第359話.同じ境遇
あの夜から3日後……俺は馬車に乗って、宮殿から『白色の区画』に移動した。
街中は雪が積もっていて、真っ白に染まっている。でも『白色の区画』の道路は綺麗に整備されている。貴族層の居住区画だから、もう私兵たちが除雪をしたんだろう。
「……ここは本当に別格だな」
俺は思わずそう呟いた。白色の区画に並んでいる屋敷は、どれも高い壁に囲まれていて、どれも巨大で、どれも美しい。こんな豪華な屋敷が何十軒も並んでいるなんて……ここでしか見れない光景だ。
「もちろんです」
向かい席に座っている少女がそう言った。金髪に金色のドレスの少女……デイナ・カーディアだ。
俺とデイナは一緒にエルデ伯爵の屋敷に向かっている。エルデ伯爵夫人との約束通り、お茶会に参席するためだ。
デイナは美しい青い瞳で俺を見つめる。
「この『白色の区画』は、貴族層の集まる場所……つまるところ、貴族たちが自分の富を誇示する場所でもあるのです」
「富を誇示する、か……」
俺は苦笑した。
「理解出来なくもないが、俺にはちょっと合わないな。俺なら、誇示のために豪華な屋敷を建てるより……そのお金で軍備を増強したい」
「レッド様は、今も貴族というより軍人ですからね」
デイナが微かに笑った。
「しかし富を誇示することも立派な戦略です。お母様は……」
デイナは視線を落として、話を続ける。
「お母様は、いつもこう仰いました。『富を誇示することは、人々を従わせる最も簡単な方法の1つだ』と」
「流石『金の魔女』カーディア女伯爵だ」
俺は素直に頷いた。
「カーディア女伯爵は、王国最大の金山を所有しているし……彼女の富は国王にも負けないくらいだからな」
「……それはもう昔のことです」
「何?」
俺が首を傾げると、デイナは笑顔を見せる。
「噂、聞いたことありませんか? お母様の所有している金山の大半は、すでに鉱脈が枯渇状態……または枯渇寸前なのです」
「あの噂か」
俺は顎に手を当てた。数ヶ月前、クレイン地方を旅していた時……情報部員のオリバーさんから聞いた噂だ。
「じゃ、あれは本当だったのか」
「はい、お母様は平静を装っていますが……実は相当厳しい状況のようです。前国王の死後、いきなり戦争を起こしたのも経済的な窮地を脱するための行動だったに違いありません。まあ、レッド様に負けてしまいましたけど」
「やっぱりそういうことか」
「私をどうしてもレッド様に嫁がせようとしたのは……戦争の失敗を誤魔化すための策でしょう」
デイナは自分の母親の戦略について淡々と話した。俺はそんなデイナを凝視した。
「どうやら母親のことを振り切ったようだな、デイナ」
「さあ……?」
デイナは自分の真っ白な手のひらを見つめる。
「……レッド様と一緒に踊ったあの夜以来、私の中で何かが変わったのかもしれません。もうお母様のことが……怖くなくなった」
「ほぉ」
「もっと正確に言えば、お母様のことが可哀想になってきました」
「可哀想だと?」
「はい」
デイナはいとも冷静な顔だ。
「お母様は……いつも何かに怯えていた。権力を失うことに、富を失うことに、歳を取ることに……ずっと怯えていた。だからこそ自分の力を誇示し、見栄を張って、男たちを誑かし……家族たちに高圧的な態度を取った」
「なるほどね」
「『金の魔女』なんかではない。お母様も結局……1人の人間に過ぎなかったのです。私と同じく、自分の弱いところを隠している人間だったのです。私はやっとそのことを心から認められるようになりました」
「本当に吹っ切れたようだな。それでいい」
俺は腕を組んで頷いた。
「男性恐怖症の方はどうだ? それも治ったか?」
「いいえ、そんな都合よくはいかないみたいです」
デイナがいたずらっぽく笑う。
「今も男性の体には触れたくありません。レッド様を……除けば」
