第455話.旅と警戒
東部地域は本当に山だらけだ。城下町を少し離れただけで、道路はもうすっかり山道に変わってしまった。俺は馬車の速度を落として、なるべく安全に道を進んだ。
「レッド君ってさ、馬車の操縦はいつ習ったの?」
「習ったこと無い。今日が初めてだ」
「ふふふ……本当に何でも出来るわね、レッド君は」
白猫が笑った。
「あ、次の交差点で南に向かってね。2時間くらい進めば小さな村があるから。あそこで食糧を買いましょう」
「分かった」
俺は頷いた。
「……東部地域を旅したことがあるのか、白猫?」
「昔、任務でね」
白猫が笑顔で答えた。どこか寂しく見える笑顔だ。
白猫と姉弟になって結構な時間が流れたが……俺は彼女の過去についてはあまり聞かなかった。白猫も暗殺者だった頃についてはあまり話したくないみたいだ。
しばらく山道を進んでから、小さな湖で馬車を止めた。するとトムが素早く馬車から降りて、馬に水を飲ませる。
「トム」
「はい、総大将。ここからは自分が操縦しましょうか?」
「いや、その必要は無い」
俺は首を振った。
「それより……村に着いたら領民たちの生活状態をよく見ておけ。これは一応『視察』でもあるから」
「はい、かしこまりました」
小柄の副官が誠実な顔で頷いた。
俺たちの目標はもちろん『ベルス男爵領への潜入調査』だ。しかしシェラたちには『トムを連れてこの地域の村を視察して来る』と言っておいた。潜入調査するつもりと言ったら反対されるはずだし、敵を騙すならまず味方からだ。
でも『視察』というのも完全に嘘ではない。東部地域の領民たちの生活を直接見ておきたい。この戦乱の中、人々がどう耐えているのか知っておきたい。
「頭領様」
休憩の途中、黒猫が俺に話しかけてきた。
「この花は何というんですか?」
黒猫が湖の近くに咲いている桃色の花を指差す。
「これは……コスモスだな」
「こすもす……?」
「ああ。夏から秋に咲く花だ。生命力が強くて、手入れしなくてもよく育つらしい。でも寒いところでは適応が難しくて……」
俺は黒猫にコスモスについて簡単に説明した。シルヴィアの受け売りだけど。黒猫は俺の説明を興味津々な顔で聞いた。
「トムちゃんって、結局誰が好きなの? お姉ちゃんに話してみて」
「お断りします」
俺と黒猫が話している間、トムと白猫はいつも通りふざけていた。もっと正確に言えば、トムが白猫に一方的にからかわれていた。見ていると気の抜ける光景だ。これが任務ということを忘れてしまいそうだ。
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山道を越えて平坦な地を進むと、前方から煙が見えてきた。人の住む村の煙だ。俺は馬車の速度を上げて村に向かった。
村は小さかった。しかも建物の一部が焼かれていた。放浪騎士グレゴリーの率いる反乱軍に略奪されたんだろう。そして村の共同墓地には多数の新しい墓が出来ていた。俺は馬車を操縦しながら、共同墓地の真ん中にある女神の石像を見つめた。
「貴方たちは……?」
俺たちが近づくと、村の方から中年の男が出てきた。この男が村長なんだろう。
「驚かせて申し訳ございません」
白猫が馬車から降りて、笑顔を見せる。
「私は貿易業者のオリビアと申します。先月、王都からこのペルゲ男爵領に来て取引をしています」
白猫は村長に通行証を見せた。通行証は『ロウェイン公爵』……つまり俺の許可を受けた本物だ。もちろん記載されている名前は偽名だけど。
「出来ればこの村の方々とも取引をしたいです。特に食糧になるものを買い取りたいです」
「それは別にいいけど……こちらにもあまり余裕がなくてね」
村長が警戒の眼差しで白猫を見つめる。
「ところで、お嬢さんたちは……もしかして東に向かっているのかい?」
「はい、更に東に行って商売をしたいと思います」
「あまりお勧め出来んな……」
村長が首を振った。
「このペルゲ男爵領は、ロウェイン公爵様のおかげで助かったけど……東ではまだ盗賊の群れが狼藉を続けている。連中は女だろうが子供だろうが容赦しない」
