第399話.静かな覚悟
雨は2日も降り続けた。そして5月20日の午前、やっと空が晴れた。
洪水にはならなかったけど、やっぱり道路の状態は悪化した。しかも戦乱が始まって以来、王都とその周辺の道路はちゃんと整備されていない。これでは軍事にも経済にも悪影響を及ぼしかねない。今年中に少しでも整備しておくべきだ。
俺は副官のトムを会議室に呼び出して、道路の状態を確認するように指示した。トムは「はっ」と答えて、急ぎ足で宮殿を出る。今週中に結果を出せるだろう。
「団長」
しばらく後、会議室に筋肉の女戦士が入ってきた。『錆びない剣の傭兵団』の副団長であるカレンだ。
「出発する準備が整いました」
「そうか。カルテアの防衛を頼む」
「はっ」
カレンが直立不動で答える。
俺はカレンに軍事要塞カルテアの防衛を任せている。カルテアは王都の北に位置していて、俺たちにとっては大事な拠点だ。
「ウェンデル公爵領では、未だにウェンデル公爵と貴族たちの戦闘が続いているみたいだ」
「はい、お聞きしました」
「ウェンデル公爵は『手出しは無用』と言っているけど……場合によっては彼を支援する必要がある」
「はい、承知しております」
カレンが即答する。
「こちらから性急に支援しては、ウェンデル公爵様の権威に傷がついてしまうでしょう。だからといって、同盟の危機に黙っているわけにはいかない……ということですね」
「その通りだ」
俺は満足気に頷いた。カレンは状況をしっかり理解している。
現在、同盟のウェンデル公爵は自分に反旗を翻した貴族たちと戦っている。しかも貴族たちはかなり以前から準備してきたようで、流石のウェンデル公爵も苦戦を強いられているみたいだ。
俺としては同盟を支援したいところだが……ウェンデル公爵は『手出し無用』と返事してきた。反逆者の処断に、外部の力を借りては権威が落ちてしまうからだ。それは事実だが……同盟の危機を方っておくわけにもいかない。
「状況の変化に応じて動くしかない。現場での判断はカレンに任せるよ」
「はっ」
こういう状況を見極めるのは、決して容易くない。でも戦争経験の豊富なカレンなら問題ないだろう。
「では、出発してくれ」
「はっ」
カレンはまた即答したが、会議室から出る代わりに俺を凝視する。
「……どうした、何かあるのか?」
「その……ありがとうございます、団長」
カレンが視線を落とす。
「参謀殿と私が素直に話せたのは……団長のおかげです」
「あ、そのことか」
俺は笑顔を見せた。
「俺は別に何もしていない。人間嫌いのエミルが、少し勇気を出すようになっただけだ」
「はい……」
カレンの顔に乾いた笑みが浮かぶ。
「私は……誤解していました」
「誤解?」
「はい、参謀殿について」
カレンの表情が切なくなる。
「ただ……静かて頭のいい人だと思っていました。まさか彼の過去にあんなことがあったとは……思ってもみませんでした」
「ああ、俺も想像もできなかったよ」
俺は腕を組んで答えた。
エミルが人間嫌いだということは、初めて出会った日から知っていた。でもあんな悲惨なことを経験し、故郷から追放されたとは知らなかった。
「私の考えが……浅はかでした。参謀殿に……エミルさんに必要なのは、恋人ではなく信頼できる人間だったのです」
「そうだな」
「だから私は……エミルさんと友達から始めることにしました」
カレンが笑顔を見せる。
「私は、団長もご存知通り恋愛とは縁がありません。ですが……仲間を作ることには自信があります」
「ああ、それでいいと思う」
俺は頷いた。カレンから……温かい光が感じられる。
たとえエミルとカレンがどんな結末を迎えようとも……この温かい光がある限り、心配することはない。俺はそう思った。
---
その日の夜、俺は久しぶりに猫姉妹と外出した。もちろん『秘密の外出』だ。
覆面とフードで顔を完全に隠して、普通の平民みたいな服を着て、白猫と黒猫と一緒に街を歩く。これだけでも楽しい。自由になった気持ちだ。
しかし今日は……もう1人いる。こういう場にはまったく似合わない人が。
「どうして私が……」
フードを被っている少女が呟いた。
「どうして私が顔を隠さなければならないのですか? まったく……」
