第370話.紛争の軌道
宮殿の大掃除は、ただ宮殿を管理するための行事ではない。王都の市民たちに『春の始まり』を告げる役割も持っている。国王の宮殿で大掃除が行われうことで、人々は『今年も春が来た』と認識するようになるわけだ。
凍りついていた大地を3月の太陽が優しく照らし、温めてくれる。それで人々は家から出て、また1年を生きるための活動を始める。
まず『緑色の区画』の農民たちが本格的に畑仕事を開始する。耕地と排水路を整備し、時期に合う作物の種をまいて、必要なら肥料を施す。農家の子供たちも、親を手伝って物を運んだり雑草を切ったりする。
『銅色の区画』の商人たちは、各々の店を掃除する。宮殿の大掃除ほどではないが、商人たちも本格的な商売の前に心機一転するわけだ。そしてそれは『灰色の区画』の貧民たちも同じだ。彼らも『平穏な1年になりますように』と、家の前を掃除する。
戦乱が続き、疲弊した時代にも……人々は生き残るために、幸せを掴むために頑張っている。彼らは願いを込めて春を迎えているわけだ。
そして大掃除が終わった日の夜、宮殿の大宴会場でパーティーが開かれた。そのパーティーは……ハリス男爵と森林偵察隊の送別会だ。
俺と俺の側近たち、ハリス男爵、森林偵察隊が大宴会場に集まった。大宴会場にはテーブルが並んでいて、ワインと食べ物が用意されていた。
「ロウェイン伯爵様! 皆さん! ありがとうございます!」
パーティーの主役であるハリス男爵が、大宴会場の真ん中で声を上げる。
「素晴らしい送別会、本当にありがとうございます! 私も隊員たちも一生忘れません!」
ハリス男爵は涙に潤んだ瞳で、みんなの顔を見渡す。
「私たちはこれで領地に帰還しますが、志はいつも皆さんと一緒です! また皆さんと一緒に戦う日をお待ちします!」
ハリス男爵がワインの入ったグラスを持ち上げる。
「では、ロウェイン伯爵様と皆さんのご健勝のために! 乾杯!」
ハリス男爵の合図に、俺たちは一緒にワインを飲んだ。そしてパイやケーキを食べ始めた。ハリス男爵はずっと「わはははっ!」と笑いながらパーティーを楽しんだ。
100人の森林偵察隊の方は、こういうパーティーにはあまり慣れていないみたいだ。普段着を着てテーブルに座り、食べ物を食べているけど……どこかそわそわしている様子だ。
無理もない。彼らは昔からハリス男爵領の森を守ってきた、規律の取れた精鋭部隊なのだ。宮殿でのパーティーなんて慣れるわけがない。でも……そんな厳粛な戦士たちも、今日はみんな顔が明るい。
「……いつも感謝しております、レッドさん」
パーティーの途中、ふとハリス男爵が俺に言った。
「前国王陛下の逝去後、戦乱が始まり……私たちは厳しい戦いをしてきました。でもレッドさんのおかげで……勝利を掴んで生き残ることが出来ました。アップトン女伯爵も、グレン男爵も、そして私も……レッドさんにはいつも感謝しております」
「こちらこそ、いつもありがとう。俺のことを信頼してくれて」
そう言ってから、俺はハリス男爵に1通の手紙を差し出した。
「レッドさん、これは……?」
「この手紙……アップトン女伯爵に届けてくれ」
俺は真剣な顔で言った。
アップトン女伯爵……つまりニーナはハリス男爵の上官であり、俺の女だ。各々の道を進んでいるから、今は会えないけど……彼女は程遠い場所からも俺を支援してくれている。逆に俺の方は……彼女のためにしてやれることがあまり無い。
せめてこの手紙で俺の気持ちがニーナに伝わるように……そう願うばかりだ。
「……分かりました。必ずお届けします」
ハリス男爵も真剣な顔で頷き、手紙を懐にしまう。
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翌日の朝、ハリス男爵と森林偵察隊が王都から出発した。多くの市民たちが西の城門に集まって、彼らの帰還を眺めた。
そしてその日の正午……中央広場にて、大事な発表が行われた。それは『税率の発表』だ。
「まだなのか……?」
「そろそろだと思うけど……」
中央広場に集まった市民たちは、緊張した顔で発表を待っていた。戦乱が始まってから、いや、前国王が就任してから……税率は上がりっぱなしだったのだ。
『赤い総大将が本当に税率を下げてくれるかどうか』……そのことに、全市民が注目している。これは『お金の問題』でもあるが……それ以上に『統治者に対する信頼の問題』でもある。
「道を空けろ! 王都警備隊だ!」
宮殿の方から数人の兵士が現れて、大声で叫んだ。市民たちが道を空けると、兵士たちは中央広場の真ん中まで行き……高い塔を登る。
「王都の統治者、レッド・ロウェイン伯爵の名において……今年の税率を発表する!」
塔の上から、1人の兵士がそう宣言した。市民たちが息を殺して彼を見上げると……兵士は真っ白くて長い布を塔にぶら下げる。その布に、今年の税率が書かれている。
「……下がった」
布の数字を確認した若い男が、そう呟いた。それと同時に周りの人々が「おお……」と感嘆の声を漏らす。
「本当だ、本当に下がった……」
「10年ぶり? いや……もっと前かな……」
市民たちはざわめきながら、信じられないと言わんばかりの顔で数字を何度も確認する。
「……ロウェイン伯爵様万歳!」
