第422話.喪失
王都に帰還した俺は、しばらく内政に集中することにした。
最重要の目標は、やはり王都の経済回復だ。そのために俺は商人代表のネッドさんを呼び出した。
「お久しぶりでございます、伯爵様」
高級礼服姿の中年男性が会議室に入ってきて、深く頭を下げる。この人がネッドさんだ。平民でありながら、並大抵の貴族よりお金持ちの豪商だ。
「今日はどのようなご要件でしょうか?」
「実は、あんたに協力してほしいことがある」
俺は1枚の書類をネッドさんに渡した。
「来月から王都と南部地方の交流を再開する予定だ。コリント女公爵とはもう話がついている」
「おお、これは……」
ネッドさんが目を丸くして書類を読んだ。
「コリント公爵領との貿易が再開されるのですね……」
「ああ。王都の経済を1日でも早く回復させるためには、やはり積極的な交流が必要だと判断した」
「素晴らしいご名案でございます!」
ネッドさんが明るい笑顔を見せる。
「戦乱のせいで他の地方との交流が途絶えて、王都の商人はみんな困っておりました。交流の再開は私たちにとってこの上ない嬉しいことでございます!」
「もうすぐ西のクレイン地方とも交流が再開されるはずだ。カーディア女伯爵にも連絡しておいた」
俺は事務的な口調でそう言った。
この王都が『王国の心臓』と呼ばれている理由の1つは、王国のど真ん中に位置している『交通の要』だからだ。東西南北の各地方が互いに交流するためには、必ずといってもいいほど王都を経由しなければならない。巨大な『デイオニア川』が王都地域を通っているから、水運も発達している。今は戦乱のせいで交流が途絶えて、王都の経済も悪化してしまったけど……俺の手で復活させればいい。
「伯爵様の経済事業に、私たち王都の商人もぜひ協力させてください!」
「ああ……商人たちの力、貸してもらうぞ」
もちろん俺1人で巨大な都市の経済を完璧に左右するのは難しい。利益のために自由に動ける商人たちの協力が必要だ。
俺はしばらくネッドさんと貿易再開について相談した。そして約1時間後、ネッドさんは何度も頭を下げてから会議室を出た。
「伯爵様」
ネッドさんが去るや否や、長身の男が入ってきた。警備隊隊長のガビンだ。
「『灰色の区画』の井戸及び水路の整備が完了致しました」
ガビンが俺に報告書を渡してくれた。
「これで灰色の区画の住民たちも、苦労せずに食水を確保出来ると存じます」
「素晴らしい」
俺は報告書を読みながら頷いた。
『灰色の区画』は、この王都の貧民たちが集まって暮らしている区画だ。建物も道路も古びている、活気のない寂れた区画……まるで俺が生まれ育った貧民街と同じだ。
貧民街の住民たちにとって『綺麗な食水の確保』は意外と難しい。井戸や水路が整備されていないからだ。子供の頃……俺も綺麗な水を飲むために街を出て、遠くの川まで歩いて行ったりした。
汚い水を飲んで倒れる人が出てきたり、伝染病が発生したりすることはいくらでもある。王都の民心を安定させるためにも、『灰色の区画』を放置するわけにはいかない。
「ガビン」
「はっ」
「来月から、『銅色の区画』で行商人の出入りが多くなるはずだ。治安維持に力を入れるように」
「かしこまりました」
俺はガビンにいくつか必要な指示を出した。ガビンは誠実な顔で頷いてから会議室を出た。そして約30分後……今度は痩せた男が会議室に入ってきた。
「総大将」
3番目の訪問者は、俺の参謀のエミルだ。エミルは無表情で俺に近寄って、俺に数枚の報告書を渡す。
「今週の裁判の結果をまとめたものです」
「ああ」
俺は報告書を受け取ってじっくりと読み始めた。
王都は人口が多いから、当然人と人の間の紛争も多い。おかげで多数の法務官が毎日のように裁判を開く。エミルは法務部の指揮者である『王都法務官』として、それらの裁判の結果を監督し、統治者の俺に報告する。
エミルの報告書はいつ見ても完璧だ。事件の発生、裁判の過程と判決の理由が分かりやすくまとめられている。
「いつもながら見事だ。判決にも欠点が見られない。情報部の方はどうだ? 新しい情報はあるのか?」
「予定通り、コリント女公爵が部隊を前進させているようです」
エミルが無表情のまま答えた。
「アルデイラ公爵に対する軍事的な圧力を強めて、彼の勢力を確実に削っています。このままだと、今年中にアルデイラ公爵領を占領出来ると思われます」
「流石コリント女公爵だ。慎重かつ確実な方法を使う」
俺は苦笑いした。
「奇策や陰謀に頼るアルデイラ公爵にとって、女公爵こそ最も恐ろしい敵かもしれない」
「特に異変が無い限り、コリント女公爵の勝利は間違いないでしょう」
「異変か……」
俺は顎に手を当てた。
「考えられるのは、アルデイラ公爵がお得意の暗殺で女公爵を排除することか」
