第488話.寒波の中で
1月中旬になり、ほぼ全ての軍事活動が中止された。
灰色の空から降ってくる雪、絶えず吹いてくる冷たい風、そして骨身に染みる寒さ。寒波によって東部地域は真っ白な地獄に変わってしまった。健康な成人男性でも、こんな環境で長時間屋外活動をするのは無理だ。
「さ、寒い……」
勇猛果敢な遠征軍の兵士たちも、身震いをしながら寒さにやっと対抗している。特に南の都市出身の兵士は、一生経験したことのない寒さのせいで狼狽えている。
遠征軍が軍事活動を再開するのは、寒波の終わってからになるだろう。それまではせいぜい偵察くらいしか出来ない。作戦室で東部地域の地図を眺めながら、俺は頭の中で戦略を見直した。
「レッド様」
綺麗な声と共に、防寒服姿の少女が作戦室に入ってきた。まるで鈴蘭のような可憐なその少女は、もちろんオフィーリアだ。
オフィーリアが防寒用の帽子を外すと薄い金髪が露わになり、美貌が輝く。流石王国一の美少女とか言われているだけある。
「本部周辺の道路の整備が完了しました」
オフィーリアは俺に近づいて報告を上げる。
「道路を塞いでいた障害物を全て排除し、途切れていたところも復旧しました。進軍を開始する直前にもう1度確認する必要がありますが、今の状態でも遠征軍が十分に通れるはずです」
「ご苦労だった、ありがとう」
俺は頷いて、地図をもう1度確認した。ここペルゲ男爵領からグレゴリーのいるコスウォルトまではかなり遠い。道路を整備しておかないと、余計に時間を食ってしまう。
「……それにしても、やっぱり北部出身は寒さに強いみたいだな」
俺はオフィーリアを見つめた。頬が赤く染まっているが、この可憐な少女は寒さにも負けずに任務を遂行している。
「寒波のど真ん中なのに、まさか短期間で整備を終わらせるとはな」
「騎士や兵士の皆さんが頑張ってくださったおかげです」
オフィーリアが笑顔で言った。
「他にご要望がありましたら、ぜひ教えてください。ウェンデル公爵軍はいつでもレッド様に力添えする所存です」
「もう十分にやってくれたのさ」
俺も笑顔を見せた。
「任務もいいけど、兵士たちの健康状態に気を付けなければならない。寒波が終わるまで休憩してくれ」
「かしこまりました」
オフィーリアは頷いて、俺を凝視する。
「……やっぱりお優しいですね、レッド様は」
「ん?」
「公爵の地位にありながら、兵士たちのことまでお気にかけていらっしゃるなんて……やっぱりレッド様は優しいお方です」
「いや、別にそんなわけではないさ」
俺は苦笑いした。
「俺はただ、非戦闘時での損失を抑えたいだけだ。別に優しさから休憩を指示しているわけではない」
「そう、ですか?」
「ああ。軽く思われがちだが、これが戦略に大きな影響を与えるからな」
俺は鼠の爺から教わった知識を思い浮かべた。
「軍事学では、非戦闘時での損失について有名な一話があるんだ。『ケネリア』という王国の一話だが、聞いたことあるか?」
「軍事学に関しては素人同然ですが、ケネリアなら存じています。大陸の西に存在していた王国ですね」
「そうだ」
俺は頷いた。
「約2百年くらい前、ケネリアの国王が大軍を率いて隣国を侵攻したんだ。隣国は弱小国だったし、誰が見てもケネリアの勝利は確定していた。で、ケネリアの国王は『短期間で敵国の占領を終わらせろ。もたもたする奴は許さない』と側近たちに伝えた。しかし……それが過ちだったんだ」
「どうしてですか?」
「隣国は確かに弱小国だったが、地形が険しい上に気温も高かった。そんな環境を無視して無理に進軍を急いだ結果、補給線の維持が困難になった」
俺は腕を組んで説明を続けた。
「兵士たちは飢え始め、軍隊の士気や規律が激減した。そうなったらいくら強軍でもまともに戦えない。毎日のように脱走兵が出てきて、脱走を防ぐために部下を処刑する……その繰り返しだ」
「そんな……」
「挙句には伝染病まで流行り、ケネリア王国軍は半数以上が事実上戦闘不能になったらしい」
「半数以上も……」
「隣国は正面決戦を避けて、遊撃戦でケネリア王国軍を苦しめた。ケネリア王国軍は戦闘らしい戦闘も出来ずに莫大な被害を受けて、無様に敗退し……国王も伝染病で死んだ」
俺は微かに笑った。
「ケネリア王国軍の失敗は、軍事学者たちには大事な研究素材となった。非戦闘時での損失を軽んじるとどんな結果になるのか、その反面教師としてな」
「なるほど、勉強になりました」
オフィーリアが笑顔で頷いた。俺は少し間を置いてから口を開いた。
「俺が兵士たちのことを気にしているのは、それが効率的だからだ。戦争の勝敗は、別に善悪で決まるわけではない。より効率的な方が勝つ」
「確かにそうですね。でも……」
オフィーリアが俺の顔を注視する。
「やっぱり私には、レッド様の優しさが見えるような気がします。皆から救世主と呼ばれるほどの、大きな器と優しさが……」
「勘違いだと思うけどな」
俺が笑うと、オフィーリアも笑った。そして俺たちは互いに向かって1歩近づいた。それでオフィーリアの顔が更に赤く染まる。別に寒いからではない。オフィーリアの綺麗な顔は……恋に満ちている。俺と彼女は唇を重ねようとした。
「失礼致します」
その時、誰かが作戦室に入ってきた。俺とオフィーリアはびっくりしたが……幸い現れたのはシェラではない。長身の男性……レイモンだ。
「……どうやらお邪魔してしまったようですね」
レイモンが状況を理解し、半笑いでそう言った。俺は急いで「いや、別にそんなことない」と答えた。
「今帰還したのか、レイモン?」
「はっ。ケイル男爵と協力して、難民を害する盗賊の群れを撃滅して参りました」
「よくやってくれた」
俺は満足げに頷いた。レイモンは俺の側近の中でもずば抜けて強い。盗賊の駆逐なんか、彼には容易いことだ。
「こんな寒い時期に移動するのは、流石のお前でも厳しかっただろう? もうゆっくり休んでくれ」
「かしこまりました。では、どうかお続きを」
レイモンが笑顔で作戦室から出た。俺は苦笑するしかなかった。
思い返せば、俺はいいところで邪魔されることが多い気がする。これも指導者の宿命なんだろうか? そんな馬鹿げた考えが頭を過った。
「レッド様、私もそろそろ……」
オフィーリアが戸惑う様子で言った。
「お前は行くなよ」
俺はオフィーリアを抱きしめて、今度こそ彼女の唇にキスした。
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2月になるまで、俺は遠征軍本部で動かなかった。動かないのは敵も同じだ。自由都市コスウォルトを占領しているグレゴリーも、何の動きも見せなかった。寒波が全てを止めたわけだ。
そして2月3日……予想外のところから動きがあった。それは王国の南部、アルデイラ公爵領からだった。王国最悪の陰謀家……アルデイラ公爵が行方を晦ましたのだ。




