第378話.変化への挑戦
朝の訓練を終えて、俺は宮殿の自分の部屋に戻った。そして浴槽で体を洗い、礼服に着替えた。俺用に裁断された、最高級のシルクの礼服だ。礼服にしては動きやすくて助かる。
「よし」
俺は部屋を出て宮殿の3階に登った。3階は基本的に王族のための空間であり、多数の応接間やベッド室が並んでいる。今日の俺の目的地は……中央の応接間だ。
「伯爵様」
広い廊下を歩いていると、数人のメイドたちとすれ違った。彼女たちは俺に丁寧に頭を下げる。俺は先頭のメイドを見つめた。
「ちょっと聞きたいことがある」
「はい、何でしょうか」
「シェラは中央の応接間にいるか?」
「はい、シェラ様なら……メイド長とお話し中です」
先頭のメイドが真面目な顔で答えた。俺は「ありがとう」と言ってから、中央の応接間に入った。
中央の応接間は広くて快適だ。多数のテーブルとソファー、本棚や陳列台などがあり、王族が気楽に休憩出来るようになっている。
南側のテーブルに2人の女性が座っている。中年のメイド長、そして俺の婚約者であるシェラだ。俺は2人に近づいた。
「伯爵様」
俺の姿を見たメイド長が素早く立ち上がって、優雅にお辞儀する。もう何十年も宮殿で生活した人だから、こういう動作は完璧だ。
「2人で何話していたんだ?」
「いつも通り、宮殿の管理についてよ」
シェラが苦笑いする。
「この宮殿、本当に広くて人も多いからね。毎日いろんなことが起きて……気を使わなければならない。だからメイド長さんからしっかりと教えてもらっているわけ」
「そうか」
俺は頷いた。シェラは俺の婚約者として、つまり王都の統治者の伴侶として、俺たちの住処であるこの宮殿の管理をしっかりと学んでいるわけだ。
「シェラ様のご配慮には、いつも感謝しております」
メイド長が真面目な顔で言った。
「私たち使用人のことも、シェラ様は深く理解してくださっています。おかげで私たち全員、安心して伯爵様にご奉仕することが出来ます」
「いえいえ、私は別に大したことはやっていませんから」
シェラが赤面になって手を振った。年長者から真顔で褒められて恥ずかしいようだ。
「ところで、レッドは何しに来たの?」
「お前と話がしたくてな」
シェラの質問に答えてから、俺はメイド長の方を見つめた。
「良ければ、ちょっと席を外してくれないか?」
「はい、もちろんでございます」
メイド長は深く頭を下げてから、応接間を出た。俺はシェラの向かいに座った。
「失礼致します」
俺が座るや否や、メイドたちが素早くお茶とクッキーを持ってきてくれた。俺とシェラは一緒にお茶を飲んで、クッキーを口に入れた。
「……何か大事な話でもあるの?」
シェラが俺の顔をじっと見つめる。俺は軽く頷いた。
「もうすぐ王都の統治体制を整えるつもりだ」
「体制を?」
「ああ、具体的に言えば……まずシルヴィアを王都財務官に就任させるつもりだ」
俺はシェラの顔を凝視した。シェラは……明るい顔で手を叩く。
「確かにそれはいい考えかも!」
「そう思うのか?」
「うん、だってシルヴィアさん以外に適任者がいないでしょう?」
「それはそうだけど」
俺は微かに笑った。
「実は……シルヴィアはあまり就任したくないみたいだ」
「どうして?」
「シェラ、お前のことを気にしているからさ」
「私?」
シェラが目を丸くする。
「ちょっと待って。どうしてそこで私が出るの?」
「王都財務官に就任したら、シルヴィアは事実上王都の2番目の権力者になる。つまり……シェラ、お前より権限が大きくなるのさ」
「まさか……」
シェラが困惑の笑みを浮かべる。
「まさかそんなことのせいで?」
「シルヴィアは思慮深い人だからな」
「何よ、私は思慮が浅いとでも?」
シェラが半目で俺を見つめてから、ため息をつく。
「状況は理解したけど……私はやっぱりシルヴィアさんが財務官に就任した方がいいと思う」
「そうか」
「うん。私には私なりのやることがあるし、シルヴィアさんにはシルヴィアさんなりのやることがあるからね」
俺は少し驚いて、シェラを見つめた。
「ん? 私の顔に何かついてる?」
「いや……お前にも思慮深いところがあるんだな、と」
「何よ、その言い方」
