第487話.互いの体温こそが……
1月3日……午前中に書類仕事を終えた俺は、ケールに乗って遠征軍本部から出た。そして東に向かって走った。道路は整備されているが、寒波のせいでかなり寒いのに……ケールは楽しそうに走り続ける。
やがて雪に覆われた森に入り、適当な場所で止まった。木々に囲まれた狭い平地……風の音以外は何も聞こえない静かな場所だ。
「ふう……」
ケールから降りた俺は、まず深呼吸をして集中力を高めた。すると周りの全てが遅くなり始める。風も、風に揺れる木々も、俺を見ているケールも……どんどん遅くなってしまう。
「……はっ!」
全てが止まっている世界で、俺だけが普通に動いて戦闘態勢に入る。拳を構えて、今まで鍛錬してきた格闘技の技を繰り出す。
「はあっ!」
正拳突き、急所攻撃、連続攻撃……13歳の俺が必死に練習していた技だ。22歳となった今は、もう考えなくても自然に完璧な動作が出来る。
俺が激しく動くと、その衝撃だけで疾風が起きて周りの雪が吹き荒ぶ。俺の全身から発せられる気迫は巨大な猛獣をも凌駕する。たとえ百の敵兵士に囲まれても……今の俺なら素手で全部撃破出来る。
10分、15分、20分……時間が経てば経つほど、俺の動きは更に鋭くなっていく。体の底から無尽蔵の熱が湧いてきて、寒波を退けて俺の体を動かす。
「うおおおお!」
気合と共に、右拳に全身全霊の力を込めて正拳を放った。俺の最大の一撃だ。巨大な針葉樹すら破壊出来て、凶暴な野獣も簡単に殺せる拳だ。
「……へっ」
だが足りない。この程度では……やつには勝てない。
「ふう」
また深呼吸して、俺は戦闘態勢を解除した。そして後ろを振り向いた。さっきから1人の少女が軍馬に乗って俺を見つめていたのだ。
「シェラ」
俺が呼ぶと、シェラが軍馬から降りて俺に近づく。
「ごめん、鍛錬を邪魔した?」
シェラの言葉に俺は「いや」と首を横に振った。
「ところでお前、どうしてここにいるんだ? 急な用でもあるのか?」
「もちろんレッドのことが気になってついてきたわよ」
「俺が気になったと?」
「うん」
シェラが頷いた。
「最近、レッドの様子がどこか変だからね。何かぼーっとしている時が多いし。私も白猫さんも気になっていたの」
「そうだったのか」
「だからレッドが1人で出ていくのを見て、急いでついてきたわけ」
シェラは俺を心配してくれたのだ。確かにここ数日、俺はよく1人で考え込んでいた。
「でもまさかこんなところでこっそり鍛錬していたとわね」
「強敵との決戦の前に、少しでも鍛錬しておきたかっただけだ」
「強敵?」
シェラが目を丸くする。
「レッドはもう最強で無敵なんでしょう? それなのに鍛錬しなければならないほどの強敵がいるの? もしかして、グレゴリーって人?」
「いや」
俺は苦笑した。
「俺の言う強敵ってのは、グレゴリーのことじゃない。それに……そもそもの話、俺は最強でも無敵でもない」
「でもレッドは挙兵して以来、誰にも負けていないんでしょう? 師匠以外には」
「それも違う。ついこないだも1対1で負けたのさ」
「え……?」
シェラが驚く。
「レッドが負けたって……本当なの? そんな話、聞いたことないんだけど」
「本当さ」
「誰に負けたの?」
「自分自身に」
その答えを聞いてシェラは「ぷっ!」と笑った。
「何よ、それ? 自分自身に負けたって、本気で言ってるの?」
「へっ」
俺も笑った。そしてシェラの顔を見つめた。防寒用の服を着ているが、シェラの頬は寒さで赤く染まっている。
「……シェラ」
「ん? 何?」
「いつか俺が話したこと、覚えているか? 女神教の一部が俺のことを『滅亡をもたらす赤竜』と思っているって話」
「あ……それか。覚えている」
シェラが自分の顎に手を当てて記憶を探る。
「確かハリス男爵の城を訪ねた時のことでしょう?」
「ああ、そうだ」
「それがどうしたの? レッドはそんな荒唐無稽な話は信じないんじゃなかったの?」
俺はその質問には答えず、少し間をおいてからまた口を開いた。
「……その女神教の一部ってのは、実は異端のことなんだ」
「異端? 王国法で禁じられているあの……?」
シェラがもう1度驚く。
「レッドって異端の人と話したことがあるの?」
「何言ってるんだ? お前も異端の人と話したじゃないか」
「え?」
「アイリンに薬学を教えたヘレンさんこそが……『隠れ異端』だ」
「ヘレンさん……? 医者のヘレンさんのこと……?」
シェラは信じられないと言わんばかりの顔になる。
「異端は古くからの信仰を守るために、今もどこかに隠れている。そしてヘレンさんは王国の情勢を探るために、自分の正体を隠して外部で活動する『隠れ異端』だ」
「ちょ、ちょって待って! 話が急すぎて……」
シェラは首を強く振って、冷静を取り戻そうとする。
「つまり、ヘレンさんが異端の人で……レッドのことを赤竜だと思っていたってこと?」
「簡単に言えばそういうことだ」
