第331話.主無き宮殿
王国歴537年11月10日……朝の冷たい空気と温かい日差しが交差している中、王都の主が変わった。
この時点で、王都の主が変わったことに気づいた者はほとんどいない。俺のすぐ隣に立っている白猫すら、まだ驚いている様子だ。
もちろん王都の官吏たちも……まだ異変に気づいていない。俺の行動を予想している人間なんて1人もいない。そしてみんなが驚愕している間にも……俺は進み続ける。
「ガビンさん」
俺が呼ぶと、王都警備隊隊長のガビンが頭を下げる。
「はい、伯爵様」
「伝令を送って、北の城門を開くように指示してくれ」
「北の城門を……ですか?」
「ああ」
俺は頷いた。
「俺の別働隊が北の城門の近くに潜伏している。彼らを王都の中に招き入れるんだ」
「かしこまりました」
ガビンは早速2人の兵士を呼んで指示を出す。2人の兵士は指示を聞いて、北に走っていく。
「白猫」
「うん」
「北の城門が開かれたら、ハリス男爵にこう伝えてくれ。『中央広場でレッドが待っている』と」
「分かったわ」
白猫も北に向かって走る。
もう王都は俺のものだが、まだ王都の隅々まで掌握しているわけではない。こういう時こそ、ハリス男爵と彼の『森林偵察隊』が必要だ。
俺は足を運んで、2000人の貧民たちに近づいた。彼らは100人ずつ20部隊に編成されている。そしてジャックを含めて20人の部隊長が、各部隊を統率している。まだ未熟だけど……軍隊としての形になっている。
「各部隊長はよく聞け」
俺は部隊長たちを集めて指示を出した。
「これから中央広場に進軍する。許可無しで隊列から離脱したり、一般市民に危害を加えたりする者は……問答無用で処刑する。そのことを肝に銘じておけ」
20人の部隊長が「はっ!」と一斉に応える。
「では……先頭のジャックの部隊から俺についてこい」
俺は大通りに向かって歩いた。すると2000人が列に並んで、俺について歩き出す。
鳩さんは俺のすぐ後ろを歩いた。ガビンと警備隊も、俺たちの横で移動し始める。
「あ、あれは……」
「本当だ……! 本当に肌が赤い!」
大通りに集まっていた数千の市民たちが、俺の姿を見てざわめく。噂の『赤い化け物』の出現に、みんな驚愕する。
「これ、どうなっているんだ……!?」
「どうして警備隊まで……?」
市民たちが驚愕しているのは、俺の姿のせいだけではない。今の状況がまったく理解できないのだ。まあ、それでいい。
市民たちがどんどん集まってきて、大通りに並んで俺たちを眺める。俺たちは無数の視線を浴びながら、堂々と歩き続けた。
「祭りでもないのに、こんな大人数が1つの場所に集まるなんて……」
隣から鳩さんが呟いた。
「頭領様の行動は、確実に時代を作っていますね」
その言葉を聞いて、俺は無言で頷いた。
しばらく大通りを進み……やがて俺たちは中央広場に進入した。中央広場はとてつもなく広くて、数万人が集まれる場所だ。
俺はそのまま中央広場の真ん中まで行った。そこには大きな塔があり……30体以上の遺体がぶら下がっている。
「進軍を停止する」
俺が合図を送ると、2000人が歩みを止める。
「ガビンさん」
「はい、伯爵様」
「あの遺体たちを……丁寧に下ろしてくれ」
「かしこまりました」
ガビンが指示を出すと、塔を守っていた兵士たちが動いて遺体を下ろす。1週間も苦しめられていた死者たちも、これで安息を迎えることができる。
「ううっ……」
貧民たちの中から泣き声が聞こえてくる。たぶん死者の家族か友人なんだろう。
「ジャック」
「は、はい!」
ジャックも泣いていた。彼は急いで涙を拭いて、俺に頭を下げる。
「何なりとおっしゃってください、伯爵様!」
「部隊を率いて、あの遺体たちを墓地まで運び……丁寧に埋蔵するように」
「はい……ありがとうございます……!」
ジャックはまた涙を流しながら俺の指示を移行する。彼の部隊は警備隊と協力して、遺体たちを運んで墓地に向かう。
「残りはこのまま警備隊本部に向かう」
俺は部隊を率いて、中央広場の北に向かった。中央広場の北には、中規模の要塞がある。この要塞が王都警備隊の本部だ。
「ガビンさん。俺の兵士たちを、しばらくここで泊まらせてくれ」
「2000人を、ですか」
ガビンはしばらく考えてから頷く。
「確かに収容は可能です。しかし……急なことですので、彼らの分の食料などを用意するにはかなりの予算が必要です」
「まあ、そうだろうな」
俺は苦笑いした。
「でも心配するな。王都財務官がお金を出してくれるさ」
「かしこまりました」
ガビンが頷いた。
それから警備隊に協力してもらって、2000人を警備隊本部に駐屯させた。ここで訓練を行えば、彼らも立派な兵士になれるだろう。
「よし、次は……」
俺は鳩さんとガビン、そして少数の兵士だけを率いて警備隊本部から出た。まだ大事な仕事が残っている。
「レッドさん!」
その時、誰かが俺に駆けつけてきた。まるでパン屋の店主みたいな印象の男性だ。彼の後ろには約100人の弓兵が並んでいる。
「ハリス男爵」
