第349話.見解の違い
警備隊本部での仕事を終えた俺は、馬車に乗って宮殿に戻った。
馬車が中央広場を通って宮殿に辿り着いた頃には、もう空が暗くなっていた。午後5時……王都の市民たちも1日を終えて、夕食の準備をする時間だ。
宮殿に入って俺は、まず自分の部屋で体を洗った。メイドたちが俺の帰還に合わせて浴槽にお湯を溜めておいた。おかげで俺は時間を浪費することなく体を洗い、次の仕事のために会議室に向かった。
「レッド!」
会議室には短めの茶髪の少女が俺を待っていた。俺の婚約者であるシェラだ。彼女は俺の秘書としての仕事もこなしている。
「訓練、お疲れ様!」
シェラが明るい笑顔で俺に近寄る。俺は腕を伸ばして彼女を抱きしめた。
「な、何するの!?」
「お前を抱きしめていれば、疲れが取れるのさ」
「もう……何言っているのよ」
シェラはしばらくじっとしていたが、はっと気がついて俺から離れる。
「ま、まだ仕事が残っているわよ! ほら!」
赤面になったシェラがテーブルの上を指差す。そこには数枚の報告書が置いてある。
「報告書をまとめておいたの! 早く確認してね!」
「分かった。ありがとう」
俺は苦笑してから、テーブルに座って報告書を読み始めた。主に王都法務部の報告書だ。
「俺のいない間、異常はなかったのか?」
報告書に視線を固定したまま聞くと、シェラが少し考えてから答える。
「異常……というわけではないけど、レッドに面会を要請した人がいる」
「誰だ?」
「商人代表の『ネッド』という人よ。レッドの統治を支持して、いくらか支援金を出したいとか言ってきたの」
「へっ」
俺は笑ってから首を横に振った。
「断っておけ。そういう話は受け付けない」
「どうして?」
シェラが首を傾げる。
「今私たちは資金難でしょう? 商人代表の支援金があれば、かなり役に立つと思うけど」
「商人がただで支援金を出すはずがあるか」
俺はニヤリとした。
「あいつの支援金を受け取ると、俺はあいつの便宜を図るしかなくなる」
「それは……」
「王都行政部はあくまでも統治者の俺の意思で動くべきだ。商人の利権の餌になってはいけない」
「そうね。じゃ、断っておく」
シェラは頷いてから、話題を変える。
「今晩の予定は『エルデ伯爵夫人との食事』だけど、どうする? 参席する?」
「もちろんだ」
俺が即答すると、シェラが目を細める。
「ずいぶんと乗り気だね」
「どういう意味だ?」
「私、聞いたよ。エルデ伯爵夫人もかなりの美人だってね」
「いやいやいや」
俺は笑ってしまった。
「一体何を考えているんだ? まったくそういう話ではないぞ」
「その言い訳、確かアップトン女伯爵の時も使ったよね」
「うっ……」
痛いところを突かれた。しかし俺は敗戦を認めなかった。
「……確かにエルデ伯爵夫人は美人かもしれない。しかし彼女は夫のことを深く愛している。ちょっと危険なほどに、な」
「危険なほどに夫を愛している……か」
シェラが視線を落とす。
「……ちょっと理解出来るかも」
「それはどういう意味だ?」
「『恋する女は怖い』ってこと」
シェラが意味有りげな視線を送ってきた。俺は戦慄した。
「ど、どうしてそんな顔で俺を見つめるんだ?」
「レッドも気を付けた方がいいわよ」
シェラの顔に笑みが浮かぶ。妖艶で危険な笑みだ。
「レッドのことが好きな女の子が4人もいるからね。いつ何が起きるか分からないの」
「……4人?」
俺は首を傾げた。
俺に恋心を持っている女の子は……婚約者のシェラとシルヴィア、そしてニーナ・アップトン女伯爵の3人だ。白猫や黒猫も俺に好意を持っているが、あくまでも家族としての愛情だ。
「どうして4人だ? まさかアイリンのことを言っているのか?」
「あ」
シェラが慌てて自分の口を手で覆う。
「し、失言だったの。気にしないで」
「怪しいな……」
シェラは何か隠している様子だけど……ま、この話題はここまでにしよう。
「とにかく、エルデ伯爵夫人は王都の貴族層の代表だ。動向を探る必要がある。それに……彼女は何か大事な情報を知っているに違いない」
