第496話.焦らずに進む
両者はしばらく動かなかった。高地帯特有の冷たい強風が吹き荒ぶ中……俺もエデュアルドも
エデュアルドは両手に1つずつ斧を持ち、俺は軍用の長剣を構えている。両者の武器の刃が日差しを反射し、鋭い光を放つ。
「……罠は狩りの基本です」
エデュアルドが無表情で言った。
「罠を使って獲物の力を奪い、機を見て一気に殺す。自分はそうやってどんな野獣をも狩ってきました」
「そうか」
「しかしこんなことは本当に初めてです。罠に気づかなかったわけでもなく、知っている上で自ら罠に飛び込む獲物なんて」
「へっ」
「どうしてですか? どうして貴方は自ら罠に飛び込んだのですか?」
エデュアルドの目つきが鋭くなった。俺はニヤリとしてから口を開いた。
「俺はミラに約束したんだ。ルイの死の真相を調査すると。だからことを急ぐ必要があったのさ。時間が経てばルイの遺体が完全に腐敗して、真相が分からなくなる可能性があったからな」
「……とんでもない話ですね」
エデュアルドが微かに笑う。
「公爵ともあろう者が、たった1人の平民との約束を守るために……危険を冒すなんて」
「相手が貴族だろうが平民だろうが、俺には関係無い。気に入ったら守る、気に入らなかったらぶっ潰す。ただそれだけだ」
「ふふふ」
エデュアルドは笑った。
「貴方のような人が……本当に存在しているとは」
「……そういうあんたも、結構不思議じゃないか」
俺も微かに笑った。
「ここまで来る途中、俺を攻撃する機会はいくらでもあったはずだ。しかしあんたはちゃんと俺をルイの墓まで案内してくれた。どうしてだ?」
エデュアルドは強張った顔になり、何も言わない。
「罪の意識か? 自分の弟子を殺したことに対する」
「……そんなものは、とっくに捨てています」
エデュアルドが斧を構えたまま、1歩前に出る。
「自分はしがない猟師です。目の前の獲物を狩ることしか分かりません」
「へっ」
再び沈黙が訪れ、俺とエデュアルドの気迫はどんどん強くなっていった。近くの上空で餌を探していた鳥が、危険を感知して飛び去った。
「……うおおおお!」
先に動いたのは、屈強な体の猟師だ。エデュアルドが雄叫びを上げながら突進してきて、俺を攻撃する。2つの斧が疾風の如く動いて、俺の足と肩を同時に狙う。
「はっ!」
俺は後ろへ飛び下がって斧の攻撃を回避し、すかさず長剣で反撃した。完璧な間合いの反撃……しかしエデュアルドは俺の反撃を斧で簡単に弾く。
「おおおおっ!」
そのまま俺の懐まで飛び入り、エデュアルドは2つの斧を振るい続けた。俺も長剣で対応して、近接距離での攻防が始まる。
数回の攻防で、俺は守勢に回った。エデュアルドの斧がどんどん速くなって、反撃する機会が見えない。そしてそんな俺の隙を狙い、エデュアルドは2つの斧を大きく振り下ろす。俺の両腕を奪うつもりだ。
「ちっ!」
俺は急いで長剣で防御した。それで力比べが始まる。両者は全身の筋肉を使って相手を押し潰そうとする。
「はっ!」
突然エデュアルドが俺の腹部に蹴りを入れる。俺はその蹴りに対応できず、腹部を強打され……数歩も後ろに下がってしまった。
「これは……」
鈍重な衝撃と驚きが全身に広がった。こんな単純な攻撃に直撃を食らうなんて……初めてだ。
「もうお忘れですか、公爵様?」
エデュアルドが冷たい笑顔で言った。
「ここは地上から遥かに離れた高地帯……凍り付くような気温と薄い空気が支配する空間です。最強と名高い公爵様であっても……ここでは全力の半分も出せません」
「……そうみたいだな」
俺は苦笑いした。確かにこんな感覚は経験したことが無い。まるで……水の中で戦っているような感覚だ。手足が重く、呼吸も困難だ。しかも相手は水の中でも自由に動いている。
「はっ!」
エデュアルドはまた突進してくる。台風が吹き荒ぶように、2つの斧が俺を殺そうとする。俺は長剣で守りを固めたが……劣勢に陥るだけだ。
「くっ……!」
守りに徹しながら、俺はどうにか反撃の糸口を探そうとした。しかし何も見つからない。エデュアルドは有利な状況でも少しも油断しない。ただただ冷徹に俺の命を狙ってくる。
俺は自分の気持ちを落ち着かせた。焦って無理矢理反撃しようとしても、相手の思う壺になるだけだ。今は……耐える。耐えながら……焦らずに1歩ずつ進むんだ!