俺は笑顔を見せた。ハリス男爵が自慢の『森林偵察隊』を率いてきたのだ。
「こ、これは……どういうことでしょうか!? 私にはまったく……」
「落ち着いてくれ」
慌てているハリス男爵を見て、俺はニヤリとした。
「何、簡単なことさ。俺は王都で兵士を2000人雇用することにした。そして王都警備隊も俺の傘下に入ることになったんだ」
「そう言われても……理解が……」
ハリス男爵が自分の頭を抱える。
「後でゆっくり説明してやるから、とにかく今は俺についてきてくれ」
「はい、分かりました。レッドさんについて行けば、万事解決でしょう!」
ハリス男爵は理解を諦めて、笑顔を見せる。
「レッド君」
いつの間にか白猫が俺の側に近寄って、いたずらっぽい笑顔を見せる。
「まさか王都に無血入城するなんてね。巨大な守護の壁も……レッド君を止めることは出来なかったわけだ。流石私の弟だわ」
「へっ」
俺は笑った。
「あまり油断するな、白猫。まだやるべきことが残っている」
「うん、分かっている」
白猫が目を輝かせる。
「王都行政部を制圧するべきなんでしょう? この王都を完全に手に入れるために」
「ああ、その通りだ」
俺は頷いた。
「中央広場の北に位置する、『金色の区画』……そこに国王の宮殿がある。『主無き宮殿』がな」
白猫と鳩さん、ハリス男爵とガビンが俺を見つめる。
「俺はこれからあの『主無き宮殿』を制圧する。皆の力を貸してもらうぞ」
4人が「はっ」と応える。これでいい。
「では、俺についてこい」
俺は4人と少数の兵士たち、そして森林偵察隊を率いて進軍した。王都の心臓に向かって。
いつの間にか中央広場にも大勢の市民たちが集まって、俺の行動を注視している。驚いている人も、恐れている人も、興奮している人もいるけど……誰も俺を止めることはできない。
「レッド君」
進軍の途中、白猫が小さな声で話しかけてきた。
「どうした、白猫?」
「あのガビンという人……信頼できる?」
白猫は少し離れているガビンの方をちらっと見た。彼のことを警戒しているのだ。
「別に問題無いだろう。見たところ、彼も官吏たちに対して不満を持っていたようだしな」
俺はすぐ隣の鳩さんを見つめた。
「どうだ、鳩さん? ガビンの人柄について、何か知っているか?」
「申し訳ございませんが、大した情報は持っておりません」
鳩さんが小さな声で言った。
「しかし……少なくとも、ガビンさんが悪事を行ったという話はありません。警備隊隊長に就任してから4年間、命令を忠実に遂行してきた人物……という印象です」
「それはそうだろうな」
俺は軽く頷いた。
「ガビンが強欲な人間だったら、王都はもう地獄になっていたはずだ。しかし彼はこんなご時世にも自重してきた。その点は高く評価できるだろう。それに……」
俺は微かに笑った。
「もう俺に協力してしまった以上、ガビンには他の道が無いんだ。もし俺が失敗してしまったら……彼は『反逆者』になるからな」
「なるほどね」
白猫もニヤリと笑った。
「ガビンとしては、このままレッド君に必死に協力するしかないわよね。『勝てば官軍負ければ賊軍』……彼はもうその分かれ道に立っているわけだから」
「そういうことだ」
俺は頷いた。
しばらくして、俺たちは中央広場から石橋を渡り……『金色の区画』に辿り着いた。検問所の兵士たちが驚いて俺たちを止めようとしたが、ガビンの顔を見て引き下がる。
そして検問所の向こうには……真っ白な建物がある。規格外の巨大さを誇る建物が。
4階建てで、ざっと数えても部屋の数は数十を超える。中央と左右には高い塔がついてあり、威厳を感じさせる。正面の大きな玄関の上には、美しい女神の彫刻がついている。優雅さと雄々しさを併せた、壮大な建物……これが国王の宮殿だ。『主無き宮殿』だ。
国王の執務室や王都行政部も宮殿の中にある。王都が『王国の心臓』ならば、この宮殿は『王都の心臓』だ。ここを制圧する者が……王国を制圧する。
「ハリス男爵」
「はい」
「森林偵察隊を率いて、宮殿の周りを封鎖してくれ。誰1人も……逃がすな」
「はい!」
ハリス男爵と100人の森林偵察隊は素早く動いて、宮殿の周りを封鎖する。彼らは少数だが、こういう任務に最適だ。
警備隊の兵士の場合、官吏たちと通じている可能性がある。逆に貧民たちの場合、官吏たちを憎悪して問題を起こす可能性がある。しかし森林偵察隊なら……徹底に、冷静に任務を遂行してくれるだろう。
もうこれで宮殿からは誰も逃げられない。俺は堂々と進んで、宮殿の玄関の前に立った。すると玄関を守っていた衛兵たちが、困惑の顔で俺を見つめる。
「ど……どういうご要件でしょうか? ここは……」
「宮殿だろう? 俺も分かっている」
俺はニヤリとした。
「俺はレッド・ロウェイン伯爵だ。今日から王都は俺が統治する」
「それは……」
「道を空けろ」
俺の言葉に、衛兵たちは一瞬戸惑ったが……結局引き下がる。
俺は玄関に近づいて、巨大な扉を開いた。たぶん……どんな王族も、どんな貴族も、自分の手で直接宮殿の扉を開いた者はいないだろう。そんなことを考えながら、俺は宮殿に入った。