シェラはまた半目で俺を睨んでから、そっと俺の手を掴む。
「それにさ……レッドにとって私が1番なんでしょう?」
「ああ、その通りだ。これからもその事実に変わりはない」
俺もシェラの手を掴んだ。2人の鼓動は、不思議にも一致していた。
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シェラとの話を終えて、俺は2階の会議室に入った。会議室にはエミルが1人で書類仕事をしていた。
「ふう」
俺はため息をついて、真ん中の席に座った。そこはもう俺の指定席だ。
「……何か大変なことでもありましたか?」
羽ペンで書類を作成しながら、エミルが聞いてきた。
「まあな。大変と言えば大変だった」
俺は苦笑いした。
「側近たちの私生活にまで口出ししたくないけど……たまには必要だからな」
「なるほど」
エミルが頷いた。俺は彼の方を見つめた。
「実は、もうすぐシルヴィアを王都財務官に就任させるつもりだ」
「そうですか」
「反対しないのか?」
「反対する理由がありません」
エミルが冷たく言った。
「シルヴィアさんは、経済や会計に関して専門的な知識を持っている。しかも総大将の意向に従って仕事をこなしている。あれほど有能で信頼出来る財務官も他にいないでしょう」
「お前もそう見ているのか」
俺は腕を組んだ。
「実は……シルヴィアの王都財務官就任と同時に、お前を王都法務官に就任させるつもりだ」
その言葉に、エミルの羽ペンが止まる。
「……法務官に、ですか」
「そうだ。お前はいろんな知識を持っているが……どちらかと言えば、法務官に向いていると思ってな」
エミルは口を噤む。
「どうした? 気に入らないのか?」
「……いいえ」
「じゃ、法務官になってもらおう」
「かしこまりました」
静かに答えてから、エミルは書類作成を再開する。
俺はエミルが作成した書類を手にして、じっくりと読んだ。どれも簡潔で、分かりやすく作成されている。それに内容もしっかり詳細に書いてある。これは……頭が良くないと無理だ。
「不思議だな」
「何がですか?」
「お前との縁が、だよ」
俺はニヤリとした。
「3年前、偶然入った小屋で……没落貴族のお前に出会った。俺の道に大きく貢献出来る人材を、本当に偶然に出会ったわけだ。その縁が……本当に不思議に思える。いや、幸運と言うべきかな」
「ふっ」
エミルが笑った。彼にしても珍しいことだ。
「逆ですよ、それ」
「何?」
「私のような者は、掃いて捨てるほどいます。総大将に出会って幸運なのは……私の方なんですよ」
エミルはしばらく考えてから、また口を開く。
「……以前、私の故郷で追放された法務官がいました。その話、覚えていますか?」
「ああ……確か無実の人を弁護して追放されたとか、そういう話だったな」
「はい。その法務官というのは……実は私です」
やっぱりか、と俺は内心頷いた。
「私の故郷は、東の『レデナ地方』の『レーン伯爵領』です」
「この王国の最東端の地域だな」
「はい。おかげで隣のルケリア王国とは、昔から衝突が頻繁にありました」
エミルの顔が強ばる。
「何度か戦争もありましたが……レーン伯爵領はそれなりの軍事力を持っていたから、どうにか侵略されずに済みました。しかし前回の大戦で……結局ルケリア王国によって占領されたのです」
前回の大戦……今から18年前の戦争だ。あの戦争によって、この王国は大きな被害を受けた。
「ルケリア王国の占領は、長くありませんでした。ルケリア王国軍はたった1年で後退しましたから。しかし……レーン伯爵領の市民たちにとって、その敗北は大きな屈辱となりました」
「なるほど」
「だからこそ……市民たちは探し出そうとしたのです。敗北をもたらした『犯人』を」
「いや、それは……」
「はい、非理性的です」
エミルが乾いた笑みを浮かべた。
「そもそもの話、ルケリア王国に負けたのは敵が強かったからです。しかしレーン伯爵領の市民たちはその事実を認められなかった。『私たちの中に、敵の内通者がいるに違いない』……そういう疑心暗鬼が瞬く間に広がりました」
疑心暗鬼になった集団……エミルは自分で経験したのだ。
「それである日……統治者のレーン伯爵に、匿名の密告が届きました。軍の若き士官である『ヘンリー』こそが敵の内通者だ……という密告でした」