指先から手首まで、手首から腕まで、腕から肩まで……少しずつ感覚を取り戻す。周りの異質な環境を理解し、自分自身を適応させる。焦らずに少しずつ……!
「はあっ!」
俺が集中している間にも、エデュアルドは容赦なく猛攻を仕掛けてくる。だが……時間が経つに連れて、その猛攻もどんどん遅くなる。いや、相手が遅くなっているわけではない。俺の感覚が正常に戻っているのだ。
「ぐおおおお!」
一瞬の隙を見つけて、俺は反撃を放った。長剣が曲線を描いて屈強な猟師の首筋を狙う。
「……うっ!?」
エデュアルドは急いで後ろへ飛び下がり、俺の反撃を回避する。
「まさか……」
エデュアルドが目を大きく見開く。
「まさかこの短時間で……適応しただと……?」
俺は何も言わなかった。自分の呼吸を制御し、全身の筋肉に血を通させるだけで精一杯だ。
「……はっ!」
エデュアルドが攻撃を再開する。しかし彼の顔には、今までとは違って焦りが出ている。そしてそれは戦闘にも影響を及ぼす。エデュアルドの攻撃動作がさっきより大きくなっている。1秒でも早く俺を倒すために、斧を無理矢理大きく振るっているのだ。
焦るな、焦るな、焦るな。俺は自分自身に言い聞かせ続けた。戦況は相変わらず劣勢だが、落ち着いて対応するんだ。そうすれば必ず訪れる。絶好の勝機が……!
「はあっ!」
エデュアルドが2つの斧を全力で振るい、俺の頭を狙う。強烈な1撃だ。でも……焦りのせいで攻撃の軌道が見え見えだ。俺は無心にその1撃を避けて、流れるように反撃を放った。俺の剣はいとも自然に動いて、屈強な猟師の肩に深い傷を残す。
「くっ……!」
鮮血が流れて、エデュアルドは斧を落としてしまう。そして斧が地面にぶつかるよりも早く、俺の剣がエデュアルドの首筋にそっと当たる。
「ふう……」
俺は呼吸を整えて、無力化された猟師を見つめた。
「俺の勝ちだ、エデュアルド」
「……はい」
エデュアルドが素直に頷いた。
「やはり公爵様のような人……いいえ、存在は見たことがありません」
「そうか」
「はい。竜に負けて命を落とすなんて、猟師として最高の終わりです。では……止めを」
全てを諦めた顔で、エデュアルドは俺を見つめる。
「止めを刺す前に、聞きたいことがある」
「……何でしょうか?」
「あんたに俺を襲撃するように指示した人物がいるはずだ。そいつの……アルデイラ公爵の協力者の正体を教えろ」
「出来ません」
エデュアルドが首を横に振った。
「それだけは……自分が死んでも教えることが出来ません」
「そうか」
俺は苦笑いした。
「分かった。じゃ、自分の傷を治療しろ」
「はい……?」
「聞こえなかったか? 自分の傷を治療して、下山する道を案内せよ」
「それは……」
「あんたは道案内人なんだろう?」
俺は笑顔で言った。エデュアルドは無表情で俺を凝視した。
「……かしこまりました、公爵様」
やがてエデュアルドが頭を下げる。
「それが公爵様のご要望でしたら……自分がしっかりとご案内致します」
「ああ」
俺は頷き、剣を鞘に納めた。




