第442話.俺の最後の試練は……
9月28日の早朝……俺は1人で宮殿の裏庭園に行き、鍛錬用の砂袋の前に立った。そして包帯を巻いた拳を振るい始めた。
「はっ!」
牽制からの1撃、騙し討ちから連続攻撃、相手の内蔵を狙う急所攻撃……今まで身につけてきた格闘技を繰り返した。鈍重な打撃音が響いて、砂袋が激しく揺れる。
「こんな時間に何しているの、レッド君?」
聞き慣れた声に振り向いたら、白猫と黒猫が朝の日差しを浴びながら立っていた。俺は2人に向かって笑顔を見せた。
「ずっと書類仕事ばかりで体がなまったから、軽い運動をしていたところだ」
「レッド君も体がなまったりするんだ」
白猫も笑顔を見せる。
「じゃ、私たちが相手してあげよっか?」
「いいだろう」
俺たちは裏宮殿の真ん中に移動した。
「黒猫ちゃん……久しぶりに私たちの力を見せるわよ」
「はい、お姉ちゃん」
猫姉妹は早速戦闘体勢に入る。白猫は拳を、黒猫は手に持っていた木の棒を構える。俺も拳を構えて、2人の攻撃に備えた。
「行くわよ」
先に動いたのは白猫だ。ヘラヘラ笑っていた彼女の姿が、いきなり消えてしまう。得意の速さで俺の隙を狙うつもりだ。
「……っ!」
姉が動くと、黒猫も木の棒で攻撃を開始する。白猫が変則的な攻撃で敵を惑わして、黒猫が率直な攻撃を加える……単純だが効率的な連携だ。
「ちっ……!」
俺は精神を集中し、防御に専念した。猫姉妹は個々の戦闘力も素晴らしいけど、2人が連携した時の威力は信じられないほどだ。
「ふふふ」
妖艶な笑い声と共に、白猫が俺の横腹に蹴りを入れようとする。しかしそれは陽動……本命は1回転からの裏拳だ。そして俺が白猫の裏拳を右手で受け止めた時、俺の肩に黒猫の攻撃が迫る。
「うっ!」
俺は左手を振るい、辛うじて黒猫の木の棒を弾いた。しかし猫姉妹の連携攻撃はそれで終わりじゃない。
「お姉ちゃん……!」
「分かってる!」
白猫は速さなら俺より上だ。黒猫は15歳の少女とは思えない怪力を持っている。そんな2人が完璧なまでに動きを合わせて、無数な形の連携攻撃が絶えることなく俺の急所を狙ってくる。
攻防が続けば続くほど、俺の方が不利になっていく。このままではいつか猫姉妹の連携攻撃にやられてしまう。
「はっ!」
守ってばかりでは勝てない。そう思った俺は防御と防御の間に反撃を挟んだ。まるで針の穴に糸を通すような繊密さが必要だが……楽しい。自分の限界を引き出す戦いが、俺には楽しすぎる!
「……え?」
笑顔で連携攻撃を続けていた白猫が、突然目を見開く。攻撃と攻撃の間の、ほんの一瞬に……俺の拳が彼女の目の前で来ていたからだ。
「うっ……!」
白猫が慌てて後ずさる。おかげで猫姉妹の無限に近い連携に隙が生じる。そんな隙を見逃す俺ではない。
「うおおおお!」
執拗に俺を狙う黒猫の木の棒を、気合と共に蹴り飛ばす。黒猫は怪力の持ち主だが、俺の反撃によって木の棒を落としてしまう。
「ぐおおおお!」
俺はそのまま突進して白猫を追い詰めた。いくら彼女が速くても、逃走経路を読み切れば捕捉出来る。
「ちょ、ちょっと……!」
俺の巨体が迫ると、白猫は近距離格闘で対抗しようとする。俺は左手で白猫の足首を掴み、右手で正拳を放った。そして1撃が決まる寸前、俺は拳を止めた。
「あーあ」
目の前で止まった俺の拳を見て、白猫が笑った。
「負けちゃった。雪合戦では勝ったのにね……」
「へっ」
俺は笑った。お互い心魂功は使っていないし、全力ではなかったけど……いい運動になった。
戦いの後、宮殿のメイドに水を持ってこさせた。俺と猫姉妹は裏庭園の長椅子に一緒に座って水を飲んだ。
「話は聞いたわよ」
ふと白猫が口を開く。
「あのマイルズ君という生徒、決闘に勝ったんだってね」
「ああ」
コップの中の水を見つめながら、俺は頷いた。
「素人同士の決闘だったが……面白かった。特に挑戦者のマイルズの闘志は素晴らしかった」
「私も見てみたかったなー」
「あんたがアカデミーに現れたら、余計な騒ぎが起こるだろうが」