「そうか。子供の頃に負った心の傷は深く残ると言われているからな。回復するには時間がかかるかもな」
俺の答えを聞いて、デイナは俺の顔をじっと見つめる。
「……レッド様の方はどうですか?」
「俺?」
「私と踊ったことに対して、シェラさんとシルヴィアさんから小言を言われたでしょう?」
「へっ」
俺は軽くため息をついた。
「仕方無いさ。シェラとシルヴィアに『踊らない』と言ったことが、結果的に嘘になっちまったからな。でも……2人は別に怒ったりはしなかった。むしろすぐ理解してくれたのさ」
「あの2人ならそうでしょうね」
デイナが頷いた。
「以前、私が言いましたよね? シェラとシルヴィアさんが私のことを牽制しているみたいだと」
「ああ、言ったな」
「それ、完全に私の被害妄想でした」
デイナがニヤリとする。
「自分自身に対して自信が無いから、周りから攻撃されていると勘違いしていただけでした。つまり……私はただの被害妄想の女でした」
「よくあると言えばよくあることだ。俺にもそんな時期があった」
俺は自分の真っ赤な手を見つめた。
「人間、肯定的な面だけ持っているわけではない。否定的な面も持っているさ。誰しも」
「それは……そうですね」
「大事なのは、自分の否定的な面を認識して……振り回されないことだと思う」
デイナは真剣な顔になり、俺を直視する。
「じゃ、レッド様も否定的な面をお持ちでいらっしゃいますか?」
「もちろんだ」
俺は軽く拳を握った。
「もうみんな知っていると思うが……俺は暴力が好きだ。強敵と命をかけて戦う時が……楽しくてたまらない」
「確かに……レッド様は戦闘になると一層元気になりますよね」
「頭ではわかっているさ。総指揮官の俺が、最前線で戦うのは危険だということくらい。しかし……辞められないんだな、これが」
デイナはしばらく俺を見つめてから、口を開く。
「でも……レッド様が果敢に戦うから、周りの皆さんは勇気付けられるわけでしょう?」
「そうかもしれない」
「それに……私はレッド様のことが……」
デイナが何かを言おうとした時、馬車が止まる。エルデ伯爵の屋敷についたのだ。
俺とデイナは馬車から降りて、エルデ伯爵の屋敷に入った。この屋敷の美しい庭園も、今は真っ白に染まっている。
庭園の真ん中へ進むと、青いドレスを着ている妖艶な女性が現れる。エルデ伯爵夫人だ。
「ご訪問、感謝致します。ロウェイン伯爵様、デイナ嬢」
エルデ伯爵夫人は笑顔で俺たちを迎えてくれた。
「今日は最上級の紅茶を用意しております。さあ、どうぞこちらへ」
「ああ」
俺たちはエルデ伯爵夫人の案内に従って、屋敷の玄関を潜り抜けた。
「エルデ伯爵はどうしているんだ?」
「夫は……静養中です」
「静養?」
「はい、新年パーティーで少し無理したみたいなので」
「そうか」
馬車で移動したとはいえ、体の弱いエルデ伯爵にとって真冬の外出は厳しかったんだろう。
「衛兵にケーキを持ってこさせた。後でエルデ伯爵と一緒に食べてくれ」
「ありがとうございます」
しばらく歩いて、俺たちは応接間に入った。広すぎず狭すぎず、穏やかな雰囲気の応接間だ。壁付暖炉にはもう火がついていて、まるでこの部屋だけ春みたいだ。
俺とデイナとエルデ伯爵夫人がソファーに座ると、メイドたちが紅茶を運んできた。部屋中に紅茶の渋い香りが広がる。
俺たち3人は一緒に紅茶を1口飲んだ。
「……クレイン地方の紅茶ですね」
デイナがそう言うと、エルデ伯爵夫人が頷く。
「クレイン地方の特産品です。私の大好物でもあります」
「そうですか」
デイナが仮面のような笑顔を見せる。デイナの母親であるカーディア女伯爵は、クレイン地方の支配者だ。
それからデイナとエルデ伯爵夫人は、紅茶についていろいろ話し合った。南の地方の紅茶の味はどうだとか、何分蒸らした方が好きだとか、紅茶と一緒に食べるものは何がいいとか……正直俺にはよく分からない話だ。俺は紅茶を飲みながら、2人の話を静かに聞いた。
