第492話.緊張感の正体
2月14日……俺は客室で朝食を済ませてから、テーブルの上に地図を広げた。この地図はドレンス男爵から提供されたもので、ライモラ山脈の地形が比較的詳細に描かれている。
「3つか……」
ライモラ山脈からこのドレンス男爵領まで続く道路は、総計3つだ。理論的には、この3つの道路を全て封鎖すれば……アルデイラ公爵は山脈の中に孤立する。道路を進むんじゃなくて、山脈を正面から越えるという選択肢もあるが……自殺行為だ。ライモラ山脈は熟練の猟師でも遭難する恐れのある『天険の要塞』だ。俺ですらあの山脈に挑戦するためにはいろいろ準備が必要だ。
アルデイラ公爵は外見からして学者風で、身体の鍛錬とは無縁の人間だった。そんなやつが山脈を正面から越えるのは無理だ。たとえ『青髪の幽霊』の助力があっても、本人が過度な疲労で倒れるだろう。
つまり……予定通りに行けば、アルデイラ公爵を捕獲する可能性は十分ある。だが……これはあくまでも机の上の理論に過ぎない。アルデイラ公爵は決して馬鹿ではないし、別の逃げ道を用意しているはずだ。例えば……。
「ボス」
その時、長身の男が客室に入ってきた。俺の兄貴みたいな存在であり信頼出来る戦士のレイモンだ。
「ドレンス男爵の協力を受けて、ライモラ山脈へ進軍する準備を終えました」
レイモンの報告に俺は「そうか」と頷いた。
「携帯食料は?」
「十分です。1週間くらいなら山の中でも問題ありません。もし作戦が長引きすれば、城の方から補給物資を届ける用意も出来ています」
「よろしい」
俺は満足げに頷いた。道路があるとはいえ、険しい山脈の中での作戦だ。しっかり準備しておかないと。
「ドレンス男爵が協調的で助かりましたね」
「そうだな。急に訪ねてきて『作戦に協力してくれ』と言ったのに、あの男爵は素直に力を貸してくれた。ありがたいことだ」
「これもボスの人望ってことですかね?」
レイモンが笑顔で言った。俺は「いや」と苦笑した。
「見たところ、ドレンス男爵は派手ではないがかなり堅実な人物のようだ。アルデイラ公爵を取り逃した場合の危険性を理解しているんだろう。それに……俺の現在位置を考えて、協力しておいた方が得だと判断したはずだ」
「確かにそれはそうですね」
レイモンは笑顔のまま頷く。
「ボスはこの王国の頂点に最も近いお方ですから。恩を売っておいて損は無いと思うのも自然です」
「まあな」
俺はまた苦笑した。俺が3公爵を圧倒し、王都の支配者になってから……貴族たちの態度が一気に優しくなった。過酷な貴族社会の政争で生き残るために、みんな変わり身の速さを学習しているのだ。
「……ところで、レイモン」
「はい」
「この城で何か変な緊張感を感じなかったか?」
俺の質問にレイモンは首を傾げる。
「変な緊張感、ですか?」
「ああ。実は昨日、城の廊下で何となくそんな気がしたんだ。まるで……決戦を前にしたような緊張感が漂っていると」
「さあ……」
レイモンが腕を組んだ。
「この城の兵士はよく訓練されているな、とは思いましたが……そういう緊張感は感じませんでした」
「そうか。じゃ、俺の気のせいだったかもしれないな」
俺は頷いた。
しばらく他愛のない話をしてから、俺はレイモンに休憩を指示した。作戦の開始は午後からだし、少しでも休んでおいた方がいいだろう。レイモンは頭を下げてから客室を出た。
また1人になった俺は、ベッドに座って軍事学の理論書を読んだ。別に勉強のためではない。俺にはこれが休憩だ。
「ん?」
いきなり誰かが扉をノックしてきた。俺は声を上げて「誰だ?」と聞いた。
「あの……城のメイドです」
扉の向こうから若い女性の声が聞こえてきた。俺は首を傾げた。
「昼食の時間はまだだし、俺は何も頼んでいない」
「あの……それが……」
様子が変だ。何かが起きているのかもしれない。直感的にそう思い、俺は席から立って扉を開けた。すると若いメイドの姿が見えた。
