第472話.焦るな
ルイゼン男爵が去った後、俺は野営地の内部を見渡した。野営地の真ん中には大きな焚火があり、その周りを多数の天幕が囲んでいる。俺は少し考えてから、1番南の天幕に入った。
「邪魔するぜ」
天幕に中に座っていた2人が俺を見上げる。それは俺の家族、白猫と黒猫だ。
「どうしたの、レッド君? お姉ちゃんの体温が懐かしくなったの?」
「何言ってんだ」
俺は苦笑してから白猫の隣に座った。そしてまず黒猫の様子を伺った。俺の義妹は……いつもの無表情だ。
「……頭領様」
黒猫が先に俺を呼んだ。
「どうした、黒猫?」
「聞きたいことがあります」
「言ってみろ」
「今日の協定というものによって……ここも平和になるのですか?」
黒猫の質問に、俺は腕を組んで答えた。
「完璧に平和になるとは言えない。ベルス男爵家とルイゼン男爵家は百年以上対立してきたし、まだ解決されていない問題もたくさんあるからな。でももう人々が戦闘に巻き込まれて無暗に死んだりはしないだろう」
「……そうですね」
黒猫の顔が明るくなる。
「やっと理解出来ました。人々が……頭領様のことを救世主と呼んでいる理由を」
「救世主、か」
「私も……手伝わせてください。頭領様の……力になりたいです」
黒猫が真面目な顔でそう言った。俺はニヤリと笑った。
「何今更そんなこと言ってるんだ? お前は今までずっと俺の力になってくれたじゃないか」
「私は……手紙を運んだり伝言を伝えたりしただけです。別に頭領様の力になったことは……」
「それで十分だ」
俺は笑顔を見せた。
「お前みたいに、見えないところで俺を支えてくれる人々がいるから……俺は安心して敵と戦える。つまりそれぞれの役割があるのさ」
「それぞれの役割……」
「ああ。農民、学者、修道女、労働者、官吏、兵士、商人、吟遊詩人……みんながそれぞれの役割を遂行してこそ、王国は生きていける」
その言葉を聞いて、黒猫はしばらく考え込んだ。
「私は……自分の役割が何なのかよく分かりません……」
「別にそれでいいんだ」
俺は手を伸ばして、義妹の頭を撫でた。
「自分の役割が何なのか迷うのは、別にお前だけの問題ではない。俺だって、自分の役割について悩む時がある」
「頭領様も……?」
黒猫が目を丸くした。
「もちろんだ。俺もずっと悩みながら、周りのみんなに頼りながら進んでいる。だからお前も……ずっと悩んで、ずっと頼っていい。俺も白猫も……いつもお前の傍にいるから」
「……はい」
黒猫が笑顔で頷いた。それで俺と白猫は安堵した。
「ところで……」
俺は白猫の方を見つめた。
「ついさっき、ルイゼン男爵から重要な情報を聞いたんだ」
「重要な情報?」
白猫が目を輝かせる。
「何を聞いたの? 早くお姉ちゃんに言ってみて!」
「へっ」
俺はルイゼン男爵から聞いた話を簡単に説明した。女神教の異端が俺を予言の赤竜だと思っていること、異端の経典の内容が誰かによって削除されたこと、そして異端の現在位置が『ベルンの山』かもしれないこと。
「『ベルンの山』って……それ本当なの?」
白猫が驚いて目を見開く。俺は「ああ」と頷いた。
「東部地域のど真ん中にある巨大な山だ。その高さと険しい地形で有名さ。そして俺の記憶が正しければ……そこは昔、『夜の狩人』の本拠地だったはずだ」
俺は白猫の顔を注視した。
「あんたも覚えているだろう? 青鼠が俺の前に現れた時、こう言ったんだ。『お前に協力してやるから、ベルンの山を我々に返してくれ』……と」
「……うん、もちろん覚えているわ」
白猫が深呼吸する。
「ベルンの山は、私たち夜の狩人の発祥の地よ。夜の狩人はあの山を中心に活動して、伝説の暗殺集団と呼ばれるようになったの。でも数十年前、夜の狩人は討伐軍によってあの山から追い出されたわ」
白猫の顔が強張る。
「青鼠はあの山を奪還して、夜の狩人を復興させようとしたの。だからレッド君の天下取りに協力しようとしたわけ。もう昔の話だけどね」
「夜の狩人はもう暗殺集団ではないからな」
俺は頷いた。
「もしかしてベルンの山に行ったことがあるのか、白猫?」
「昔、任務で1回行ってみたわ。夜の狩人の本拠地はもう完全に灰になっていたけどね」
「そうか」
白猫が俺の顔を凝視する。
「……あそこにいるのね? 赤鼠とアイリンちゃんが」
「その可能性が高い」
俺は軽くため息をついた。
「何せこの戦乱の中だ。盗賊や山賊があちこちで狼藉を働いている。女神教の異端は別に武力集団ではないし、生き残るために険しいベルンの山に入った可能性は十分ある。そして鼠の爺とアイリンも異端と同行しているだろう」
「じゃ、今からベルンの山に行くの?」
「いや」
俺は首を横に振った。
「ベルンの山は遠い。流石に総指揮官の俺が本隊からそこまで離れるわけにはいかない。来年……東部地域の中央に進軍する時、ベルンの山に立ち寄るつもりだ」
「そうか。じゃ、その時は私が道案内をするわ」
「ありがとう」
俺は腕を組んで、地面を見つめた。すると白猫が俺の肩に手を乗せる。
「レッド君、何か心配でもあるの?」
「実は……気になることがある」
「気になること?」
「鼠の爺からの連絡だ」
俺は自分の唇を軽く噛んだ。
「以前、鼠の爺から手紙をもらったことがある。爺もアイリンも元気にしているから心配するな、という手紙だった」
「赤鼠はレッド君の動向をある程度知っているみたいね」
「ああ、そうだ。つまり爺なら……俺が東部地域に遠征に来たことも知っているはずだ。それなのに……まだ何の連絡も無い」
俺はまた軽くため息をついた。
「もちろん爺のことだから、気まぐれで連絡を絶った可能性もある。だが……連絡出来ない状態である可能性もある」
「でも赤鼠はレッド君よりも強いんでしょう? そんな人が連絡出来ない状態に陥るなんて、あり得ないと思うけど」
「まあな」
確かに爺は最強の戦士だ。盗賊だろうがルケリア王国軍だろうが、爺に勝てるわけがない。連絡が無いのは、やっぱりただの気まぐれなんだろう。俺は自分自身にそう言い聞かせて、不安を振り切ろうとした。