俺と白猫は一緒に笑った。俺たちが笑うと、黒猫も気持ちよさそうな顔になる。
「それで……レッド君の本当の目的は何だったの?」
白猫の目つきが鋭くなる。
「あの決闘を成立させたのは、ただ面白いからではなかったんでしょう?」
「……お見通しだったか」
俺は苦笑した。義姉の洞察力を誤魔化すことは難しい。
「俺があの決闘を成立させたのは、マイルズを強くするためだった。これからもあの少年にはいろんな困難が待ち受けているだろう。それでも自分の意志を貫きたいなら、強くなるしかない」
「マイルズ君にとって、レッド君はまさに人生の師匠ってわけね」
「……だが、それだけが俺の目的だったわけではない。俺は自分自身が何を望んでいるのか、それを確認したかったんだ」
「レッド君が……望んでいるもの?」
「ああ、俺はやっぱり『支配』より『戦い』を望んでいる」
俺はコップの中の水を飲み干した。
「以前、アルデイラ公爵と会談をした時……やつは俺にこう言った。『弱者に力を与えるのは、君の権力維持に何の役にも立たない』……と」
「ふむ……」
白猫は少し考えてから口を開く。
「確かにそうだよね。弱者が強くなって強者に挑戦するのが普通になったら……レッド君に挑戦する人も現れるだろうから」
「ああ。俺の権力だけを考えるなら、弱者を強くするのはまったくの無意味だ」
俺は微かに笑った。
「別に王国を変える必要も、平民のための教育施設を作る必要もない。階級制度をより強固なものとして、俺がその頂点に立てばいい。それで俺の権力は絶対的になる」
「なるほど……」
「ウェンデル公爵も言っていた。『貴族が貴族らしく行動し、平民が平民らしく行動すれば王国は安定する』と。一理ある言葉だ」
「でもレッド君は……そんなこと望んでいない」
白猫が俺を凝視する。
「レッド君は、弱者にも強くなれる機会を与えようとしている。だから平民のための教育施設を作ろうとしている。そうでしょう?」
「ああ。弱者が強くなって、強者と正々堂々と競い合う。そう、マイルズが見せたような戦いを……俺は望んでいる」
俺は拳を握りしめた。
「そして、方向性は少し違うけど……やつも同じだ」
「やつ?」
「『隻眼の赤竜』さ」
左目に大きな傷がある、もう1人の俺。その姿は今も脳裏に鮮明に残っている。
「やつの力を以てすれば、戦いを終わらせて王国の支配者になるのは簡単だ。でもやつは不必要な虐殺を行っていた。戦いが続くことを望んでいるからだ」
「レッド君も『隻眼の赤竜』も、支配より戦いを望んでいる……」
「そして俺がやつの夢を見たのは、女神の警告かもしれない」
「女神の警告?」
「そうだ」
俺は修道女長のロジーさんから聞いた話を説明した。
「ロジーさんの話によると……夢の中で未来を見たりするのは、女神の啓示だそうだ。人々を導くために、夢を通じて自分の意思を伝えるらしい」
「へえ……」
「つまり……女神は俺にこう言いたいのかもしれない。『1歩間違えたら、お前もこんな虐殺者になるだろう』と」
「なるほど、そんな解釈も出来るわね」
白猫が頷いた。
「でも、やっぱりレッド君は『隻眼の赤竜』とは違う。不必要な虐殺を行ったりはしないから」
「今の時点ではな」
俺は手を伸ばして黒猫の頭を撫でた。 黒猫は真面目な顔で俺を見上げる。
「今の時点では、確かに俺はやつとは違う。俺は『覇王の道』を歩んでいて、やつは『赤竜』になったから。でもまだ大事な質問が残っている」
「質問?」
「『本当に戦いを止められるか』という……根本的な質問だ」
俺はずっと気になっていたことを話した。
「覇王の道を完成させるためには、いつかは戦いを止めるべきだ。武力を以て混乱を鎮めるべきだ。でも戦いは……俺の存在意義だ」
「レッド君……」
「弱者を強くするだけでは足りない。俺自身が……ずっと戦っていきたいんだ。命を賭けて、強大な敵と戦っていきたいんだ」
救世主と呼ばれようが、悪魔と呼ばれようが、戦いが好きなのは変わらない。そのどうしようもない本性が、俺の最後の試練かもしれない。