ふと誰かがそう叫んだ。それをきっかけに、市民たちは「ロウェイン伯爵様万歳! 万歳!」と叫び続けた。そんな彼らの声は……宮殿の会議室まで聞こえてきた。
俺は会議室の窓際に立って、しばらく市民たちの声を聞いた。
「良かったわね、レッド君」
いつの間にか1人のメイドが俺に近寄って、笑顔でそう言った。もちろんそれはただのメイドではない。俺の義姉である白猫だ。
「これで王都の市民たちも分かったはずだよね。レッド君が『言ったことを守る統治者』だということを」
「ああ、それが大事だ」
俺は腕を組んだ。
「お金や兵力だけが全てではない。統治者に対する市民たちの信頼が無いと……いくらいい政策を練っても、誰もついてきてくれない」
「そうだね」
白猫は妖艶な笑顔で俺の肩に手を乗せる。
「それで……どういう人だったの? アルデイラ公爵は?」
「またその話か。もう何度も説明したけどな」
「私は聞いてないわよ!」
白猫がほっぺたを膨らまして、俺は苦笑いしてしまった。白猫は任務のせいでエルデ伯爵の屋敷にいたから、俺の話を聞いていないのだ。
俺はため息をついてから、アルデイラ公爵について簡単に説明した。
「……何だ」
説明を聞いた白猫が、いたずらっぽい笑顔を見せる。
「予想通り、相当なクズだったのね。アルデイラ公爵は」
「まあな」
俺は慎重な顔で口を開いた。
「でも……そこがアルデイラ公爵の長所でもある。やつは……目的のためなら何でも犠牲にする人間だ」
「『何でも犠牲にする』ってのは違うでしょう? だってそういう人間は、自分自身だけは犠牲にしないからね」
白猫が愉快そうに笑う。
「それに比べて、レッド君はいつも最前線で戦っているんだから。偉い偉い」
「たぶん俺の方が例外中の例外だけどな」
俺はニヤリとした。
「ところで、レッド君」
白猫がいきなり真剣な顔をする。
「会談の時……アルデイラ公爵は100人の精鋭を連れていたんでしょう?」
「ああ、それが条件だったからな」
「レッド君なら……100人を倒してアルデイラ公爵を生け捕りにすることも出来たと思うけど」
「へっ」
俺は笑ってから、首を横に振った。
「俺もその可能性を考えてみた。しかし会談すると約束した以上、それを破るのは俺のやり方ではない」
「それがレッド君だからね」
「それに、もし俺があの場でアルデイラ公爵を攻撃したとしても……失敗したはずだ」
「……どうして?」
「『青髪の幽霊』がいたんだ」
俺の答えを聞いて、白猫の顔が強ばる。
「『青髪の幽霊』……あの3人組のことね」
「ああ、やつらのことだ」
異国から来た暗殺集団『青髪の幽霊』……俺と白猫は、もうやつらと何度も戦った。でも……やつらの実力ももう超人の域だったから、撃滅することは出来なかった。
「天幕の後ろに、あの3人がこっそり隠れていたのさ。もし俺がアルデイラ公爵に近づいたら……やつらが俺を攻撃したはずだ」
「あの3人にレッド君が負けたりはしないはずだけど、100人の精鋭もいたからね」
「俺は生き残るかもしれないが……ハリス男爵と森林偵察隊は大打撃を受けたはずだ。しかも……アルデイラ公爵には逃げられただろう」
「なるほど」
白猫が頷いた。そして彼女は少し考え込んでから、また口を開く。
「……やっぱり『青髪の幽霊』の雇い主はアルデイラ公爵だったわけね」
「今の時点では、当然の事実だけどな」
「青髪……」
白猫が小さな声で呟いた。俺は彼女の顔を見つめた。
「どうした、白猫?」
「あいつらの青い髪は……たぶん薬物実験の副作用だと思うわ」
「薬物実験?」
「うん」
白猫は自分の顔に手を伸ばし、指で眉をこする。それで化粧が消え、白猫特有の白い眉が見える。
「私、眉が白いでしょう? これ……自分の体で薬物実験を行った副作用なのよ」
「そうだったのか」
「うん。暗殺者として、毒物に対する耐性を身につける必要があったからね」
白猫がニヤリとする。
「たぶん『青髪の幽霊』も……私と同じことをしてきたに違いないわ」
「そうかもな」
しばらく沈黙が流れた。俺と白猫は、沈黙の中で強敵たちの姿を思い浮かべた。
「……エルデ伯爵夫人の安全なら、しばらく問題無いと思うわ」
ふと白猫が沈黙を破る。
「私の提案に従って、屋敷の防備をしっかりと強化しておいたからね。いくら『青髪の幽霊』でも、あれを短期間で突破するのは無理のはずよ」
「よくやってくれた」
俺が頷くと、白猫は俺の顔を注視する。
「レッド君」
「何だ」
「何か……心配しているの?」
その質問に、俺は苦笑いした。いつもは言動の軽い義姉だが……白猫の洞察力を誤魔化すことは出来ない。
「心配、というほどではないが……気になることがある」
「何が気になるの?」
「会談の時、アルデイラ公爵は……俺の側近たちにしか知らない情報を知っていたんだ」
「……まさか……」
白猫が目を丸くする。
「まさか……私たちの中に内通者がいるってこと……?」
「いや、まだ分からん」
俺は首を横に振った。
「敵を疑心暗鬼にさせて、同士討ちを誘導するのは陰謀家の常套手段だ。『俺たちの中に内通者がいる』と断定するのは、アルデイラ公爵の思う壺だ。でも……やつがどうしてそんな情報を持っていたのか、その仕組を解明しないと……厄介になりそうだ」
俺は窓の外を眺めた。王都地域を巡る紛争は……まだ勝者が決まらなかったのだ。