「分かった。じゃ、お土産を持っていってね。手ぶらは駄目でしょう?」
「そうだな。宮殿の貯蔵室から高級ワインを1本持っていけばいいだろう」
俺が頷くと、早速シェラがメイドを呼び出してワインを用意させた。統治者の婚約者として、もうシェラは宮殿のメイドたちを率いていた。
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それから1時間後、俺は礼服に着替えて馬車に乗った。そして貴族層の居住区である『白色の区画』に向かった。
馬車は広くて綺麗な『白色の区画』の道を進み、やがて巨大な屋敷の前で止まった。エルデ伯爵夫人の屋敷だ。俺が馬車から降りて屋敷に近づくと、門番が頭を下げて扉を開けた。
「ロウェイン伯爵様」
美しい庭園の方から、エルデ伯爵夫人が姿を現した。今日の彼女は真っ白なドレスを着ていた。
「ご訪問、誠に感謝致します」
「今日はお土産を持ってきたよ」
俺が目配せすると、衛兵の1人が小さな木箱を持ってきた。するとエルデ伯爵夫人の後ろに立っていたメイドがそれを受け取った。
「宮殿に保管されていた高級ワインだ。後でエルデ伯爵と味わってくれ」
「ありがとうございます」
エルデ伯爵夫人は、名画の中の貴婦人のように緩やかに笑う。
「では、どうぞこちらへ。夫が待っております」
「ああ」
俺はエルデ伯爵夫人と一緒に屋敷に入り、廊下を歩いて食堂に入った。広い食堂の中には、1人の若い男性がテーブルに座っていた。エルデ伯爵だ。
「ロウェイン伯爵様!」
エルデ伯爵が俺を見て笑顔を見せる。
「座ったまま挨拶すること、お許しください」
「いいんだ、気にするな」
俺はエルデ伯爵の真正面に座った。
エルデ伯爵は5年前の馬車事故のせいで両足が不自由だ。それに元々あまり元気な人ではなかったらしい。
エルデ伯爵夫人が夫の隣に座ると、メイドたちが食べ物を運んできた。今日の本番はチキンの丸焼きだ。独特なソースのおかげで新鮮で深い味がする。
食事の途中、エルデ伯爵は俺にいろいろ聞いてきた。主に戦争や戦闘についてだ。
「ロウェイン伯爵様の得物は巨大な戦鎚だとお聞きしました!」
「ああ、『レッドドラゴン』という戦鎚を使っている」
「あれを本当に片手で扱っていらっしゃるのですか?」
「両手で扱う時もあるけど、大体は片手だな」
俺はなるべく真面目に答えた。
「普通は……あんな鉄の塊を片手で扱ったら、均衡が崩れてまともに戦えない。でも俺は見ての通り体重がかなり重いんだ。だから戦鎚の重さに振り回されずに戦えるのさ」
「なるほど……!」
エルデ伯爵が素直に関心する。
前回の食事会でもそうだったけど、この若い伯爵は俺と話すのが楽しくて仕方無いみたいだ。俺が戦略戦術や武器術などについて話すと、目を輝かせて耳を傾ける。本当に城下町の少年みたいだ。
やがて食事が終わり、エルデ伯爵は疲れて先に退場した。それで俺とエルデ伯爵夫人は紅茶を飲みながら2人で話し始めた。前回と同じだ。
「夫はロウェイン伯爵様のお話を聞くのが本当に好きなようです」
紅茶を1口飲んでから、エルデ伯爵夫人がそう言った。
「あの人がここまで楽しく食事するのも久しぶりです」
「俺も楽しんだよ」
「楽しんで頂けると幸いでございます」
エルデ伯爵夫人は暖かい笑顔を見せる。俺が自分の夫と親しく話してくれて嬉しいみたいだ。
俺たちはしばらく沈黙の中で紅茶を楽しんだ。そして紅茶を飲み干した瞬間、雰囲気が変わった。
「……例の件はどうなっているんだ? エルデ伯爵夫人」
「貧民層に対する救済活動のことですね」
俺の突然の質問にも、エルデ伯爵夫人は動揺することなく答えた。
「大変申し訳ございませんが、あの件に関しては少々お待ち下さい」
「意外と手間取っているようだな」
俺はニヤリとした。
前回の食事会で、俺とエルデ伯爵夫人は約束を交わした。『王都の貴族層が貧民救済を行うと、俺も貴族層に寛大にしてやる』という約束だった。