「嫌なら帰ってくれ、デイナ」
俺は苦笑した。今日のもう1人の同行者は、大貴族の娘であるデイナだ。
「まったく……」
猫姉妹の隣で歩きながら、デイナはぶつぶつと不満を並べる。
「どうして『銅色の区画』まで徒歩で移動する必要があるのですか? 途中まで馬車で行けばいいのに」
「徒歩の方が楽しいじゃないか」
「私は楽しくありません。大体、貴族のレディはこんなに長く歩いたりしません」
「へっ」
俺は苦笑した。ま、確かに宮殿から銅色の区画までは結構距離がある。猫姉妹は超人だから別に問題ないけど……デイナにはちょっときついかもしれない。
「でも……お前は俺の軍隊と一緒に進軍したこともあるだろう? あの時の体力と精神力はどこに消えた?」
「あれはもう昔のことです。今の私とは関係ありません。『過去に縛られるな』と私に教えてくださったのは、他でもなくレッド様ですよ」
「いやいやいや……そこは縛られろよ」
俺がもう1度苦笑すると、白猫が笑顔で口を開く。
「デイナちゃんって、可愛いよね」
「はあ?」
デイナが顔をしかめる。
「どういう意味ですか、それ?」
「実はみんなで歩くのが楽しくて楽しくて仕方無いくせに、わざと不満げに言っている。そういうところが可愛いのよ」
「ち、ち、ち、違います!」
デイナが赤面になる。
「私はこんな単純なことで楽しくなるような人ではありません! 私は大貴族の娘として豊富な教養を身に着けてきて……」
「デイナ嬢」
黒猫がデイナを見つめる。
「デイナ嬢は……私たちと外出するのが楽しくないのですか?」
「うっ……い、いいえ!」
デイナが急いで首を横に振る。
「た、楽しくないとは言っていません! だ、大貴族もたまには……庶民たちの街を経験するのも悪くないと思うし!」
「そういうことは、私には理解が難しいです。でも……デイナ嬢が楽しいなら嬉しいです」
黒猫が微かな笑顔になる。それを見て、俺たちも自然に笑顔になった。
---
『銅色の区画』に着いた俺たちは、しばらく街の中を歩き回った。ここは区画全体が大きな市場になっているから、ただ歩く回るだけでもいろんな商店のいろんな商品が見られる。
食べ物や衣服はもちろん、アクセサリーや武器などを扱う店もある。戦乱のせいで経済が悪化しているとはいえ、まだまだ王都の商店街には活気が残っている。
「ふーん」
俺がパン屋でクリームパンを買うのを見て、デイナが興味津々な顔をする。
「なるほど……お金を数えて渡して、選んだ商品を頂く。商店ではそうやって取引をするのですね。初めて拝見しました」
「……お前、それ本気で言っているのか?」
「もちろんです」
デイナが傲慢な顔になる。
「私は今まで、自分の手で取引をしたことなどありません。お金なら私が一々数えなくても、使用人が事前に支払いますから」
「別に自慢げに言うことではないと思うけど……」
俺は思わず苦笑いした。
シェラは実家がお金持ちだけど、別に『箱入りのお嬢さん』ではない。格闘技好きで父親から『じゃじゃ馬』と呼ばれるほど活発な女の子だった。シルヴィアは貴族の娘ではあるが、実家があまり裕福ではなかったから、幼い頃から両親の仕事を手伝った。それに比べると……デイナは本物の『箱入りの貴族のお嬢様』なのだ。
「ほら」
俺は猫姉妹とデイナにクリームパンを1個ずつ渡した。猫姉妹は早速パンを食べ始めるけど……デイナは目をぱちぱちとさせるだけだ。
「どうした、デイナ? まさか有名なシェフのパンじゃないから食べられないのか?」
「いいえ、別に……」
デイナが首を振る。
「レッド様のおかげで、軍隊の食事をいっぱい食べさせられましたから……これくらいはどうということではありません。ですが……街を歩きながらパンを食べるなんて……」
「いいじゃないか、その方が楽しいし」
「……まったく」
デイナはぶつぶつ言ってから、クリームパンを少しだけかじる。
「どうだ、楽しいだろう?」
「……お母様に今の姿を見られたら、何を言われるか……」
「へっ」
俺たちはパンを食べながら、商店街を歩き続けた。経済が少しずつ回復しているせいだろうか、以前より通行人が増えた気がする。しかも通行人の中には、『ロウェイン伯爵』について話したりする人々もいる。大半はあまり根拠のない噂話だが、たまに鋭い考察をする人もいる。