「で、証拠はあったのか?」
「いいえ、具体的な証拠は何もありませんでした。ヘンリーの祖母がルケリア王国人だということ以外は」
「馬鹿な……」
俺が失笑すると、エミルも笑った。
「馬鹿馬鹿しい話に聞こえるでしょう? でも……その密告によって、レーン伯爵領の市民たちの怒りが爆発しました。一刻も早く『あの忌まわしい内通者』を処罰しろと、レーン伯爵に強く訴えました」
「で、お前があのヘンリーを調査したのか?」
「はい、首席法務官として……私がヘンリーを徹底的に調査しました」
エミルの顔が暗くなる。
「ヘンリーは、前の戦争でも活躍した若き人材でした。忠誠心も強くて、とても敵の内通者とは思えない人物でした。だがそれ故に……彼を嫉妬している人が多くて、少し孤立していました」
「なるほど」
「調査を続けても、彼が敵の内通者だという証拠は見つかりませんでした。それで私は『ヘンリーは敵の内通者ではない』という結論を出しました。しかし……市民たちは『ヘンリーが敵の内通者ではないという証拠も無い』と主張し出しました」
「そんな馬鹿な……」
「はい。『ないことの証明』なんて、極めて困難です。それは論理学の基本です」
エミルが苦笑いする。
「『私は完璧に無実だ』と証明出来る人間なんてほとんど存在しません。だからこそ告発する側に立証責任があるわけです。そして調査を続けても証拠が見つからない場合……別の答えを探してみるべきです。でも怒りに満ちた市民たちは……そんな私の言葉など、完全に無視しました」
「それで……レーン伯爵はヘンリーを処刑したのか?」
「……はい」
エミルは目を瞑って深呼吸した。
「レーン伯爵は市民たちの反発が怖くてヘンリーを処刑しました。そして最後まで処刑に反対した私を追放しました。それが……私が没落貴族になった理由です」
しばらく重い沈黙が流れた。エミルは……苦悩の表情をしていた。
「……私は悔しくて、悲しかったです。無実のヘンリーが処刑されたこと……そしてそれ以上に、私の故郷が疑心暗鬼の社会になったことが悲しかったです」
「同感だ。あんなのは……本当に悲惨で悲しいことだ」
「私はそのまま人間嫌いになり、ずっと西へ逃げました。持っていたものを処分しながら、死に場所を探していました」
「それで……あの小屋に辿り着いたわけか」
「はい」
エミルが俺を見つめる。
「私の小屋に『赤い化け物』が現れたあの日……私は無礼な言葉を口にしました。正直に言えば……『赤い化け物』に殴り殺されたかったのです」
「そうだったのか」
「しかし『赤い化け物』は、私の言葉に怒ったりせずに……むしろ私の事情を見抜いて、雇用したいと言い出しました。私は本当に驚きました」
「へっ」
俺が笑うと、エミルも笑った。
「あれから、私は『赤い化け物』の力に……総大将の強い意志に導かれて、ここまで来ました。そして気付きました。私にいくらいい考えがあっても……それを聞いてくれる主がいないと、何の意味も無いということに」
エミルが真顔で俺を見つめる。
「分かりましたか? 私のような者は、掃いて捨てるほどいます。しかし私のような者の話に耳を傾けてくれる主は……総大将しかいません。総大将に出会ったのは……私にとって掛け替えのない幸運なんですよ」
少し間を置いた後、俺は口を開いた。
「エミル。お前、カレンのことを……」
「はい、分かっています」
エミルが無表情で答えた。
「最初は、本当に彼女が私のことを嫌っていると思っていました。しかし……最近やっと気付きました。彼女の心に」
「……今からでも遅くないぞ」
「そうでしょうか。でも私は……」
エミルが視線を落とす。
「最初に言った通り、私は人間嫌いです。彼女の心に応えられるかどうか、自信がありません」
「それは俺にも分からない。でも……やってみないと、永遠に分からないままだ。学問を磨く者として、疑問を不明のままにするのは駄目だろう?」
「ふっ」
エミルが笑った。
「……かしこまりました。私に出来るかどうか、身を以て試してみましょう」
「それでいい」
俺は頷いた。それで俺たちの会話は終わり、各々の仕事に集中した。




