第495話.死の真相
翌日も厳しい山行が続いた。
朝から洞窟を出て山道を歩いた。いや、もうこれは道とも呼べない。俺とエデュアルドは道の無い傾斜面を歩いて、ひたすら山を登り続けた。
「……凄いな」
ふと山の下へ視線を向けた時、俺は感心してしまった。地平線の向こうまで広がる、雄大な雲海の姿が目に入った。ここはもう雲よりも遥かに上だ。頑丈な城も、人の住む町も……ここからだとまるで蟻のように小さく見える。
「お気をつけてください、公爵様」
エデュアルドが足を止めてそう言った。
「この高さだと、空気が薄くなって呼吸が厳しいです。いくら鍛錬された人でも、いきなり走ったりすれば……命まで危険になります」
「そうみたいだな」
俺は頷いた。エデュアルドの言葉通り、山を登れば登るほどどんどん呼吸が難しくなっていく。確かにこれは……いくら鍛錬された人間でも厳しい。
「ライモラ山脈の狼は、こんな高い地点に巣を作っていたのか?」
「やつらは高い山に巣を作る習性があります。でもこの高さは……自分も初めてです。故に駆逐が非常に困難でした」
「なるほど……正規軍でもこれは厳しいだろう」
先日、俺はドレンス男爵領が狼に苦戦しているとの報告を受けた。あの時は『どうしてそうなるんだ?』と疑問に思った。でも今なら理解出来る。この山脈の狼を駆逐するためには、高地帯に慣れている専門家が必要だ。
「ここから先は無理せずに、ゆっくりと進みます」
「ああ、分かった」
俺とエデュアルドは慎重に山を登っていった。朝の太陽がそんな俺たちを照らしてくれた。登れば登るほど気温が下がるけど、日差しだけは相変わらず暖かい。
3時間くらい後、俺たちは途中の平らな岩に座って休憩に入った。もうとんでもないほど高いところまで来たのに、まだ山の頂上は遠い。
「狼の巣と、ルイの墓はもうすぐです。公爵様」
「そうか。楽しい山行もそろそろ終わりだな」
俺はニヤリと笑った。
「せっかくだし、頂上まで登ってみたかったのに……残念だ」
「ふふふ……」
エデュアルドも笑ってから、山の頂上の方を指さす。
「あの峰は『氷竜の首』呼ばれております」
「氷竜の首、か」
「はい」
エデュアルドが頷いて説明を続ける。
「人がこの地に住み始めて、もう千年近く時間が経ちましたが……あの峰の雪が解けたことを見た者は誰一人いません。そして頂上の奥には小さな洞窟があり、中からずっと冷たい風が吹いてきます。それで実はあの峰は氷竜の首であり、ずっと冷たい吐息を吐いているんだという……伝承があります」
「なるほどね」
俺は真っ白な峰を見上げた。どこか神聖な雰囲気が漂っている。不思議な伝承が生まれるのも納得がいく。
俺もエデュアルドも、しばらく無言で周りの風景を眺めた。人間たちの争いとは関係無く、太古から存在している大自然を脳裏に刻み込んだ。
「……公爵様。例の匿名の手紙なんですが」
エデュアルドの声が、俺を大自然から人間たちの争いに引き戻した。
「どうした、エデュアルド?」
「あの手紙……ルイの妻であるミラも知っているのですか?」
エデュアルドは真面目な顔で聞いてきた。俺は少し間を置いてから答えた。
「……ま、もうあんたには話してもいいだろう。実はあの手紙を俺に渡してくれたのは彼女だ」
俺は2日前のことを簡単に説明した。
「ミラは苦しみながらも、夫の死の真相を知りたくて俺の部屋を訪ねたんだ。俺は彼女にルイの死を調査すると言った」
「なるほど、そうだったのですね」
エデュアルドが深く頷いた。
「公爵様がルイの遺体を調査しようとしていらっしゃるのは、ミラのためでもあったのですね」
「まあな」
俺は肩をすくめると、エデュアルドが俺の顔を注視する。
「もしかして、公爵様は……例の手紙の差出人についてお心当たりがあるのではありませんか?」
その質問を聞いて、俺はしばらく答えなかった。俺とエデュアルドは沈黙の中で互いを見つめた。
「……心当たりはある。まだ推測の域だけどな」
俺は無表情で答えた。
「昨日言った通り、手紙の差出人は俺の行動を予想していた。これはかなり珍しいことだ」
「珍しいこと……」
「そうさ。公爵ともあろう者が、直接騎兵隊を率いてドレンス男爵領まで来るなんて……普通はあり得ないことだからな」
「確かに」
エデュアルドが頷いた。
「自分も公爵様のご訪問に驚きました。普通なら部下の誰かに任せるはずなのに……」
「俺は直接動くのが好きだからな」
ニヤリと笑ってから、俺は話を続けた。
「俺のこういう性格を詳しく知っているのは、俺の側近以外にはほとんどいない。いるとすれば、俺を倒すためにずっと以前から俺を観察してきた人間くらいだ」
「つまり、敵なんですね」
「敵を知って、己を知る……それが戦略の基本だからな」
愛読書の文章を引用し、俺はもう1度笑った。
「俺の敵の中で……俺のことをよく知っていて、裏でこっそり何かを企むやつは1人しかいない。アルデイラ公爵だ」
エデュアルドが少し驚いた顔をする。