しかし……どうやら王都の貴族層は、貧民救済に興味が無いみたいだ。
「当ててみようか?」
俺は笑顔で言った。
「『貧民たちの暴動はレッドが阻止した。だからもう貧民救済を行う必要も無いのではないか?』……貴族たちはそう言っているんだろう?」
「……仰る通りです」
エルデ伯爵夫人の顔に微かな笑みが浮かぶ。
「まだ理解していない人が多いです。平民たちの不満が高まり、反乱が起きたら……貴族も貴族でいられなくなるということを」
「ほぉ」
俺は関心した。
「あんたはこの王国の頂点の1人であるアルデイラ公爵の長女だ。言わば貴族の中の貴族さ。それなのに……貴族層の愚かさを嘲笑っているのか」
「ふふ」
エルデ伯爵夫人が優雅に笑った。
「私が組織論を勉強していた時、父上はこう言いました。『愚かな人間はどこにもいる。王族の中にも、貴族の中にも、平民の中にも』……と」
「なるほどね」
俺はニヤリと笑った。
「やっぱり想像とは違うな」
「想像……ですか?」
「ああ、昔の俺は……大貴族はみんなわがままで馬鹿な連中だと想像していた。しかし……いざ公爵たちやその子息と話してみると、想像とはまるで違う。手強い相手ばかりだ」
「ふふ」
エルデ伯爵夫人がもう1度笑った。
「もし大貴族がみんなわがままで愚かな人々でしたら……ロウェイン伯爵様は既に王国全体を掌握なさったでしょう」
「……そうかもな」
この女……俺の野心に気づいている。いや、もう大貴族たちはみんな俺の野心に気づいている。
「私からすれば……ロウェイン伯爵様こそ、私の想像を超えています」
「どういう意味だ?」
俺が首を傾げると、エルデ伯爵夫人は微かな笑顔で説明を始める。
「大変失礼ですが、ロウェイン伯爵様は貧民だったとお聞きしております」
「ああ、そうだ」
俺は軽く頷いた。
「子供の頃は、こんな豪華な屋敷で食事することになるとは想像も出来なかった。毎日毎日……生き残ることに精一杯だった」
「……つまりロウェイン伯爵様にとって、お金持ちや貴族は憎しむべき存在だったはず。王都の貴族層を弾圧する可能性もあると思いました。しかし……ロウェイン伯爵様の統治はあくまでも合理的です」
「俺は別に貴族を憎んでいるわけではないさ」
俺は笑った。
「貧民だった頃、俺はいつも不良たちに殴られた。あいつらは……別にお金持ちでも貴族でもなかった。貧民が同じ貧民を殴ったのだ」
「そうですか」
俺とエルデ伯爵夫人の視線がぶつかった。
「俺は『貧民は善、貴族は悪』と言いたいわけではない。貧民にもいろんなやつがいて、貴族にもいろんなやつがいる。俺はそれをこの目で直接見てきた。だから……俺の敵は貴族層ではない」
「……とおっしゃいますと?」
「俺の道を阻む者が……俺の敵だ。王族だろうが、貴族だろうが、平民だろうが……関係無い」
「なるほど……敵は誰であっても容赦しない、ということですね」
エルデ伯爵夫人が頷いた。
「でもロウェイン伯爵様は、自分の領民たちに対しては寛大だとお聞きしました。驚くほどに」
「当然だ。王だって1人で成り立つわけではない。領民がいないと、王はただの道化師に過ぎない」
「ふふふ」
エルデ伯爵夫人がまた笑った。だが今度は……何か楽しんでいるような笑いだ。
「そういう見解は始めてです。しかし……仰る通りかもしれませんね」
「別にあんたに俺の考えを強要するつもりは無い。俺の道を阻まないなら……あんたが何を信じようが、俺には関係無い」
しばらく沈黙が流れた。重い沈黙の中で、俺とエルデ伯爵夫人は互いを観察した。
「……1つお教えください」
「何だ?」
「ロウェイン伯爵様は……敵の娘とその夫も寛大に許してくださいますか?」
「もう言ったはずだ」
俺はエルデ伯爵夫人の顔を直視した。
「俺の敵は、俺の道を阻む者だ。それ以外は敵ではない。誰の娘であろうが、誰の夫であろうが関係無い。身分や家族関係などどうでもいい。俺が見るのは……行動だけだ」
「……かしこまりました」
エルデ伯爵夫人がゆっくりと頷いた。それで今日の会話は終わった。




