第392話.赤竜の吐息
4月23日の朝……俺は野営地の真ん中に立って、空を見上げた。太陽が眩しい。そして……風もちょうどいい。
「……いい天気だ」
俺は小さく呟いてから、後ろを振り向いた。俺の側近たちが並び立って、俺を見つめている。
「トム」
俺が呼ぶと、誠実過ぎる副官が「はっ」と答える。
「準備はどうなった?」
「万全です。総大将の指示があれば……いつでも野営地から撤退出来ます」
「そうか。じゃ、今から作戦を実行する」
俺の宣言が響き渡ると、周りの空気に緊張感が漂い始める。激戦を前にした時特有の、静かだが激しい緊張感だ。でも俺の側近たちは緊張に飲まれずに平静を維持している。もうみんな……歴戦の戦士たちだ。
「シェラ」
「うん」
「本隊の指揮は任せる。予定通りに動いてくれ」
「うん、任せて」
俺の婚約者であり、秘書であり、軍指揮官であるシェラが頷いた。
「カレン」
「はい」
「お前と『錆びない剣の傭兵団』は、殿を担当する。撤退する味方の後方を守ってくれ」
「お任せください、団長」
カレンが直立不動で答えた。彼女と『錆びない剣の傭兵団』は、傭兵でありながら正規軍以上に規律の取れた部隊だ。殿も安心して任せられる。
「そして『レッドの組織』は……」
俺は残りの5人を見つめた。レイモン、ジョージ、ゲッリト、カールトン、エイブ……負傷したリックを除いて、俺の誇らしい親衛隊が集まっている。
「もちろん俺と一緒に行く。騎兵隊で一暴れするぞ」
5人の戦士が笑顔で「はっ」と答えた。これでいい。
俺と『レッドの』組織は、各々の軍馬に乗った。そして3百の重機兵隊を率いて……野営地の外に向かった。
「伯爵様が出陣なされる!」
兵士たちが5列に並んで、俺の出陣を見送る。彼らにとって、俺はもう『レッド』という個人ではない。勝利と希望の象徴……そして奇跡を起こす『赤竜の化身』なのだ。
兵士たちは、まるで教会で礼拝をしているような……厳粛な眼差しで俺を見上げる。総大将に対する、信仰に近い信頼……これがある限り、『赤竜の軍隊』はどんな時も揺るがない!
「では、行くぞ」
やがて野営地の外に出た時、俺と純血軍馬ケールは広い平原を疾走し出した。仲間たちと重機兵隊も俺の後ろを走る。全員赤色の鎧を着ている『戦場の悪魔たち』だ。馬の足音が鳴り響き、砂埃が舞い上がる。
「あいつは……」
「赤い化け物だ! 赤い化け物が出てきた!」
俺の出陣を見て、数百メートル離れている敵本隊が警戒態勢に入る。もうすぐ自分たちが攻撃しようとしたのに、まさか相手の方から動くとは……思ってもいなかったんだろう。
俺と重騎兵隊は大きく迂回して、敵本隊の右側面に接近した。それで敵本隊は右側面に戦力を集中する。1千を超える槍兵が並んで、騎兵では突破し難い壁を作る。
「かかってこい、赤い化け物!」
敵の傭兵が叫んだ。『いくら赤い化け物でも、3倍以上の槍兵を突破するのは無理』……そう考えたんだろう。しかも敵の大半は戦争慣れした傭兵だ。確かにあれは……俺にも簡単には突破出来ない。
「へっ」
しかし俺は敵の側面に突撃せず、ひたすら移動を続けた。
「あいつ……何しているんだ?」
「どうして攻撃して来ないんだ?」
「油断するな! やつが何をするか分からない!」
敵軍の視線が俺に釘付けになる。当然のことだ。赤い化け物の率いる騎兵隊の威力は、もうみんな知っている。警戒せずにはいられないはずだ。
