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第437話.少年の事情

 小柄の少年が、朝早から砂袋を殴っていた。


「はあ、はあ、はあ……」


 荒い息遣いをしながら、包帯を巻いた拳を放つ。少年の拳が当たると、木の枝にぶら下がっている砂袋が少し揺れる。


「はあ、はあ……」


 少年の拳は弱い。しかしそれでも少年は諦めずに、何度も何度も砂袋を殴る。まるで自分を苦しめる強敵に抗うように、必死に正拳突きを繰り返す。


「……今日は休憩じゃなかったのか、マイルズ?」


 俺が聞くと、小柄の少年は動きを止めて……こちらを振り向く。


「伯爵様……」


「ジェフリーはまだ寝ているんだろう? 1人で何していたんだ?」


 俺はマイルズの姿を眺めた。彼は汗まみれになっていた。


「休憩は大事だ。ちゃんと休まないと、せっかくの鍛錬が逆効果になるぞ」


「は、はい……」


 マイルズが視線を落とす。


「でも……体を動かさないと、とても不安でして……」


「不安?」


「はい」


 自分の額に流れる汗を手で拭いて、マイルズが話を続ける。


「僕は……本当にビリーに勝てますでしょうか……?」


「敗北が不安なのか」


 俺は腕を組んだ。


「俺の予想だと、勝率は五分五分だ」


「五分の……勝率」


 マイルズの顔が暗くなる。俺は少し間を置いてから口を開いた。


「負けた時のことを考えているんだな、お前」


「……はい」


「確かに、負けたらお前はいろいろ失ってしまう。名誉とか、仕返しの機会とか。だが得るものもある」


「負けて得るものがあるのですか?」


「無論だ」


 俺は頷いた。


「もちろん勝敗も大事だ。しかしもっと大事なのは、お前が抵抗を続けることだ」


「抵抗を続ける……」


「既に話した通り、ビリー達が欲しいのは『一方的に殴られる砂袋』だ」


 そう言いながら、俺は練習用の砂袋を軽く叩いた。


「抵抗しなければ、お前はこの砂袋と同じだ。殴られようが、侮辱されようが、何も出来ない砂袋と同じだ」


「僕は……」


「もちろん1人で抵抗を続けるのは難しい。でも幸いなことに、お前はもう1人ではない。ジェフリーという友達が出来た。そうだろう?」


「はい」


 マイルズの顔が少し明るくなるが、それでもまだ釈然としない表情だ。俺はその理由が分かった。


「お前……ビリー達に殴り返したくないのか?」


「……分かりません」


 マイルズが深呼吸する。


「僕はただ……アカデミーで勉強をしたいだけです。ビリー達に殴り返したいとか……あまり考えたことがありません」


「なるほど、それが俺とお前の差か」


 俺は頷いた。


「俺の場合は……自分を殴ったやつらに仕返ししたくて、必死に鍛錬したのさ」


「伯爵様が……?」


 マイルズが目を丸くする。


「伯爵様も、殴られたりしたのですか?」


「ああ……子供の頃、不良たちに散々殴られた。鍛錬した後、全員まとめて半殺しにしてやったけどな」


 俺はニヤリと笑った。


「しかしお前は俺とは違う。自分を殴ったやつらに仕返ししたい気持ちは強くないみたいだ」


「……はい」


「じゃ、お前の『特別な意志』は何だ?」


 その質問に、マイルズが怪訝な顔になる。


「『特別な意志』、ですか?」


「簡単に言えば、逃げたりせずに戦い続ける力だ」


 俺は自分の赤い手を見つめた。


「俺の場合は『怒りと憎しみ』だった。世に対する怒り、そして俺を見下す連中に対する憎しみ……その2つが『特別な意志』となり、俺は逃げたりせずに戦い続けた」


 俺はマイルズの顔を凝視した。


「1週前、お前は『逃げることは出来ない』と言った。そしてビリーと……自分より強者と戦うことを決めた。お前はどうしてそんな『特別な意志』を持っているんだ?」


「僕は……」


 マイルズは少し考えてから、答え始める。


「僕は……お母さんのためにも、逃げることは出来ません」


「母親のために?」


「はい」


 マイルズがゆっくりと頷く。


「ご存知通り、僕のお母さんは平民です。しかも……ただの平民ではありません。家柄に……問題があります」


「……深刻な問題なのか?」


「はい。だから本来は……僕とお母さんは、貴族のお父さんに捨てられるべきでした。でもお母さんが……」


 マイルズの声が震える。


「お母さんが……お父さんに懇願したのです。『私はどうなってもいいから、この子にだけは……父親としての責任を果たしてください』……と」


 マイルズの瞳に涙が溜まっていく。


「それで僕は……お父さんの支援を受けて、王都アカデミーに入学しました。でもお母さんは、そのまま追放されて……行方が分かりません」


 マイルズが拳を握りしめる。俺はそれをじっと見つめた。


「お前は追放された母親を探すつもりなんだな」


「はい」


 マイルズが自分の手で涙を拭う。


「学者になって、故郷に戻れば……僕も少し認められるはずです。そうなったら、お父さんに頼んで……行方不明になったお母さんを探したいです」


「それがお前の『特別な意志』か」


 俺は頷いた。母親を助けたいという気持ち……それがあったからこそ、マイルズは耐えてきたのだ。数ヶ月に渡る暴力にも、厳しい鍛錬にも。


「その気持ちが本当なら、最後の最後まで戦い続けろ。たとえ負けても……絶対に母親を見つけるんだ」


「伯爵様……」


「自分の決めた生き方を貫けばいい。他人の意思に振り回されるな」


 マイルズがまた涙を流す。


「……ありがとうございます、伯爵様。僕の話を……聞いてくださって」


「今日は休憩しろ。明日からまた鍛錬だ」


「はい」


 マイルズは深く頭を下げた後、裏庭園を去った。

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