俺は微かに笑った。
「異端の経典によると、赤竜は大悪魔の中でも特に凶暴で危険な存在だそうだ。しかも何度も人間の形を借りてこの世に降臨し、地獄を具現化したらしい」
「大悪魔……赤竜……」
「ヘレンさんを含めて、女神教の異端は俺の正体が赤竜だと結論付けたそうだ」
「それって何か根拠でもあるの?」
「いや」
俺は苦笑した。
「異端の言う根拠ってのは、経典と予言と予知夢だ。つまり女神教の信者にしか納得出来ないものばかりだ」
「じゃ、信憑性の欠片もないじゃん!」
「まあ、そうだな。だが……俺には気になることがあるんだ」
「気になること?」
「俺がたまに味わう、不思議な感覚さ」
俺は自分の真っ赤な手を見下ろした。
「仲間たちと一緒に戦う時、兵士たちが俺を見上げる時、民衆が俺に希望をかける時……俺の体の底から無尽蔵の熱が湧いてくる。俺にも理解出来ないほどの力だ」
俺はまた苦笑した。
「最初は何かの勘違いだと思った。指導者としての責任感をそんな風に感じているんだと。でも……その力は実在する。現に俺は何度もその力を使って勝利を掴んできた」
「レッドに不思議な力があるってことは、みんなも薄々思っていたことだけど……」
シェラが難しい顔で言った。
「それってレッドがこの王国の救世主だからなんでしょう?」
「もう何度も言ったじゃないか。救世主宣言は、民衆の支持を得るための政治的なものだったと」
「でも……」
シェラが何かを言おうとするが、悲しい表情で止める。
「……それだけじゃない。俺もたまに夢で見るんだ。俺と同じ姿をしているやつが……虐殺を行う場面を」
俺は今まで見てきた『隻眼の赤竜』の夢をシェラに話した。
「もしかしたら『隻眼の赤竜』は……俺の本来の姿なのかもしれない。アイリンを見捨てて、鼠の爺を殺し……俺が赤竜として目覚めた姿かもしれない」
「そんな……」
「そしてヘレンさんからもらった薬を飲んで、俺は夢の中でやつと対面した」
左目に大きな傷がある、赤い肌の巨漢。最強という言葉すら足りない化け物。俺はやつの姿を思い浮かべた。
「やつは俺にこう言った。所詮は貴様も赤竜だから、怒りと憎悪以外の感情を捨てて目覚めろと」
「レッド……」
「俺にはやつの言っていることが理解出来る。子供の頃から化け物扱いされて、ずっと胸の奥に溜まってきた怒りと憎悪は……消えたりしない。戦いを通じてそれを発散し続けることが、俺の生き甲斐さ」
「でも……レッドは戦乱を終わらせるって約束したんでしょう?」
シェラが悲しい眼差しで俺を見つめる。
「戦乱を終わらせて、この王国を平和にするって……そして新しい王国を作るって何度も言ったんでしょう?」
「……戦乱なんて、王になればいくらでもまた起こせる」
俺は腕を組んだ。
「例えば、王になって兵力を養成し……こう宣言するんだ。『戦乱を完全に無くすために、これから大陸を統一する』と。それを大義名分にして、他の王国を次々と侵攻するのさ」
「え……?」
シェラが眉をひそめる。
「戦乱を無くすために他の王国を侵攻するって、完全に矛盾じゃないの?」
「大義名分ってそんなものだ」
俺が笑うと、シェラはまた難しい顔になる。
「じゃ、レッドが大陸を統一すれば本当に戦乱が無くなるの?」
「いや、そんなわけがあるか」
俺はニヤリとした。
「武力で無理矢理占領された王国が、俺の統治を素直に受け入れるはずがない。それに、今の体制では他の文化と民族を融合することも難しい。まあ、俺の生きている間はどうにかなるかもしれないが……俺が死ねば、あちこちで反乱が起きるだろう。その結果、統一される前よりも激しい戦乱が始まる」
「そんな……」
「それが歴史の流れってもんだ。エミルほどじゃないが、俺だってそれくらいは知っている」
シェラが首を強く振る。
「レッドがそんなことするはずがないよ」
「俺が戦いを捨てない限り……似たようなことが起こる可能性はいくらでもある。だから……俺は『隻眼の赤竜』を超えなければならない」
俺は拳を握りしめた。
「ベルンの山で、隻眼の赤竜との決着をつける。やつの言う通り、俺は所詮赤竜に過ぎないか……それとも別の道を歩けるのか、その決着をつけてやるさ」
「レッド……」
「もう赤竜が実在するのかどうかなんて関係無い。これは……俺の個人的な問題だ」
「違う」
シェラが俺に近寄って、俺の腰を精一杯抱きしめる。
「私……恋人とか婚約者とか言っても、レッドみたいに洞察力があるわけではない。だから……レッドの気持ちを全て理解出来るわけではない。でも……」
シェラは涙に濡れた瞳で俺を見上げる。
「でも……レッドが言ったでしょう? 一生俺の傍にいろ、と。だから私が……一生傍でレッドを抱きしめてあげる。レッドが自分自身を失わないように、ずっと……」
「……ありがとう」
俺もシェラを強く抱きしめた。雪に覆われた、真っ白な森の中で……俺たちは互いの体温を感じ合った。