「ですが、アルデイラ公爵は現在逃亡中ではありませんか?」
「その前提が間違っている可能性が高いのさ」
俺は腕を組んだ。
「俺も戦場でアルデイラ公爵と何度かぶつかったが、やつは用意周到な人間だ。特に自分の逃げ道に関しては徹底している。たとえ部下が全部死んでも……最後まで生き残る種類の指導者さ」
2年前のカルテア要塞攻防戦で、俺に敗れたアルデイラ公爵は部下たちを捨てて逃走した。それで俺はやつの人物像がはっきりと分かった。
「つまりずっと以前から……やつは自分の逃げ道を用意していたはずだ。たとえ本城を奪われても生き残れるようにな」
「その逃げ道とは、一体……?」
「協力者だ」
俺は自分の顎に手を当てた。
「貴族たちは、互いがあらゆる人脈で繋がっている。貴族の頂点である公爵なら尚更だ。王国内のあちこちに協力者がいる。新しく公爵になった俺でさえ、毎日のように地方の貴族から親書を受けているのさ」
ちなみに縁談も山ほど来ている。もちろん全部断ったけど。
「例の手紙を受けて、俺は思ったんだ。アルデイラ公爵は協力者の力を借りて、もうこのドレンス男爵領のどこかに隠れているんだと」
「協力者……」
エデュアルドの顔が強張る。
「一体誰ですか? その協力者とは」
「最初は領主のドレンス男爵を疑ったが、どうやら彼は白のようだ。たぶん男爵の側近の中の誰かなんだろうけど、まだ調査出来ていない」
俺は肩をすくめて見せた。
「とにかく……手紙の差出人がアルデイラ公爵だと仮定すれば、そんな手紙を送ってきた理由も大体予想出来る」
「その理由とは何ですか?
「俺を……狩るためさ」
俺は微かに笑った。
「夫のルイが死んで、悲しんでいるミラを通じて俺に手紙を渡す。俺の性格上、ルイの死の真相を直接調べるだろう。つまりあの手紙は……俺にこの巨大過ぎる山を登らせるための策さ」
俺とエデュアルドの視線がぶつかった。
「山で俺を待っているのは、体力を奪っていく低い気温と薄い空気……そして巨体の猟師だ。高地帯に慣れていて、どんな野獣をも狩れる凄腕の猟師だな」
再び沈黙が流れた。俺もエデュアルドも、何も言わずに互いを見つめ続けた。
「……もしそれが本当ならば」
エデュアルドが無表情のまま口を開いた。
「もしそれが本当ならば、公爵様はどうなさるおつもりですか?」
「まずはルイの死の真相を調べるのが先決だ。ミラのためにもな」
俺も無表情のまま答えた。
「かしこまりました。自分が……ルイの墓までちゃんとご案内致します」
「ああ」
俺とエデュアルドは同時に席から立ち、同時に歩き出した。重い沈黙の中、俺たちは東に向かった。そして30分くらい経った時、大きな洞窟の前に辿り着いた。
「この洞窟が狼の巣でした。20匹くらいいました」
エデュアルドはそう説明してから、洞窟の隣を指さす。そこには地面を掘った痕跡が残っている。
「そしてあれが……ルイの墓です」
「そうか」
俺は頷いた。
「じゃ、これからルイの遺体を確認したいんだ。協力してくれるか?」
「はい」
俺とエデュアルドは各々の鞄から小さなスコップを取り出して、一緒に墓を掘り返した。墓が浅くて、すぐ遺体を発見出来た。低い気温のせいで遺体はまだ完全に腐敗せず、形を維持している。若い男の遺体だ。しかし……。
「これは酷いな」
俺は思わず呟いた。ルイの遺体は……言葉通り八つ裂きになっている。多数の狼に嚙み千切られたに違いない。
「……ご覧の通りです」
傍からエデュアルドが言った。
「ルイを殺したのは、ライモラ山脈の狼です」
「さて……それはどうかな」
俺はルイの遺体をなるべく精密に調査した。そして数分後……。
「ほら、ここをよく見ろ」
俺はルイの遺体の頭部を指さした。
「ルイの後頭部に大きな傷が残っている。これは狼の仕業じゃない。しかも出血量からして、生前に負った傷だ」
エデュアルドが遺体を注視する。
「たぶん誰かに後頭部を叩かれて、気を失ったんだろう。そして気を失ったまま狼の巣の近くに放置され……死んだのさ」
俺は腕を組んで説明を続けた。
「あんたの言った通り、ルイを殺したのは狼だ。でもルイの死の根本的な原因は、誰かによる襲撃だ」
「……そうみたいですね」
「もしかしたらルイは……信頼していた誰かに裏切られたのかもしれない」
そう言いながら、俺はエデュアルドの方を振り返った。エデュアルドは強張った顔をしていた。
「公爵様は……」
エデュアルドが俺を凝視する。
「本当に不思議なお方ですね」
「よく言われるよ」
「ふふふ……」
エデュアルドが冷たく笑う。
「自分が今まで見てきたどんな動物とも違います。まるで……別の世界から現れた存在のようです」
「別の世界、か」
「はい、本当に竜なのかもしれません。公爵様は」
エデュアルドはゆっくりと手を動かして、自分の鞄から何かを取り出した。それは2つの斧だった。
「流石に竜を狩るのは初めてですが……やってみるとしましょう」
「へっ」
俺も自分の腰から剣を抜いた。静かな大自然の風景が、一気に殺気に包まれた。




