第380話.互いの目標
3月31日、宮殿の庭園は花に包まれた。
年初から庭師たちが頑張ってきたおかげで、春の花が満開している。それで宮殿の庭園は黄色と桃色でいっぱいになった。まるで庭園そのものが1つの大きな花になったようだ。
「……惜しいな」
会議室の窓辺で庭園を眺めながら、俺はそう呟いた。
美しい風景や不思議な光景を見る度に、いつも心の中でそう思ってしまう。これを俺だけ見るのは惜しい。あの子にも見せてやりたい……と。
きっとアイリンも同じ気持ちのはずだ。何か不思議なものを見つける度に『レッドにも見せてやりたい』と思っているに違いない。いくら離れていても……お互い同じ気持ちでいる。それこそが本当に不思議なことなのかもしれない。
「さて、と……」
俺は自分の席に戻って、朝の仕事を始めた。今日も俺が決済するべき書類がたくさんある。法務部と財務部の仕事はエミルとシルヴィアの担当だが、王都行政部の首長は俺なのだ。全体的な統治の方向を決める役割は、他の人には任せられない。
「……ん?」
法務部の報告書を読んでいる途中、遠くから音が聞こえてきた。これは……男の掛け声だ。
「裏庭園の方から……?」
俺は首を傾げた。裏庭園で『レッドの組織』が朝の訓練をしている……はずがない。確か今日の訓練は休憩だ。みんな出かけたり、家族と一緒に過ごしているはずなのに……。
「誰かが1人で訓練している……?」
一体誰なんだろう? 好奇心に導かれて、俺は会議室を出た。そして宮殿の裏門を潜り抜けて、裏庭園に向かった。
「うりゃあ!」
予想通り、裏庭園では組織員が1人で訓練をしていた。木の枝にぶら下がっている砂袋に向かって、全力で格闘技の技を試している。しかもあいつは……。
「……ゲッリト?」
俺は驚いた。1人で訓練していたのは、ジョージでもカールトンでもなく……ゲッリトだったのだ。
「ボス」
ゲッリトが俺の方を振り向いて、笑顔を見せる。俺は彼に近づいた。
「どうしたんだ、ゲッリト? 今日は休憩の日だろう?」
「は、はい。ですが……いきなり訓練がしたくなって」
ゲッリトが恥ずかしそうに笑う。
ゲッリトは決して訓練を疎かにするやつではない。日頃の訓練量はレイモンにも遅れを取らない。でも……休憩の日は、いつも女の子を口説いているやつだ。
「お前のことだから、てっきり宮殿のメイドを口説いているんだと思っていたのに」
「ま、確かに可愛い子が多くて嬉しいです。でも……」
ゲッリトが砂袋を見つめる。
「閃いたというか、何かが変わったというか……」
「閃いた?」
「はい」
ゲッリトが真顔で視線を落とす。
「以前、ジョージのやつが言ったじゃないですか。『いつもレイモンさんやゲッリトに勝ちたかった。でも今は、そんなことはどうでもいい』と。俺……それを聞いて驚きました」
ゲッリトは自分の手のひらを見つめながら、話を続ける。
「俺も……いつも思いました。ジョージのやつにだけは負けたくないって」
「なるほど」
ゲッリトとジョージは、まるで本当の兄弟みたいに仲が良い。しかし……同時にお互いをライバルとして認識していたのだ。
「だから俺は……心のどこかでは、ジョージの強さを認めたくなかったんです。嫉妬……していたんです」
「普通のことさ」
「はい。でもあの夜……ジョージが『そんなことはどうでもいい』と言った時、俺は認めざるを得なかったんです。あいつの強さを」
ゲッリトが深呼吸をする。
「あいつは俺なんかよりずっと大きな目標を持っているんです。だから強くなったんです。それを認めた時、少し悲しかったけど……俺も立ち止まっているわけにはいかないと思いました」
しばらく間を置いてから、ゲッリトは拳を握って口を開く。
「無駄な意地は捨てろ……って自分に言い聞かせました。俺自信がジョージより弱いのを認めて、ちゃんと勉強し直そうと思いました。すると……周りのみんなから学べるものがあることに気付きました」
ゲッリトの全身から気迫が発せられる。以前の彼とは全然違う……静かな気迫だ。
「ボスやレイモンさんの戦い、ジョージの怪力、カールトンの誠実さ、エイブとリックの賢さ……全てから学べるものがあったんです」
「ゲッリト、お前……」