そして俺と重機兵隊が敵の注目を集めている間に、俺の本隊が動き出す。
「みんな、今よ!」
シェラが大声を出すと、俺の本隊が野営地から出る。そして……王都への撤退を開始する。3千の兵士が隊列を組んで、戦場から離脱していく。その光景を見て、敵軍がざわめく。
「まさか……赤い化け物は囮だったのか?」
「敵が逃げていくじゃないか!」
アルデイラ公爵軍の方から激怒の声が上がる。何が始まるのかと緊張していたのに、『赤竜の軍隊』はこっそり野営地を捨てて逃げているのだ。
「へっ……あばよ」
俺も重機兵隊と一緒に進行方向を反転して、王都へ走り出した。それで敵本隊がどんどん遠くなる。このまま王都の中に入ってしまえば、どの道俺たちの勝ちだ。敵を脅してからの、迅速な撤退作戦……まさか『赤い化け物』がこんなせこいことをするなんて、自分でも苦笑いが出る。
「このまま敵を逃してはならん! 追撃する!」
敵本隊、8千の軍隊が全速で追撃を開始する。アルデイラ公爵軍としては……俺が王都に入る前に撃破する必要がある。この機会を逃すわけにはいかないのだ。
3千の軍隊が戦場から撤退していき、8千の軍隊がそれを追う。広大な平原は両軍が進軍する音に埋もれてしまう。これはもう戦闘ではなく競走だ。
しかし……数分後、いきなり状況が変わる。
「な、何をするんだ!?」
アルデイラ公爵軍の士官が慌てて声を上げる。
「敵の野営地は放っておけ! 逃げていく敵軍を追うんだ!」
敵士官が必死な声で指示を出すが……アルデイラ公爵軍の大半は追撃を止めて、俺たちが捨てた野営地に向かう。
当然だ。敵の大半は傭兵……しかも統制の効かない傭兵だ。少数の正規軍の指示なんて、素直に受け入れるはずがない。鼻で笑うだけだ。
もし『黒豹団』のクレイグが生きていれば、敵軍を統率して俺の軍隊を執拗に追撃してくるだろう。しかし今敵の陣営には、多数の傭兵団をまとめられる人物がいない。みんな自分の欲望だけを優先している。そんなやつらが……危険を冒してまで『赤い化け物』を追撃するはずがない。
『赤い化け物を追撃したところで、やつを仕留めるのは無理』、『赤い化け物の軍隊は強い。無理に戦ってもクレイグのように死ぬだけ』、『そんなことより……敵野営地から物資を略奪した方が得だ』……敵傭兵の大半は、そう思っているのだ!
「お、おい! 待て!」
敵士官が慌てている間にも、多くの敵傭兵は俺たちの野営地に入り、好き勝手に物資を略奪する。食糧と装備、天幕と衣服まで……血眼になって略奪を続ける。
「その剣は俺のものだ! 俺に寄こせ!」
「何言っているんだ!? これは俺が先に見つけた!」
数千に至る傭兵たちが、少しでも欲望を満たすために物資を奪い合う。こいつらはもうそんな行動が日常になっている。『錆びない剣の傭兵団』や『黒豹団』とはまるで違う。戦場の猛獣ではなく……強敵を避けて民間人を略奪する、ただの盗賊の群れだ。
そして欲に目が眩んだ盗賊の群れは、俺の本隊から小さな変化が起きたことに気付かなかった。
「全速で走れ!」
俺の副官であるトムが、十数人の軽騎兵を率いて本隊から離脱し……ついさっき捨てた味方野営地に向かう。しかも彼らは全員……真昼なのに火のついた松明を持っている。
「あ……?」
一部の敵傭兵が、トムを見て首を傾げる。しかしもう何もかも遅い。やつらが何か反応する前に、トムと軽騎兵たちは味方野営地に接近して……。