かなりの美人だ。素朴な仕事用のドレスを着ているが、彼女の美貌は隠せない。しかし俺が驚いたのは美貌のせいではない。雰囲気のせいだ。
若いメイドの顔には、深い悲しさと……それを越える覚悟が宿っていた。まるで……決戦を目の前にしている兵士みたいだ。
「……あんたは誰だ?」
「城のメイドを務めております『ミラ』と申します、ロウェイン公爵様」
若いメイド、ミラが深々と頭を下げる。
「あの……」
ミラは強張った顔で戸惑った。それを見て俺は理解した。俺が感じた『不思議な緊張感』は……この女性から漂っていたのだ。
たぶん一般の人には対処出来ない、大変なことに巻き込まれたんだろう。俺は客室の周りに誰も隠れていないのを確認し、口を開いた。
「何かあったみたいだな。入ってくれ」
「あ、ありがとうございます……」
ミラは何度も頭を下げてから、客室に入ってきた。
俺はテーブルの上の水差しを取り、コップに水を注いだ。そしてコップをミラに渡した。
「一旦落ち着いて、何があったのか話してみろ」
「こ、公爵様……」
ミラは驚きながらもコップを受け取り、水を一口飲んだ。俺はテーブルに座って、彼女が落ち着くまで待った。
「ありがとうございます、公爵様。私のような者にまでお気を遣ってくださって……」
「だから何があったんだ?」
「それが……」
ミラは覚悟を強め、息を整えてから話を始める。
「実は……私には夫がいました。『ルイ』という名前の……猟師でした」
「夫に何か起きたのか?」
ミラの顔が悲しみに歪む。
「ご存じかもしれませんが……この領地は昔から狼によって被害を受けてきました。それで先週……領主様が狼の駆逐に参加する人員を集めました。夫は猟師として参加しましたが……山の奥で狼に襲われて……命を……」
ミラが涙を流した。この女性は、つい先週夫が死んだのだ。しかも結婚してそう時間も経っていないんだろう。正気を保つのが精一杯のはずだ。
「聞いた話では、夫の遺体は損傷が酷くて……現場で埋蔵するしかなかったようです。だから私は……夫の遺体も確認出来ませんでした……」
「悲しいことだな……」
「ありがとうございます、公爵様」
ミラはまた涙を流してから、俺を見つめる。
「メイド長に頼んで、仕事を休んでいましたが……3日前、手紙をもらいました」
「手紙?」
「はい」
ミラが懐から1通の手紙を取り出し、震える手で俺に渡した。
俺は手紙を開けて読んでみた。そこには『お前の夫を殺したのは狼ではない。真犯人を知りたいなら、ロウェイン公爵に助けを求めろ。公爵はもうすぐこの城に来る』と書かれていた。
「これは……」
俺は少し驚いた。この手紙は……。
「私は半信半疑しましたが、その……本当に公爵様がこの城にご訪問なさって……」
「……それで俺に助けを求めようと決心したんだな」
「はい」
ミラが涙に濡れた瞳で頷いた。
「私の夫は……本当に狼に殺されたのかもしれません。ですが、もし他に犯人がいるのなら……私は……」
「なるほど」
俺は頷いた。ミラは夫のことを深く愛していたんだろう。しかしその夫が急に死んで、遺体すら確認出来なかった。その真相を知るために……覚悟を決めて訪ねてきたのだ。『赤い肌の救世主』を。
「大体のことは分かった。あんた、例の狼駆逐作戦について何か知っているか?」
「詳細は分かりませんが、領主様の指示で山脈に詳しい人を30人くらい集めて……狼の巣を探させたとお聞きしました」
そう答えてから、ミラは心配そうな顔で俺を眺める。
「公爵様……」
「心配するな」
俺は席から立ち上がった。
「もし本当にあんたの夫を殺した真犯人がいるのなら、俺が必ず探し出す。俺が連絡するまで、あんたは自分の部屋でしっかりしていてくれ」
「……ありがとうございます……! 本当に……ありがとうございます……!」
ミラは泣きながら何度も頭を下げた。
やがてミラが客室から出ると、俺は彼女からもらった手紙をもう1度読んでみた。俺の知らないところで……何かが起きているに違いない。