俺は驚いた。ゲッリトは……もう1度開花しようとしている。才能の限界を超えて、もっと強くなろうとしている。
これは……見覚えがある。大怪我から生還したレイモン、そして恋人に愛を誓ったジョージが見せた変化だ。ただ進歩したわけではなく、根本から何かが変わり……迷いが無くなった。
「へっ」
俺はつい笑ってしまった。
「みんな、どうしてそんな急に強くなれるんだ?」
「ボスを見習ったんですよ」
「俺を?」
「はい」
ゲッリトがニヤリと笑う。
「『ボスは常に自分自身の限界を超えている』……ジョージのその言葉、俺も今は理解出来ます。ボスには、限界なんて意味が無いんですよ」
「……俺には、正直良く分からないけどな」
「ボスみたいな凄い人も、自分自身のことを全て理解しているわけではないんですね」
笑顔で頷いてから、ゲッリトは俺を見つめる。
「でも事実なんです。ボスは周りのみんなのために、いつも限界を超えていらっしゃる。その力と意志に惹かれて、俺たちも強くなっているんです」
「……それなら良かった」
俺も笑顔で頷いた。たとえ自覚が無くても、互いに影響を与えて強くなる……それが俺たちの道かもしれない。
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その日の午後、俺は大宴会場に向かった。そこで黒猫に『制圧術』を教える予定なのだ。
「いち、に、さん……いち、に、さん……」
しかし俺が来る前から、黒猫は授業を受けていた。大宴会場の真ん中で……デイナに『踊り』を教えてもらっていたのだ。
「ここで1回転!」
黒猫とデイナは質素なドレスを着て互いの手を取り、ステップを踏みながら踊っている。デイナが男役で、黒猫が女役だ。抱きついたり離れたりと、ずいぶんと本格的だ。音楽は無いけど……本当に貴族のパーティーで踊っているみたいだ。
「これで終わり。お互いに向かって挨拶!」
やがて黒猫とデイナは踊り終えて、互いに向かって優雅にお辞儀する。完璧な動作だ。俺はつい拍手してしまった。
「ふふふ」
デイナが満足気に笑った。
「やっぱり黒猫さんは身動きが違いますね。短期間でここまで踊り上手になるなんて」
「ありがとうございます……デイナさん」
黒猫がデイナに向かってペコリと頭を下げる。そんな黒猫をデイナがじっと見つめる。
「どうですか? このまま社交界にデビューするのは?」
「『しゃこうかい』……?」
「黒猫さんは可愛いですからね。もう少し年を取ると、きっと多くの男性から恋文をもらうはずです」
「私は……」
黒猫が俺の方をちらっと見る。
「私は『夜の狩人』の一員です。任務のため……『しゃこうかい』には行けません」
「あら、残念ですね」
デイナが頷く。
「私の従姉妹だと適当に嘘をつけば、王都の貴族もみんな騙されるはずですけどね」
俺は苦笑した。デイナなら本気でやりかねない。
「頭領様」
黒猫が俺に近寄った。俺は黒猫の頭を撫でてから『制圧術』の授業を始めた。黒猫は俺の指示に従って、真面目な顔で木の棒を振るった。
「よし、いい具合だ」
黒猫の練習を見て、俺は何度も頷いた。
「しっかりと長所を伸ばしているな。このまま鍛錬を続けば、強者にも通用するだろう」
「ありがとうございます」
黒猫は……笑った。俺とデイナは驚いた。いつもは無表情の黒猫が、微かだけど笑ったのだ。
「……これは降参ですね」
デイナが肩をすくめる。
「黒猫さんは、踊りよりも戦いの方が好きみたいです」
「へっ」
俺はニヤリとしてから、黒猫の方を見つめた。
「今日の鍛錬はここまでだ。デイナは俺に任せて、お前は休憩しておけ」
「はい、分かりました」
黒猫はペコリと頭を下げて、大宴会場を出た。それで俺とデイナは2人きりになった。
「お茶でもしませんか、レッド様?」
「いいだろう」
俺とデイナは近くの応接間に言って、一緒にテーブルに座った。するとメイドたちがお茶とクッキーを持ってきてくれた。
「黒猫が大分明るくなったみたいだな」
お茶を1口飲んで、俺はデイナを見つめた。
「お前のおかげだ。ありがとう」
「私は何もしておりません」
デイナもお茶を1口飲んだ。
「黒猫さんが真面目すぎるから、少しからかっただけです」
「黒猫の目線に合わせたんだろう? それだけで十分なのさ」