「火をつけろ!」
トムの指示と共に、軽騎兵たちが松明を投げる。松明は味方野営地に積まれていた干し草にぶつかる。作戦成功の瞬間だ。
味方野営地の所々には、軍馬の餌用の干し草が積もれている。別にそれは普通のことだが……昨日の夜、俺たちは干し草の下にこっそり油をばら撒いておいた。その油と松明の火が接触し、一気に燃え上がる。
「な、何だ……!?」
「おい、これは……!」
干し草から発火した炎が近くの木柵に燃え移る。味方野営地を囲んでいる木柵だ。そして炎は周辺の天幕にも広がり……瞬く間に火災となる。
「続けろ!」
トムと軽騎兵たちはまた松明に火をつけて、まだ燃えていない干し草に投げる。それで味方野営地は四方が炎に囲まれる。
「どういうことだ!?」
「火、火事だ!」
さっきまで物資を略奪していた傭兵たちが、いきなり始まった大火災を見て言葉を失う。もう戦場慣れしているかどうかなんて関係ない。四方からどんどん迫ってくる炎と煙を前にすれば……歴戦の傭兵も闘志を失ってしまう。
「うわああああっ!」
天幕の中で物資を略奪していた傭兵が、天幕ごと焼かれてしまう。その悲惨すぎる光景を見て、周りの傭兵たちは野営地から逃げ出そうとする。幸い……東の入り口は火災の勢いが弱い。
「あっちだ! あっちに逃げろ!」
「お、俺が先だ!」
数千の傭兵が恐慌に陥り、我先にと東の入り口に向かう。しかしそこで彼らを待っていたのは……『錆びない剣の傭兵団』だ。
「敵を殲滅しろ!」
カレンが命令すると、『錆びない剣の傭兵団』が突撃して敵傭兵を撫で斬りにする。東の入り口の火災が弱かったのは、最初から罠だったのだ。命の危機の時、逃げ道があれば……抵抗を諦めてひたすら逃げようとする。そうなったらもうただの獲物だ。
「た、助けてくれ……!」
「がはっ……!」
敵傭兵たちが悲惨な悲鳴を上げる。炎に焼かれ、煙に窒息され、剣に斬られる。いくら戦争経験の多い兵士だとしても、ここまで惨たらしい光景は見たことないだろう。
やがて炎の海が味方野営地を完全に覆ってしまう。眩しい太陽の下で、真っ赤な炎だけが無情に燃え上がり続ける。もう悲鳴すら聞こえなくなった。
「だ、駄目だ……!」
数千の傭兵が呆気なく死んでしまった状況を目撃し、アルデイラ公爵軍の士官は命令を出すことも忘れてしまう。いや、彼だけではない。運良く略奪に参加しなかった敵兵士たちも……全員言葉を失って凍りついてしまう。そんな彼らの前に『赤い化け物』が現れる。
俺は大剣を手にしたまま、敵士官を睨みつけた。
「貴様、何しているんだ?」
「あ、赤い化け物……」
「死にたいならかかってこい。死にたくなければ……逃げろ」
俺の言葉を聞いて、敵士官ははっと気がつく。
「た、退却だ! 退却しろ!」
敵士官が必死な声で叫ぶと、アルデイラ公爵軍が一斉に敗走する。隊列も何もなく、ただ『赤竜』から逃げるために走る。
「ボス……」
レイモンが俺に近寄った。俺は首を横に振った。
「もう俺たちの勝ちだ。追撃する必要はない」
「はい」
レイモンが安心した顔で頷いた。
逃げていくアルデイラ公爵軍の兵士たちは……もう戦えない。『赤竜の旗』を見る度に、今日目撃した地獄の風景を思い出すだろう。やつらにとって俺は『赤竜』そのものだ。炎で全てを焼き尽くす悪魔そのものだ。そんな化け物とは……もう戦えまい。
「帰還するぞ」
いつもとは違い、俺たちは静かに帰還した。