「可能性は低いと思いますが、あり得ないことではありません」
エミルが冷たく言った。
大きな権力を持っている統治者なら、暗殺に対する備えは基本だ。いつ誰に命を狙われてもおかしくないからだ。コリント女公爵も備えはしっかりしているだろう。しかしアルデイラ公爵には『青髪の幽霊』がいる。
「とにかくもっと情報が欲しい。東部地域も含めて、他地方の情報はしっかり集めるように」
「かしこまりました」
エミルは頷いてから、俺の方をじっと見つめる。
「それより総大将……彼女の処分はいかがなさいますか?」
「……しばらくは監視でいい」
「総大将らしくないですね」
エミルの視線が一層冷たくなる。
「彼女は敵の特殊工作員です。懐柔が不可能なら、処刑または幽閉するしかありません」
「分かっている。しかし……この件だけは、俺1人では決められない」
「……かしこまりました。どうか早いご決断をお願いします」
エミルが丁寧に頭を下げて、会議室を出た。俺は軽くため息をついた。
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そして8月11日、1人の男が王都に帰還した。
「ボス」
まるで熊みたいな巨漢が宮殿に会議室に入ってきて、俺に頭を下げる。赤竜騎士団の1人であり、俺の忠実な側近……ジョージだ。
「ボスの命に従い、ただ今ペルゲ男爵領から帰還致しました」
「ああ、ご苦労」
俺は頷いてから、ジョージの顔を見つめた。彼はいつも通り気迫に満ちている。
「……反乱軍の駆逐はどうなっている?」
「順調です」
ジョージが誠実な表情で答えた。
「レイモンさんが騎兵隊を、トムが歩兵隊を率いて……主要道路を封鎖しつつ駆逐作戦を展開しています。たぶん10月までには男爵領内の反乱軍を全て駆逐出来ると思います」
「結局グレゴリーは見つからなかったのか?」
「はい、残念ですが……」
「ま、仕方無い。やつはもう他の領地にいるはずだ」
俺がそう言うと、ジョージが少し戸惑ってから口を開く。
「あの……ボス。どうして俺だけに帰還を命令したのですか?」
ジョージが当然な疑問を言った。俺は内心ため息をついたが……仕方無い。これもボスとしての義務だ。
「ジョージ」
「はい」
「今から落ち着いて……俺の言うことを聞いてくれ」
「は、はい」
ジョージは少し驚いた顔になる。
「何か……大変なことでもあるんですか、ボス?」
俺はその質問には答えずに、席から立ってジョージに近づいた。
「俺とお前は……もう何年も一緒に戦ってきた。互いに命を救ったことなんて、もう数え切れない」
「はい……」
ジョージは戸惑いながらも、笑顔を見せる。
「もちろんボスは無敵ですから、俺の助力が無くても大丈夫だったはずですが」
「違う」
俺は首を横に振った。
「いつかみんなの前で言った通り、みんながいるからこそ俺はボスになれるんだ。俺がいくら強くても……1人で王国を変えられるわけではない。だから……いつもお前たちには感謝している」
「……俺の方こそ、いつもボスには感謝しています」
ジョージが潤んだ瞳でそう言った。
「俺、ボスに出会えなかったら……たぶん今頃、街のチンピラだったはずです。文字も読めなかったし、少し喧嘩強いのが全てでしたから。そんな俺が……今は騎士だなんて、信じられない話です」
この熊みたいな戦士は、見た目のせいでよく誤解されるけど……実は思慮が深くて優しいやつだ。困っている人を見たら、無言で助けたりする。 俺と仲間たちは……みんなそのことをよく知っている。
そんなジョージに、こういうことを話すのは……俺も躊躇してしまう。しかし話さなければならない。
「……俺たちの信頼は、どんな逆境よりも強い。その信頼にかけて……話さなければならないことがある」
「は……はい」
「お前の婚約者……ミアさんのことだ」
「ミアの……こと?」
ジョージが目を丸くする。
俺は落ち着いた口調で全てを話した。ジョージとゲッリトの間の誤解が、実は誰かによって仕組まれていたこと。それでミアさんを調査した結果、彼女が他人の名前を借りていたこと。ミアさんの本当の素性は、敵の特殊工作員だったこと。
ジョージは衝撃を受け、激昂し、反論した。しかし……どんなに信じたくなくても、現実を変えられるわけではない。
「う……ううっ……」
長い会話の後……ジョージが涙を流す。いつも頼りになる巨躯の戦士が……全てを奪われて、ひたすら涙を流している。
「ぼ、ボス……俺は……俺は……!」
「……すまない」
俺はジョージの肩に手を乗せた。
「俺がもっとしっかりしていたら、ここまでのことにはならなかったはずだ。本当に……すまない」
「……いいえ……これは……俺が……」
心の支えを失ったジョージは、もう話を続けることも出来なく……ただただ涙を流し続けた。