その言葉に、デイナは微かな笑みを浮かべた。
「……先日、レッド様がおっしゃいましたよね。『後継者じゃないからって、自分の子供を捨て駒にしたくはない』……と」
「ああ、言ったな」
「その言葉、本気ですか?」
「俺はいつでも本気さ」
クッキーを1つ口に入れてから、俺は話を続けた。
「俺は今までいろんな家族を見てきた。貴族と平民、金持ちと貧民……形はそれぞれだけど、1つの共通点があった。仲の良い家族が……幸せに見えたことだ」
「なるほど」
「たとえ俺が国王になっても、家族の仲が悪かったら……たぶん日常を楽しめない」
「日常を楽しめない……」
「楽しめるかどうか、それが俺には大事なんだ」
俺はお茶をもう1口飲んだ。
「俺は今も楽しんでいる。王都の統治者という立場を。だからこそ全力を出せるのさ」
「……でも、統治って楽しいことばかりではないでしょう? 複雑な書類仕事もたくさんあるし」
「もちろんだ。しかしそれも楽しさのための過程なのさ」
俺はニヤリと笑った。
「面倒なこともたくさんあるけど……全て目標に辿り着くための過程だ。俺は……過程を楽しみたい。簡単に全てを手に入れたら、すぐ飽きてしまうだろうからな」
「ふふふ」
デイナが面白そうに笑った。
「そういう風に言う人は、今まで見たことがございません。レッド様は……本当に不思議ですね」
「そうかもな」
「でも……私は……」
デイナは何か言おうとしたが、首を横に振ってお茶を飲んだ。
「……私、考えてみました」
「何を?」
「私に……『和気藹々とした家庭』を築けるかどうか、それを考えてみました」
デイナは真っ白なティーカップを見つめる。
「私も『和気藹々とした家庭』が何なのか、正直良く存じていません。お母様が魔女でしたから」
「へっ」
「ですが……『和気藹々とした家庭』を築くのは大事だと存じます」
デイナは手を伸ばして、ティーカップをそっと撫でる。
「しかし問題がございます。私は……レッド様もご存じ通り、男性恐怖症です。レッド様以外は……触れることすら無理です。だから……大変残念ですが、選択の余地がございません」
「なるほど」
俺は腕を組んだ。
「つまり、お前が『和気藹々とした家庭』を築くためには……俺の妻になるしかないんだな」
「……そんなに直接的に仰っしゃらないでください」
デイナが睨みつけてくる。
「事前にお話しておきますが、私はレッド様に大変不満です……! あくまでも選択の余地が無いから……」
「へぇ、例えばどんな不満があるんだ?」
「た、例えば……」
デイナは少し考えてから口を開く。
「そう、貴族の礼儀に無知なところです! 王都の統治者であろうお方が、態度が雑すぎです!」
「でもそんなところが好きなんだろう?」
「はあ……?」
デイナは怒った顔で俺を見つめる。
「自惚れないでください……! 別に私はレッド様のことが好きなわけではございません! あくまでも仕方が無いから……」
「じゃ、俺の方から遠慮する」
俺は平然な顔でクッキーを食べた。
「俺に不満だらけの女と婚約するほど、飢えていないんだ」
「な、何ですと……!?」
デイナの顔が真っ赤になる。
「わ、私はクレイン地方一の美少女と呼ばれています! 私に恋心を寄せている男性は星の数ほどいます! それなのに……」
「確かに顔は可愛いけどな……性格があれだからな」
「キーッ!」
デイナは席から立ち上がって、俺の腕を掴んだ。
「レッド様に拒否権などございません! 私の言うことを聞きなさい!」
「おい、貴族のレディらしくないぞ」
「そんなことはどうでもいいです! 私に恥をかかせるなんて!」
デイナが俺の手を引っ張る。まるで子供みたいだ。
「せっかくいい雰囲気でお話ししたのに……レッド様は……!」
「分かったから落ち着け、デイナ」
「だから嫌いなんです、貴方みたいな人は……!」
デイナは綺麗な顔は真っ赤になり、美しい瞳には涙が浮かんでいる。俺は内心苦笑してから……デイナの細い腰を抱きしめて、彼女の真っ赤な唇にキスした。
「な、何を……!」
「じっとしていろ」
デイナはしばらく足掻いたが、結局静かになった。そして俺たちは唇を重ねたまま、ずっと互いの体温を感じ合った。