そして1時間くらい後、とある酒場兼レストランに入った。『美声のルーク』が働いているところだ。しかも今日は……彼の弟子も一緒に公演するみたいだ。
快適な空間の中に多数のテーブルが並んでいて、多くの客たちが食事やお酒を楽しんでいる。別に普通の光景だが……デイナは目を丸くする。こんな風景も初めてなんだろう。
「こちらです」
奥のテーブルに座っていた女性が、俺たちを呼んだ。『夜の狩人』の工作組であり、ルークに創作素材を提供している鳩さんだ。
俺たちは鳩さんと一緒にテーブルに座って、店員に飲み物を頼んだ。すると早速公演が始まる。
「大変お待たせしました!」
自信に満ちた声と共に、まだらな服装を着ている長身の男が現れる。この酒場の看板吟遊詩人、美声のルークだ。
「何を隠そう、王都一の吟遊詩人……『美声のルーク』とは私のことです! 天才吟遊詩人、今日も参上致しました!」
ルークが大げさにお辞儀しながらいつもの自己紹介をすると、客たちが歓声と共に拍手を送る。
「ルーク様、こっち見てください!」
「今日も素晴らしい公演を見せてください!」
最近のルークは本当に大人気みたいだ。貴族の屋敷に呼ばれることも頻繁にあるらしい。
しかし今日は……ルークも1人ではない。仲間がいる。
「今日は皆様に重大なお知らせがあります! 実は……今日の公演には、この私の1人弟子も参加致します!」
ルークの宣言に、客たちが驚く。
「ではでは、紹介させて頂きます! 長年の修行から帰ってきた天才少女……吟遊詩人見習いのタリアちゃんです!」
ルークの後ろから、まだらな服装を着ている小柄の少女が姿を表す。少し緊張しているが……俺たちの知っている明るい顔のタリアだ。
「おお、可愛い!」
「ルーク様に弟子がいたんだ……!」
客たちがもう1度拍手を送った。タリアは大げさな動作でお辞儀する。
「皆様の歓迎、心から感謝を申し上げます! このタリア、今は微力ですが……いつか師匠をも越える吟遊詩人になりたい所存であります!」
タリアの宣言に、客たちはもう1度驚く。いや、驚いたのは客だけではない。ルークも驚いた顔で自分の弟子を見つめている。
「ではでは、師匠と私の公演……思う存分お楽しみください!」
その言葉を聞いて、ルークは慌てながらも公演を始める。ルークとタリアの歌声が店内に鳴り響き、客たちを楽しませる。ルークはもちろんだけど、タリアの歌声にも人々の心を掴む力がある。
「立ち直ったみたいだな、タリア」
俺は内心安堵した。黒猫も明るい顔でタリアの公演を楽しんだ。白猫と鳩さんは一緒にお酒を飲み、デイナは戸惑いながらも気持ちは悪くないみたいだ。
---
2時間くらい後……俺たちは鳩さんと分かれて、宮殿への帰路についた。
「今日も楽しかったわね」
白猫が満足げな笑顔を見せる。お酒を飲んだからか、白猫の頬は赤く染まっている。
「次はシェラちゃんとシルヴィアちゃんも連れてきましょう」
「まあ、あの2人なら……デイナよりは楽しむだろうな」
俺がそう言うと、デイナが睨んでくる。
「何を仰っているのですか? 私も十分に楽しませて頂きました」
そう言いながら、デイナは手を伸ばして黒猫の頭を撫でた。黒猫は満足げな顔になる。
俺たちは他愛のない話をしながら、一緒に歩いた。もう深夜だから通行人も減っている。酒場に向かう大人たち、帰宅するカップル、娼館を出入りする中年男性が見えるだけだ。
「……ん?」
しかしその時……一瞬だけだけど、俺は妙な違和感を覚えた。
「あいつは……?」
「どうしたの、レッド君?」
白猫が俺を凝視する。
「まさか……暗殺者? 私は何も感じられなかったけど……」
「いや、そんなものではない」
俺は首を横に振ってから、大通りの向こうの娼館を見つめた。
「ついさっき、あの娼館に入った中年男性に……見覚えがある」
「どういうこと?」
「まさかあいつ……」
俺は眉をひそめた。ついさっき、フードを被って娼館に入った中年男性は……俺とシェラに『週末教室』を案内してくれた女神教の修道士、『テレンス』だったのだ。