「分かっています。私たちも単独で東に向かうつもりはありません。他の行商人と合流する予定です」
「そうか」
村長が頷いた。
それから村長の仲介で村人たちと取引を行った。取引と言ってもほとんどは物々交換だ。村人から食糧になるものをもらって、代わりに生活用品を渡す。ついこの間まで反乱軍によって被害を受けた村だし、他地域との経済交流も少ないから銅貨や銀貨による取引が活性化されていないのだ。
「驚いただろう? 村が辺鄙過ぎて」
村長が自嘲的に笑った。
「さっきも言ったけど、この村はまだいい方だよ。東の方は……自分たちの故郷を完全に失った人も多いと聞く」
「……早く戦乱が終わるといいですね」
「ああ、まったくだ」
村長は何度も頷いた。
「ロウェイン公爵様が大軍を連れて来てくださったから……これからはよくなるはずだ。そう信じてどうにか耐えるしかないさ」
そう言いながら、村長は自分の家の方を振り向いた。彼の家には……子供が窓を通じてこちらを見つめている。村長の子供なんだろう。
俺たちは村長や村人に別れを告げて、更に東に進んだ。
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いつの間にか日が暮れて……周りが急激に暗くなった。俺たちは小川の近くで馬車を止めて焚き火を作り、天幕を張った。今日はここで野営だ。
一緒に食事を取った後、俺たちは各々の天幕に入った。11月の夜の空気は冷たい。でも猫姉妹は超人だし、トムも立派な軍士官だからあまり問題にならない。本格的な寒波は12月からだ。
「さて……」
俺はランタンの光に頼って東部地域の地図を見つめた。この広大な地域の地形は、もう大体頭の中にあるけど……細かい確認を怠ってはいけない。
「レッド君」
呼び声と共に、白猫が俺の天幕に入ってきた。そして俺の隣に座って地図を見つめる。
「本当に広いわよね、この地域」
「そうだな」
西のカダク地方と南の都市、アップトン女伯爵の領地とクレイン地方を全部足しても……まだ東部地域の方が大きい。もっと正確には、東部地域だけで王国全体の4割を占めている。
「この地域全体の経済交流を活性化するのは、流石に短期間では無理だ。少なくとも10年以上の時間がかかるだろう」
「もう戦乱の後もことも考えているの?」
「まあな。一応俺は公爵だからな」
俺はニヤリと笑った。
それから俺と白猫は東部地域の情勢について話し合った。言動は軽いけど、白猫は意外と博識だ。戦争も結局外交や経済の一部ということを理解している。
「……あの連中は何しているのかな」
地図の眺めながら、ふと白猫が呟いた。
「あの連中?」
「『青髪の幽霊』のこと」
白猫は小さな声で話を続ける。
「青鼠と一緒にアルデイラ公爵の城に潜入した時……私はあの3人との決戦を覚悟したわ。でも連中は現れなかった。たぶんこの王国のどこかで別の任務を遂行しているはずよ」
「ま、『青髪の幽霊』の目標は……俺の首だろうけどな」
「ふふふ」
白猫が笑った。
「覚えている? 1年前、私たちが馬車で王都に向かっていた時……覆面を被った4人に襲撃された。それが『青髪の幽霊』との最初の遭遇だったわ」
「もちろん覚えているさ」
俺は頷いた。
「あの時、俺とあんたとトムがやつらを撃退した」
「今回の旅にも……あの連中が襲撃してくるかもしれないんでしょう?」
「その可能性は低いと思うけどな」
俺は腕を組んだ。
「『青髪の幽霊』は何度も俺を攻撃したが、結局俺を仕留めることに失敗した。しかもその過程で1人が死んで、やつらは3人になってしまった。もう分かっているだろうさ。普通の襲撃では俺を倒せないということを」
「じゃ、別の方法を使うだろうね。騙し討ちとか、毒殺とか……」
「それもたぶん無理だろうな。何しろ、俺の側にはあんたと黒猫がいるから」
「ふふふ、嬉しいこと言ってくれるわね」
気持ちよさそうに笑った直後、白猫の目つきが鋭くなる。
「心配しないでね、レッド君。私たち『夜の狩人』が……貴方のことを裏舞台で守ってあげるから」
「ああ、頼りにしている」
俺が頷くと、白猫は笑顔を見せて自分の天幕に戻った。




