく。
「ご無事ですか、ボス!?」
「ああ……見ての通りだ」
俺は勇猛な騎士団長に向かって頷いた。
「それより……よくやってくれた、レイモン。数倍の敵を正面から退けるなんて。素晴らしい活躍だ」
「ありがとうございます。しかし、この事態は……」
レイモンが深刻な顔をする。
「作戦通りに道路を封鎖していたら、いきなり襲撃されました。しかも敵は……ドレンス男爵軍のようです」
「ああ、そうだな」
俺とレイモンは倒れている敵軍の遺体を見つめた。服装と装備からして、やつらはドレンス男爵の正規軍に違いない。
「まさかドレンス男爵に裏切られたんでしょうか?」
「いや、たぶん……この領地で内紛が起きたんだろう」
「内紛、ですか?」
「ああ」
俺はエデュアルドの方を見つめた。エデュアルドは強張った顔で地面を見つめていた。
「ドレンス男爵の側近の中に、アルデイラ公爵の協力者がいる。そいつが俺の命を狙っているんだ」
俺はライモラ山脈でエデュアルドから襲撃されたことを説明した。
「さっき敵軍を指揮していたやつこそが、アルデイラ公爵の協力者である可能性が高い。ま、それはともかく……早くここから離れるべきだ」
「自分もそう思います。南に進んで、一刻早くこの領地から離脱するべきです」
「いや、南じゃなくて北だ」
「はい?」
レイモンが目を丸くする。
「北へ、ですか?」
「ああ。俺の予想が正しければ、ドレンス男爵も危険な目に遭うはずだ。可能なら彼を救出する」
「……いつもながら、ボスの行動は予想を越えていますね」
レイモンが笑顔を見せる。
「かしこまりました。では、部隊を北へと前進させます」
「ああ」
「あの猟師の人はどうしますか?」
レイモンがエデュアルドの方を指さした。
「捕縛しておけ。この事件の重要な証人だ」
「はい」
レイモンが騎兵隊に指示して、エデュアルドを捕縛させた。エデュアルドは大人しく縄に縛られて、俺たちと同行することになった。
「ケール」
俺が呼ぶと、巨大な黒色の軍馬が嬉しい顔で近寄ってくる。俺は愛馬に乗ってそのまま北へ向かった。レイモンと百の騎兵隊も俺の後ろを追って進軍を開始した。