「……やっぱり似ていますね、私と」
ふとエルデ伯爵夫人がそう言った。デイナは首を傾げる。
「似ている……と仰いますと?」
「デイナ嬢は……男性恐怖症でしょう?」
エルデ伯爵夫人の言葉に、デイナは何の反応も見せなかった。
「隠す必要はありません」
優雅な動作で紅茶を飲んでから、エルデ伯爵夫人は話を続ける。
「あのカーディア女伯爵の長女であるデイナ嬢が、パーティーで踊れないということはこの王都でも少し話題になりました。しかしその理由については誰も分からなかったのですが……私はデイナ嬢の挙動を見て理解しました。つまるところ、男性恐怖症だと」
デイナはその言葉にも反応せずに、無表情で紅茶を飲んでから口を開く。
「では……伯爵夫人も男性恐怖症をお持ちですか?」
「いいえ、私の場合は『人間恐怖症』です」
俺は内心驚いた。それはデイナも同じだ。王都の貴族層の代表であるエルデ伯爵夫人が人間恐怖症だなんて。
「私は……幼い頃から父上に厳しい教育を受けました。特に……人間の陰湿さについて」
エルデ伯爵夫人は淡々と話す。
「父上はこう言いました。『人間の陰湿さを把握して、それを上手く利用せよ』と。その言葉に従って、私は人間の陰湿さを何度も見てきました」
温かい応接間の空気が、音もなく凍っていく。
「どう見ても善人にしか見えない人が、自分の妻を毒殺したことも見ました。とある夫婦は、友人を殺してその罪を政敵に擦り付けました。遺産のために親を殺した人なんて、何人もいました」
エルデ伯爵夫人は仮面のような笑顔を崩さない。
「私は父上の期待通り……それらの陰湿さを利用して、成果を上げました。しかしその裏では……人間が怖くてたまらなかったわけです」
俺とデイナは息を殺して、エルデ伯爵夫人の柔らかい声に耳を傾けた。
「そして8年前……私は夫と結婚することになりました。当時の夫は、前国王の親友として王都の貴族層をまとめていたので……その力を利用するために、父上は私と夫を結婚させたのです」
俺は内心頷いた。エルデ伯爵夫人の父上であるアルデイラ公爵は、8年前から王都を手に入れる準備をしていたわけだ。
「夫と出会う前日、父上はこう言いました。『エルデ伯爵を上手く利用して、王都の貴族層を抑えろ』と。その言葉に従って、私は最初から夫を騙すつもりでした。しかし……いざ夫に出会ってみたら……」
エルデ伯爵夫人が少し恥ずかしそうな笑顔になる。
「とても驚きました。夫は……純粋過ぎる人でした。貴族社会の陰謀とはまるで無縁の……平民の少年みたいな人でした。そんな夫と話していると、自分のやっていることが馬鹿馬鹿しくなって……」
エルデ伯爵夫人はデイナの顔を見つめる。
「信頼という言葉の意味も、愛情という言葉の意味も、全部夫から学びました。夫との出会いによって、私はもう人間が怖くなくなりました。そう、まるで……今のデイナ嬢のように」
デイナは強張った顔で何も言わない。
「デイナ嬢も、ロウェイン伯爵様との出会いで分かったはずです。信頼出来る人の存在こそが……勇気を与えてくれるものだと」
「私は……」
「あの夜、お2人方の踊りを見て……私は思い出しました。夫と始めて踊った夜のことを」
エルデ伯爵夫人が笑顔を見せる。
「デイナ嬢」
「はい」
「同じ境遇の人間として、1つ忠告させて頂きたいことがあります」
「何でしょうか?」
「自分の心に……素直になった方がいいです」
そう言いながら、エルデ伯爵夫人は俺の方をそっと見つめた。デイナは頬を赤らめて ……黙り込んでしまう。
「ロウェイン伯爵様」
エルデ伯爵夫人が俺を呼んだ。
「デイナ嬢と私の会話はこれで終わりです。どうぞ本題を進めてください」
「……ああ」
俺は驚きを隠して、話題を変えることにした。




