第490話.山脈に向かって
2月になってから、寒波が少し弱まった。でも寒いことに変わりはない。軍馬に乗って走っていると、凍り付くような向かい風が全身に当たる。寒さに強い俺でさえ軽く身震いをしてしまう。
俺はふと後ろを振り向いた。仲間たちと騎兵隊も向かい風に当たりながら走っている。だが彼らの気迫は少しも衰えていない。流石最精鋭の戦士たちだ。
気温は低いが、道路がちゃんと整備されていて進軍に問題はない。オフィーリアの率いるウェンデル公爵軍のおかげだ。俺たちは北へと走り続けた。凍り付いた広大な大地に、数百の軍馬の足音が鳴り響く。
やがて日が沈み、俺たちは森の近くに野営地を構築した。素早く焚き火を作り、天幕を張って、携帯食料を食べる。熟練の兵士には慣れていることだ。
夜の空気は更に冷たくて、流石の戦士たちも天幕の中に閉じ籠ってしまう。見張りの兵士以外は誰も動こうとしない。俺も1人で天幕の中に座り、ランタンの光に頼って本を読んだ。
俺が読んでいるのは軍事学の理論書だ。古代の軍事学者が書いたもので、戦争や戦闘の基本的な仕組みがまとめられている。軍事学の原点にして頂点と呼ばれている本だ。
実は、俺はこの本の内容なら一言一句漏れなく覚えている。13歳の頃から、俺が1番多く読んだ本がこれだ。でも……読み返す度に新しい知恵を得る。不思議なことだ。
『書かれている文字を覚えるだけじゃ足りない。その中に隠されている意味を把握しろ、レッド』……鼠の爺から何度もそう言われた。その教えに導かれて、俺は今も少しずつ前に進んでいる。
「……ん?」
天幕の外から人の気配がした。しかも見張りの兵士ではない。誰かが1人でこっそり天幕を出て、どこかに歩いている。
「誰だ、この時間に?」
好奇心に惹かれて、俺も天幕を出た。そしてその誰かを追って暗闇の中を歩いた。
「カールトン?」
それはいつも無口で目立たないカールトンだった。カールトンは冬の夜の月を見上げていた。
「どうした、こんな時間に?」
「ボス」
カールトンが俺を見て頭を下げる。
「また不思議な夢でも見たのか、カールトン?」
俺が笑顔で聞くと、カールトンは「いいえ」と答えた。
「その逆です」
「逆?」
「はい、夢の中で何も見えません」
「それは残念だな」
俺は笑った。
「お前の予知夢があれば、戦いやすくなるかもしれないのに」
冗談めいた口調で言ったが……カールトンがたまに不思議な夢を見るのは、赤竜騎士団の仲間たちはみんな知っている。天気などを当てることもあるそうだ。
「たぶん……運命の流れに大変なことが起きていると思います」
カールトンが真面目な顔でそう言った。俺は首を傾げた。
「それはどういう意味だ?」
「詳しいことは自分も分かりませんが……」
カールトンは少し考えてから話を再開する。
「予知夢というのは、既に決まっている運命の流れ……その片鱗を少しだけ覗くことです」
「運命の流れ、か……」
「はい。でもここ最近、夢の中で何も見えません。真っ暗です」
カールトンが地面に視線を落とす。
「もしかしたら……運命の流れがまだ決まっていないのかもしれません。何か大変なことが起きて……未来が決まっていないのかもしれません」
カールトンが顔を上げて俺を見つめる。
「そしてその『大変なこと』の中心には……ボスがいるような気がします」
「俺?」
俺は眉をひそめた。
「どうしてそこで俺が出るんだ?」
「自分も分かりませんが……」
カールトンは何もかも見透かすような目で俺を注視する。
「もしかしてボスは……これから勝てない強敵に挑もうとしているのではありませんか?」
「勝てない強敵……」
俺は苦笑いした。
「それはアルデイラ公爵のことか? それともグレゴリー?」
「いいえ。そんな現実の存在なら、ボスが勝てないわけがありません。自分が言っているのは、もっと根本的な存在です。運命そのものような存在……」
俺は何も言わなかった。しばらく沈黙が流れた。
「……もし俺が」
俺が無表情で沈黙を破った。
「もし俺がやつに負けたら……どうなるんだ?」
「……流れが大きく変わると思います。今とは逆の方向へと」
「逆の方向か」
俺は微かに笑った。
「ボス」
カールトンが俺を呼んだ。
「たとえ運命そのものが相手だとしても、ボスなら……ボスならきっと道を開けるはずです。それが……今まで自分たちが見てきたボスの本当の力です」
「……ありがとう」
俺はそう答えて、冬の月を見上げた。
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それから数日後、俺と仲間たちは北のコンラド男爵領に到着した。そして主要道路の交差点で進軍を止めた。
「森の多い領地ですね」
レイモンが言った。その言葉通り、道路の周りには高い針葉樹が並んでいる。
「この領地の盗賊は、ハリス男爵によって駆逐されたはずですが」
「ああ、3ヶ月前のことだ」
俺は頷いた。
「おかげで治安が大分回復し、今は道路も安全だ。つまり……逃走中のアルデイラ公爵にとっても安全な道だ」
「アルデイラ公爵がここを通る可能性もあるのですね」
「そうだ」
俺は仲間たちの顔を見渡した。
「エイブ、カールトン、リック」
俺が呼ぶと、3人が同時に「はっ」と答える。
「お前たち3人は、百を連れてこの領地の本城に行け。コンラド男爵と協力し、主要道路を封鎖して……不審者を見つけたら即逮捕せよ」
「はっ!」
3人は百の騎兵隊を連れて、西へ出発した。
「ジョージ、ゲッリト」
俺は熊と狼を見つめた。
「お前たちは百を連れてここから東に向かうんだ」
「東の方を探索すればいいんですか?」
ジョージの質問に俺は「ああ」と答えた。
「道路が予想よりもちゃんと整備されている。もしかしたら、アルデイラ公爵は既にここを抜けて東に向かった可能性もある」
「ずっと走りながら、怪しいやつを全部捕まえればいいんですね?」
ゲッリトが笑顔で言った。
「任せてください。盗賊もアルデイラ公爵も、全部捕まえておきますよ」
「ああ、頼んだ」
ジョージとゲッリトが百の騎兵隊を連れて東へ出発した。残ったのは俺とレイモンだけだ。
「レイモン、俺とお前は更に北の……ドレンス男爵領に向かう」
「ライモラ山脈の道路を封鎖するのですね」
「そうだ。あの道路は相当険しいが、おかげで監視の目も届きにくい。アルデイラ公爵の性格上、あそこを通る可能性が高い」
「かしこまりました。では、早速出発致します」
レイモンは残り百の騎兵隊を素早く整列させた。準備が終わると、俺とレイモンは騎兵隊を率いて更に北へと向かった。雄大な山脈がもう目の前だ。




